ナチスを完璧に騙したイギリス軍の謀略作戦
第二次世界大戦で謀略戦は数多く展開されましたが、中でもとびきりイかれていて、しかも大成功を収めてしまった作戦が「ミンスミート作戦」。
イギリス軍はヒトラーを騙し、連合軍がシチリア島ではなく別の場所に上陸すると信じさせるため、「実在しない人物の死体に嘘の情報を語らせる」作戦を実行しました。
そしてそれは完璧に成功したのです。
1. イギリス海兵隊ウィリアム・マーティン少佐溺死事件
マーティン少佐の溺死体の発見
1943年4月30日早朝、スペインの海岸近くでイワシ漁をしていた地元の漁師が、波に漂う水死体を発見しました。
漁師は死体を船に引っ張り上げ、すぐにスペイン当局に通報。かけつけた当局者によって所持品のブリーフケースの検分がなされ、彼はイギリス海兵隊のウィリアム・マーティン少佐で、彼はイギリス軍の通信使としてジブラルタルへ向かう飛行機に搭乗中に墜落。溺死したと考えられました。
遺体は腐敗が始まっていたためすぐに埋葬され、ブリーフケースとマーティンの所持品はマドリードの陸軍参謀本部に引き渡されました。
このブリーフケースの中には極秘事項を記した書簡が含まれており、スペインはイギリス大使館にマーティン少佐の死とブリーフケースの存在を連絡。イギリス大使館はすぐにその返還を求めました。しかしスペインはその前に同盟国ドイツの国防情報部のスペイン支部にも報告していました。
ドイツ国防情報部はただちに書簡を写真撮影し、あたかも何も開けていないかのように再封をして、スペイン側に再度渡され、イギリス側の要求通りに返却されました。
重要な機密事項が含まれた2枚の手紙
この書簡には2枚の重要な手紙が含まれていました。
1枚目はイギリス陸軍参謀次長サー・アーチボルド・ナイ将軍からイギリス中東軍司令官サー・ハロルド・アレキサンダー将軍へ宛てたもので、2枚目は統合作戦軍司令官ルイス・マウントバッテン卿からイギリス地中海艦隊司令官サー・アンドリュー・カニンガム提督に宛てたもの。
これらの手紙には「連合軍は北アフリカからシチリア島に上陸しようとしているが、これはおとり作戦であり、本命はギリシャ攻撃とサルディニア占領にある」という重要な軍事機密が記されていました。
実はウィリアム・マーティン少佐なる人物は、イギリス情報部が作った架空の人物。
そしてマーティン少佐が持っていた情報も、情報部がドイツ軍の司令部をだまくらかすための大嘘だったのです。
2. 嘘情報を完璧に信じたヒトラー
マドリードのドイツ大使館は無線でベルリンにマーティン少佐の手紙を報告し、国防軍最高司令部に写真を送付しました。
そしてヒトラー本人が写真を確認。ヒトラーはこの情報が罠ではないかと少しは疑ったようですが、やはり本当であるに違いないと確信しました。
そして5月12日に地中海全域のドイツ軍に命令を出しました。
「ペロポネソス半島とサルディニア防衛を他の作戦全てに優先させよ」
フランスから1個師団、東部戦線から2個師団がギリシャに急行し、北アフリカのロンメル将軍もギリシャに向かいました。
軍事戦略を学んだ者であれば、枢軸国の一翼ファシスト・イタリアの息の根を止めるためには地中海最大の島シチリア島を攻略しなくてはならないのは簡単に分かるはずですが、ヒトラーはこの情報を信じてしまったのです。
慌てたのはムッソリーニ。
彼はヒトラーに対して、連合軍の狙いは依然としてシチリア島にあると抗議しますが、すぐに退けられ、さらに多くの軍需物資がギリシャとサルディニアに輸送されました。
イギリス情報部の「マーティン少佐という実在しない人物」を使った作戦は大成功を納め、連合軍はシチリア侵攻のための準備を大急ぎで進め、7月10日から連合軍のシチリア占領作戦「ハスキー作戦」が始動。
不意を打ちを食らったドイツ軍とイタリア軍は大敗し、わずか1ヶ月でシチリア島は連合軍に占領されたのでした。
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3. 周到な作戦準備
ドイツ軍を嘘情報で騙す
この大掛かりな謀略作戦は綿密な計画のもと進められました。
この作戦を立案したのは、イギリス空軍将校でMI5に派遣されていたチャールズ・チャムリー大尉と、イギリス海軍情報将校のユアン・モンタギュー少佐であると言われています。
