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【大航海時代】新大陸メキシコに渡った日本人の記録

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様々な形で太平洋を渡った名もなき日本人たち

1639年に徳川家光が鎖国体制を完成させるまでの16世紀から17世紀前半までは、史上類を見ないほど日本人の海外進出が盛んな時期でした。

ベトナムのホイアンやフィリピンのマニラなど東南アジア各地に日本人町を作って商業活動を行う者もいれば、アユタヤの山田長政のように政治・軍事にまで介入する者、また末端では傭兵や奴隷としてポルトガル人やスペイン人の下で働く事例も数多くありました。

中には太平洋を超えて新大陸に渡ったり、大西洋を超えてヨーロッパに渡った事例もあります。

 

1. メキシコに連れて行かれた日本人奴隷

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太平洋の奴隷交易

1565年、フィリピンのマニラからメキシコのアカプルコを結ぶガレオン船の航路が開通し、メキシコからは大量の銀、マニラからは中国製の陶磁器や絹製品などが流通するようになりました。

モノと情報の流通が活発になると、それに吸い寄せられるように様々な種類の人が同ルートを通って太平洋を渡るようになります。その中には日本人も含まれていました。

アカプルコ港に上陸する人物の記録が本格的に始まるのは1590年以降のことで、メキシコに上陸した日本人の記録もそれ以降しかありませんが、1580年代からすでにメキシコに日本人がいたと考えられています。

1584年、スペイン人鉱山主のアロンソ・デ・オニャーテからマニラ総督に宛てた書簡で、

「鉱山で働かせるための奴隷3,000〜4,000人を、アフリカ、中国、日本、ジャワから入手してほしい」

という依頼記録が残っています。結局これは実現されなかったらしいですが、この時既に日本人奴隷をマニラ経由で入手するルートが存在したことがこの書簡によって明らかになっています。

 

1587年には、イギリス人トーマス・キャベンディッシュの私掠船がマニラ発アカプルコ行きの船サンタ・アナ号を捕らえ、同船にクリストバン(20歳)とコスメ(17歳)という名の日本人が乗っていた記録があります。これはスペイン人によって与えられた名で、彼らの日本名や出身地などは不明です。

2人はキャベンディッシュに略奪されて、東南アジア、インド、ヨーロッパへたどり着き、イギリスでしばらく暮らした後に、再度のキャベンディッシュの遠征に参加しその途上で死亡したと考えられています。

 

記録に残るメキシコ在住日本人たち 

現在でも記録に残り名前が分かっている当時の在メキシコ日本人は、例えば裁判であるとか、何らか特別な事情で当局に詳細な情報を申請する必要があったために名前が残っている場合が多く、記録が残っていない日本人の方が圧倒的に多いと思われます。

 

その生涯に関する記録が最もよく残っている人物が、トメ・バルデスという人物です。

彼は1577年に長崎に生まれ、奴隷として長崎在住のポルトガル商人フランシスコ・ロドリゲス・ピントに売られました。ピントはキリスト教に改宗したユダヤ人、通称「新キリスト教徒」で、本国の弾圧から逃れて極東の地で商売を行なっている人物でした。

その後ピントはトメを長崎で売却。トメは何らかの理由でマニラに渡り、そこでスペイン人アントニオ・アルソラの所有となり、1596年にアルソラと共にアカプルコへ渡航。その後メキシコシティに住んだそうです。

トメの記録が詳しく残っている理由は、彼が長崎にいた頃にポルトガル出身のユダヤ商人ルイ・ペレスと息子アントニオ・ロドリゲスと親しくしていたためです。

彼らは当時異端裁判所によって禁止されていたユダヤ教の信仰を守っているとして告発されており、トメも裁判所の求めにしたがって、ルイ・ペレス親子の普段の信仰について証言し、これが決定的な証拠となって親子は異端裁判所の命令で逮捕されてしまいました。

 

その他には、ドミニコ会修道士ペドロ・エルナンデスに仕えた日本人奴隷ドミンゴ・ロペス・ハポンという人物の記録もあります。どういうわけかこの男はセビーリャのインド商務院に拘留されてしまったため、修道士エルナンデスはヌエバ・エスパーニャ副王に解放を求める嘆願書を出し、それが承認されて無事に解放され、その後マニラに渡ったと考えられます。

結婚に関する記録からは、1604年にミンという名の日本人奴隷が、インドのゴア出身と思われるウルスラという名の奴隷との結婚を願い出てメキシコ大司教に許可願いを出しました。申請が通ったかどうかまでは分かりません。

また、17世紀初頭にカタリーナ・バスチードスという名の奴隷の日本人女性がメキシコシティに到着し、その後ポルトガル商人フランシス・レイタンと結婚。晴れて自由民となりました。しかし、アジア人で元奴隷ということで隣人から差別的な扱いを受けたようで、このような差別は不当であると裁判所に訴え出た記録が残っています。

 

2. ビスカイ使節の日本訪問

17世紀初頭には、スペインと鎖国前の日本との人的交流がいくつか存在しました。 

1609年に、元フィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコが乗る船が嵐にあって難破し、房総半島の御宿にたどり着きました。

