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初期イスラム帝国の有能な武将たち(前編)

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 強大な軍事力を誇った初期イスラム帝国の名だたる武将たち

イスラム帝国は630年にメッカを征服。預言者ムハンマドが亡くなって以降も軍事力で拡大を続け、70〜80年たらずで西はイベリア半島、東はインダス川まで手中にしました。

その爆発的な拡大を担ったのが、有能な武将たちでした。

日本人が織田信長や武田信玄の活躍を小説や映画でたびたび見るように、アラブ圏の子どもたちは、イスラムの武将たちの活躍ストーリーに親しんでいます。

今回は、日本では彼らの活躍はあまり学ぶ機会のないイスラムの武将たちの紹介です。

 

1. ハーリド・イブン・アル=ワリード(585-642)

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「アラーの剣」と称されたイスラム帝国No.1の将軍 

ハーリド・イブン・アル=ワリードは初期イスラム軍の最も重要な将軍で、ペルシア帝国や東ローマ帝国と戦いメソポタミアとシリアを征服した男です。

彼はもともとは預言者ムハンマド率いるイスラム軍を討伐するメッカ軍の指揮官で、何度も手痛い敗北をイスラム軍に与えています。

特にメッカが3,000の軍勢でメディナを攻めたウフドの戦いでは、ハーリドはムハンマドの本陣を急襲しもう少しでムハンマドの首を獲るところまで追い詰めました。

ところが、ヒジュラ暦8年(629年)のある時に、とうとうメディナに行ってイスラム教を受け入れ、イスラム軍の武将となりました。

同年、ムスリム軍はザイド・イブン・ハリターを司令官に北部アラビア半島のムウタを攻め、ハーリドも指揮官として参加しました。ところが東ローマの大軍の待ち伏せにあい、少数のムスリム軍は包囲され司令官ザイドは死亡。全滅の危機の中、ハーリドは左右軍をまとめあげて敵中突破を敢行。 無事脱出に成功しました。

この功績によりハーリドはイスラム兵の信頼を得たのでした。

 

預言者ムハンマドの死亡後、初代カリフのアブー・バクルはハーリドにイスラム軍の統帥権を与えました。

ハーリドはムハンマド亡き後イスラムから離反した都市を征伐し、ついでペルシア帝国支配下のメソポタミアに侵入。現在のイラク領内にあるメソポタミア南部を支配下に入れました。

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Work by Mohammad Adil 

次いでハーリドは東ローマ帝国領のシリアに侵入。4〜6ヶ月の包囲戦の末、重要都市ダマスカスを陥落させました。その勢いのまま、レヴァント諸都市、アレッポを含む北シリア、そしてエルサレムまでを征服。

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Work by Mohammad Adil 

その後はアルメニアとアナトリア半島に侵入し、アンティオキアを落としました。つまりハーリドの手によって、5つあるキリスト教の大司教座都市のうち、2つを手中に収めたことになります。

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Work by Mohammad Adil 

あまりにも輝かしすぎる軍事キャリアですが、それがため人々に妬みや疑惑を持たれたようで、金銭の不正着服の疑いで第2代カリフ・ウマルによって突如軍の指揮官から解雇されてしまいます。結局有罪とはなりませんでしたが、解雇から1年未満で消えるように死んでしまいました。57歳でした。

 

2. サアド・イブン・アビ・ワッカース(595-674)

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 イスラム教団ごく初期に預言者ムハンマドと共に戦った男

サアド・イブン・アビ・ワッカースはメッカの人で、イスラム教に改宗したごくごく初期の人物。17歳でイスラム教に改修したというので、ある種「若気の至り」で預言者ムハンマドの同調者になったような男でした。

サアドはヒジュラ後、イスラム教団が本格的に他部族やメッカと戦うようになった時から戦闘に参加し、「ジハードで一番最初に血を流した人物の1人」です。

メッカ衆が約3,000の大軍でメディナを攻めたウフドの戦いでは、サアドは預言者ムハンマドを警護するアーチャーに選ばれて活躍し、ムハンマドから「今日の戦いでお前が最も優れたアーチャーであった」とお褒めの言葉をいただいたそうです。

預言者ムハンマドの死後は、初代カリフ、アブー・バクル、2代目カリフ、ウマルの元でいくつかの戦いにも従軍しますが途中から戦いには出なくなり、現在のイラクのクーファの街を建設するなど行政官としてのキャリアを歩みました。

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3. アブー・ウバイダ・イブン・アル=ジャッラーフ(583-639)

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 Work by Omaislam

 初代シリア総督となったムハンマドの教友(サハーバ)

 アブー・ウバイダはメッカのクライシュ族の出身で、ごく初期の頃から預言者ムハンマドの教えに同調し共にイスラム教団を作り上げた教友(サハーバ)の1人として知られています。

アブー・ウバイダはヒジュラ後、クライシュ族が率いるメッカ衆との戦いに従軍。バドルの戦いでは、数に勝るメッカ軍を、寡兵ながら士気に勝るムスリム軍が打破します。この戦いでアブー・ウバイダは実の父親と戦い、自ら殺害しました。

次いでムスリム軍が逆にメッカ軍に敗れたウフドの戦いでは、アブー・ウバイダは預言者ムハンマドを守ろうと奮戦し前歯を2本折ってしまったそうです。

この2つの戦いでムハンマドの信頼を得たアブー・ウバイダは、アブー・バクル(後の初代カリフ)、ウマル(後の2代目カリフ)らと共に軍司令官に任ぜられ、アラビア半島の部族の制圧戦に従事しました。

預言者ムハンマドの死後、ムハンマドの側近たちは後継者について協議をし、ウマルはアブー・ウバイダに後継者になるよう懇願しますが、アブー・ウバイダはこれを拒否し、アブー・バクルの手を取りカリフになるよう推挙しました。そうしてアブー・バクルが初代カリフとなったそうです。