2人はドイツを欺くために、ドイツと親しい中立国、具体的にはスペインかポルトガル、に死体を使った謀略をしかける作戦を提出しました。
2人はその作戦を当初「トロイの木馬作戦」と呼びましたが、後に「ミンスミート作戦」と改名されました。
この作戦は1943年3月に了承され、わずか1ヶ月の期間で急ピッチで具体策が立案され実行されました。
死体を確実に発見させイギリス情報部の溺死体と信じさせる方法
スペイン人が死体を発見し、それを確実にスペイン当局そしてドイツ情報部が検分し、本当に飛行機からの墜落事故で溺死したと思わせるための状況作りは慎重を要しました。
つい先ほど溺死したと思わせるため、用意された死体は救命胴衣を着用させ、管状密閉容器に入れられドライアイスで保存される。
死体は可能な限りウエルバの河口の北西岸の岸に近い海に投棄され、南西風に乗せて河口近くまで流さねばならない。
ブリーフケースにつけられた鎖と、死体が身につけるトレンチコートのベルトを繋げる。鎖はそでを通して胸のあたりでコートの下に装着するタイプにする。まるで、将校が航空機でくつろぐために鎖を外したものの、すべり落ちたりしないように自分の身につけておいたというふうに見せかける。
ゴムボートの投棄場所は、死体から近すぎず、遠すぎず。異なる速度で漂っていなくてはいけない。
架空の人物ウィリアム・マーティン少佐を「作る」
イギリス情報部はドイツ軍に偽書簡が本物と信じさせるために、ウィリアム・マーティン少佐なる人物が本当に存在することを信じさせる必要がありました。
そのため、ブリーフケースの中にはウィリアム・マーティン少佐が本当に存在するかのような、彼のパーソナルな所持品を用意させました。
海兵隊の身分証明書
機密書簡の他には、マーティンの父からの手紙と、マーティンの恋人からの手紙、弁護士からの手紙。
それに、マーティンの恋人のスナップ写真。これはMI5の女性職員の写真だそうです。
それから、マーティンが恋人に送った婚約指輪の宝石店からの請求書と、軍人クラブからの請求書。それに劇場切符の半券と使用済みのバス乗車券。さらには、超過引き出しの返済を求める銀行支店長からの催促状まで含まれていました。
何だか、ごく庶民の生まれで、素敵な恋人を幸せにしようと努力はしてるものの、お金の面では結構苦労している普通の男という人物像が浮かび上がってきますね。
きっとそういうペルソナ像もイギリス情報部によって設定され準備されたものと思われます。
4. この遺体は誰のものだったのか
ここまで来て気になるのが、ウィリアム・マーティン少佐のものとされた遺体は果たして誰のものだったのか。
適当な遺体を探すのは、モンタギュー少佐の担当でした。
モンタギュー少佐はロンドンの検死官ウィリアム・ベントリー・パーチェスを訪ねて遺体探しを依頼。パーチェスはこれに応じ、適切な遺体を彼に提供した。
モンタギュー少佐自身は後にそのように語り、その遺体が誰かまでは生前語ることはありませんでした。
そのため長年、この遺体の本当の持ち主は誰だったかの議論が続いていました。
一つ目の説は、1943年3月にスコットランド沖の船上爆発で死亡したトム・マーティンという人物であるというもの。
そしてもう一つ目の説が、1943年1月にロンドンで自殺したアル中の浮浪者グリンドウ・マイケルという人物であるというもの。
2011年にモンタギューが「マイケルが飲み込んだ殺鼠剤は検死では発見されないだろう」と記した極秘のメモが見つかり、グリンドウ・マイケルがウィリアム・マーティンであったというのが現在は定説になっています。
ちなみに、現在でもスペインには「ウィリアム・マーティン少佐の墓」が存在し、特にイギリスからの観光客による献花が絶えません。
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まとめ
誰もが耳を疑うような嘘みたいな話でも、綿密に準備され、かつ嘘を信じたくなるような状況が整えば、簡単に信じられてしまうということがよく分かりますね。
きっとこの、「信じたくなる嘘」というのがキモで、ヒトラーは連合軍のシチリア島上陸をきっと何よりも恐れていて、「それはない」という嘘の情報がもたらされた時に、これ幸いと信じてしまったのではないかと思います。
参考文献・サイト