ここで一行は領主の本田忠朝から歓待を受け、徳川家康の命を受けたイギリス人三浦按針によって建造された船で1610年8月にメキシコへと帰還しました。この船には23名の日本人が乗船しており、スペイン国王フェリペ3世が使わせた返礼使節セバスティアン・ビスカイノと共に日本に帰国しました。

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ビスカイノ一行はドン・ロドリゴが徳川家康から借りた4,000ペソを返済し、日本との友好親善を果たすという目的、さらには日本近海にあると信じられていた金銀島を探し出し、さらには詳細な日本の地図を作成するという目的も持っていました。

1611年3月にビスカイノ一行はアカプルコを出発し、2ヶ月半かけて浦賀に到着。日本に2年間滞在し、2代将軍徳川秀忠とは江戸城で謁見し、隠居の身となっていた家康にも駿府城で謁見しています。

家康はスペインとの通商を求めますが、スペインは日本でのキリスト教の布教を求めて意見は一致せず、友好関係を維持するという合意がなされたのみでした。

その後、1613年10月にビスカイノは約180名の日本人を乗せてアカプルコに向けて出発。この航海は慶長遣欧使節として有名です。

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3. 慶長遣欧使節のメキシコ、ヨーロッパ訪問

仙台藩主伊達政宗の家臣・支倉常長を団長とするこの使節団の目的は、仙台藩が強く求めるスペインとの通商関係構築にありました。本気度を示すために団長・支倉常長はじめ、使節の多くがキリスト教に入信するほどでした。

使節はメキシコ、スペイン、フランス、イタリアと周り、支倉常長は法王パウロ5世との謁見を果たし、ローマ市民の大歓迎を受けます。しかし、念願だった通商関係は果たせず、日本に帰国してみたら既にキリスト教が禁止されてしまっていたのでした。

さてこの使節は約180名もの大所帯での出発となりましたが、ある人は現地に止まり、ある人は途中で帰国したりと、途中でどんどん人が減少していったところに特徴があります。

まずアカプルコに到着した日本人のうち数十人が支倉の帰りを待つために現地に留まり、メキシコシティに到着した一行のうち、スペイン行きは団長・支倉常長率いる約30名のみで、費用軽減のため120名以上の日本人はメキシコに留まり、翌年日本に帰国させられることになりました。

また、スペインに着いた日本人のうち、何人かは帰国せずに滞在していたコリア・デル・リオにそのまま住み続けました。

支倉常長がアカプルコに戻り、大部分の者は共にマニラ経由で日本に帰国したものの、中には現地に留まり続けた者も何人かいました。そのうちの1人が、福地源右衛門という人物です。

 

4. グアダラハラの福地源右衛門

 グアダラハラはメキシコシティとアカプルコに次ぐ大都市で、17世紀前半に小さな日本人コミュニテイがあったそうです。

 福地源右衛門はスペインでの名をルイス・デ・エンシオと言い、生まれは仙台藩の福地村(現石巻市福地)。慶長遣欧使節の随行員としてメキシコにやってきて、そのまま現地に居着いてしまいました。

彼は現地の人から「ブホネロ(行商人)」と言われ、何を売っていたか不明ですが、小売で生計を立てていたようです。

その後彼はインディオの女性カタリーナ・デ・シルバと結婚し、一人娘マルガリータ・デ・エンシオを儲けます。数年後、一家はグアダラハラに移住し、そこで自分の店を開きました。

娘マルガリータは、同じく在メキシコ日本人のフアン・デ・パエズと結婚。彼は1608年に大阪で生まれ10歳で奴隷か奉公人としてメキシコに渡ってきた人物で、1635年か1636年に結婚しました。

同じく支倉常長の随行員としてメキシコにやってきた人物で滝野嘉兵衛という男は、支倉の護衛隊長を勤めて共にスペインに渡った人物で、国王フェリペ3世の宮殿で洗礼を受けドン・トマス・フェリペ・ハポンという名をもらいスペインに止まろうとしたものの、何らかの理由でメキシコに向かったそうです。それ以降の足取りはわかっていません。

 

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まとめ

政府の使節、商人、奉公人、奴隷など、様々な形で日本人が太平洋を渡ってメキシコにやってきていたことがわかります。

記録に残っているのはごくごく一部で、大部分は奴隷という形で売られてきた人たちで記録にすら残っておらず、残っていてもスペイン人やポルトガル人によりキリスト教の洗礼を受けさせられてスペイン風ポルトガル風の名前になってしまっているので、出自を詳しく知ることも難しい状態です。

 江戸幕府の鎖国政策の完成により海外の日本人町は根こそぎ壊滅し、異国に渡った人々は祖国に戻ることなくその地の土となり、その血脈も現地の人たちの中に溶解していったのですが、初期のメキシコの歴史の中に数多くの日本人が関わっていたのは確かなことです。

 

参考文献

大航海時代の日本人奴隷 (中公叢書) ルシオ・デ・ソウザ, 岡美穂子