初代カリフ、アブー・バクルと2代目カリフ、ウマルの時代、アブー・ウバイダはシリア方面軍司令官に任ぜられ、遠征軍を率いて東ローマ帝国軍と戦います。

戦いは苦しく劣勢だったため、アブー・ウバイダはウマルに増援を依頼しました。ウマルはイラク方面で活躍中だったハーリド・イブン・アル=ワリードをシリアに派遣。するとイスラム軍は各地で連戦連勝を続け、636年にとうとうヤルムークの戦いで東ローマ帝国軍に圧勝。同年にダマスカスも陥落し、シリア全域を支配下に置くことに成功しました。

アブー・ウバイダは初代シリア総督となり、ダマスカスを拠点にしてキリスト教徒の文化が色濃いシリア全域のアラブ化を推進しました。

639年にシリアを襲った疫病で亡くなっています。

 

4. アムル・イブン・アル=アース(585-664)

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エジプトを支配しカイロの町を建設した人物

アムル・イブン・アル=アースは、預言者ムハンマドの時代は長年メッカ側でメディナのイスラム軍と戦っており、 ウフドの戦いではハーリド・イブン・アル=ワリードと共にムハンマドの本陣を急襲しイスラム軍を壊滅手前まで追い詰めました。

ところが長引く戦いでメッカの力が弱まり、メッカの敗北が明白になったヒジュラ暦8年(629年)に、ハーリドと共にメディナに行ってイスラム教を受け入れました。

 イスラム教団の武将になったアムルは、預言者ムハンマド死亡後の部族の反乱(リッダ戦争)で活躍し、その後はアブー・ウバイダとハーリドの元でシリア戦線に従軍。ダマスカスとエルサレムの包囲戦で大きな功績を上げました。

その後アムルは、カリフ、ウマルにエジプトの征服を進言し受け入れられたため、639年末から約4,000の兵でシナイ半島からエジプトへ侵攻。

ベルビエス近郊の町で東ローマ帝国軍を急襲して勝利し、ナイル川河口の要衝にあるバビロン要塞を包囲しました。包囲を解くべく、テオドロス率いる東ローマ帝国軍が駆けつけますが、640年6月にシリアから新たに到着した援軍1万2,000を得たイスラム軍はヘリオポリスで東ローマ帝国軍に圧勝。とうとうバビロン要塞は陥落しました。

要衝を抑えられたエジプトは急速に弱り、その後わずか数ヶ月で東ローマ領エジプトの都アレクサンドリアが陥落。エジプトはイスラム帝国の手に落ちました。

アムルはウマルにエジプトの総督府をアレクサンドリアに置くことを提案しましたが、ウマルはこれを拒否したため、アムルはバビロン要塞の近郊にミスル・アル・フスタートという名の町を建設し、アフリカ初のモスクであるアムル・モスクを建てました。

この町が現在のエジプトの首都カイロとなりました。

その後アムルはエジプト総督として行政職を務め、664年にカイロで亡くなりました。

 

5. ウクバ・イブン・ナーフィ(622-683)

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Photo by Al hilali al sulaymi

マグレブを制圧したアラブの猛将

ウクバ・イブン・ナーフィはメッカにてヒジュラの1年前に生まれました。父は既にイスラム教を受けれいていたので、ウクバも生まれながらにしてムスリムでした。

母親がアムル・イブン・アル=アースの近親者だったので、その関係でウクバも父と共にアムルのエジプト制圧戦に参加しました。

エジプト制圧戦で実績をつけたウクバは、アムルによりさらに西を制圧するように命令され、ムスリム軍を引き連れてリビア砂漠を横切り、現在のチュニジアまで到達。ここでチュニスの南160キロのところにあるカイロワンという場所に軍事基地を設置し、そこを拠点にしてさらに西へ進み、アルジェリア、モロッコを制覇し、とうとう大西洋岸まで到達しました。

北アフリカの制圧を完了したウクバは、カイロワンに戻り壮麗なモスクを建設。現代でも残るウクバ・モスクです。

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その後ウクバは一旦ダマスカスに帰任するも、東ローマ帝国の軍事行動が激しくなったため再び北アフリカに向かい、300の軍勢で鎮圧にあたろうとしますが、東ローマ側と結んだ原住民ベルベル人が奇襲攻撃をかけウクバも含む300人全員が戦死しました。

 なお、彼の子孫と称するコウンタというアラブ系遊牧部族が現在も存在し、リビア、チュニジア、アルジェリアに居住しています。

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つなぎ

 初期イスラムの拡大の歴史は、男の子的には非常にワクワクするというか。

互いに争い生死を分け合った敵同士が仲間になり新たな敵と戦い、その敵も後に和解し仲間になる、みたいな少年漫画みたいな展開です。イスラム圏の少年たちが初期イスラムの歴史が大好きなのが非常によくわかります。

さて次回は、イベリア半島、中央アジア、インド方面にまでイスラムを拡大させた武将たちをピックアップしていきます。

reki.hatenablog.com

 

参考サイト

"Khalid ibn Al-Waleed" Islamic History

 "Men of Excellence: Hamza ibn Abdul-Muttalib (ra)" Vanguard

"ABU UBAIDAH IBN AL-JARRAH (RTA)" HIBA MAGAZINE

Sa`d ibn Abi Waqqas - Wikipedia

 "Biography of `Amr ibn al-`As" MAHAJJAH Institute

"Musa bin Nusair" HERITAGE HISTORY

Musa bin Nusayr - Wikipedia

"Uqba bin Nafe: The conqueror of Africa" ARAB NEWS