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トルコ独立戦争中に起きた反乱・侵略・民族蜂起

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オスマン帝国解体と国民国家トルコ建設を目指す戦い

第一次世界大戦の敗北により、オスマン帝国の領土は戦勝国に分割されることになり、気の早い国はトルコ本土に軍事侵攻をして領有を既成事実化しようとしました。

そのような事態になっても何もできずに列強と妥協しようとする帝国政府に対し、軍人ムスタファ・ケマルは反旗を翻し列強の占領政策とこれに迎合する政府に抵抗を開始。軍人や議員を糾合して「大国民議会」を開き、トルコ国家建設のための抵抗戦争に突入しました。

列強や列強に支援を受けた保守派や少数民族が各地で反乱や軍事侵攻を行うも、トルコ大国民議会政府軍は奇跡的な勝利をあげ続けます。列強はムスタファ・ケマルの政府をトルコの政権と認め、とうとうオスマン帝国は廃絶され共和国家トルコが成立することになります。

よくもまあ、ここまで混乱が続く中で新生国家を作れたなと、アタチュルクがいかに偉大だったかが分かるのですが、今回はアタチュルクと戦った反共和国の反乱や軍事蜂起をピックアップします。

 

1. 希土戦争(1919年5月〜1922年10月)

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アタチュルクによって打ち砕かれた大ギリシャ建設の野望

第一次世界大戦で同盟側で参戦していたオスマン帝国は、1918年10月にムドロス休戦協定を結び連合国に降伏しました。

戦勝国の一翼となったギリシャは、1919年1月のパリ講和会議で「イスタンブールを含むトラキアと、小アジア沿岸部大部分の領有」を主張。

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さすがにこれはアメリカやイタリアが納得せず、議論は持ち越しとなり決着しませんでした。

ところが「大ギリシャ建設」を目指すギリシャは休戦協定を破り、イギリスの支援を受けて1920年5月に南西部の港町イズミルに軍を上陸させました。イズミルのギリシャ人を保護するというのが名目でしたが、事実上の占領に近く、オスマン軍はスルタンの命令で抵抗を禁止され、トルコ人の怒りと絶望を掻き立てました。

オスマン帝国政府は機能不全状態にあることを悟った准将ムスタファ・ケマルは、自らが中心になりアンカラに「大国民議会」を開設。1920年3月に連合国の占領によってイスタンブールを脱出したオスマン帝国議員も続々とアンカラに逃れました。

1920年8月に第一次世界大戦の講和条約であるセーヴル条約がオスマン帝国と連合国諸国との間で結ばれたのですが、その中でギリシャは「西トラキアとエーゲ海沿岸の領有と、イズミルを含む南西アナトリアの管理」を認められました。

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ケマルは大国民議会の立場からギリシャのイズミル占領に反対しました。

オスマン帝国はセーヴル条約を受け入れるように言いますが、多くのトルコ人はこの時点ですでにオスマン政府への支持を失っており、ギリシャに抵抗するムスタファ・ケマルのアンカラ政府を支持するようになっていました。

ケマルはオスマン帝国軍の有志をまとめ上げ、イスメト・ベイが指揮するトルコ大国民議会政府軍に対ギリシャ防衛に当たらせました。

 

▽イスメト・イノニュ

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イスメト・ベイはアナトリアに侵攻したギリシャ軍を第一次・第二次イノニュの戦いで撤退させることに成功しました。

 内陸部に侵攻したギリシャ軍はトルコ民兵のゲリラ戦に苦しみ、サカリヤの戦いでとうとうイズミルに撤退。そしてドゥムルプナルの戦いでイズミルを包囲し、1922年9月にギリシャ軍は総崩れとなり撤退。トルコ軍はイズミルに入城し市民の大歓迎を受けました。

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 この戦争の勝利の意義は大きく、一連の戦いでアンカラ政府はトルコ人の大部分の支持を獲得し、列強や周辺国もイスタンブールのオスマン政府でなく、アンカラの大国民議会政府を相手としてみるようになっていきました。

そして1923年7月にアンカラ政府との間で結ばれたローザンヌ条約により、イズミルはトルコ領となり、現在のギリシャ・トルコ国境が確定したのでした。

 

2. カリフ軍の反共和国蜂起(1920年4月〜6月)

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 オスマン帝国がアンカラ政府打倒のために作った半公式軍

ムスタファ・ケマルが議長の「大国民会議」が1920年4月にアンカラで開かれ、オスマン帝国議会があるイスタンブールから国民議会に多くの議員が逃れて来ました。

オスマン帝国政府とスルタンは多くの人の支持を失っており、その影響はイスタンブール周辺に留まるほどに低下していました。

そのような状態でも、あくまで帝国の維持を目指すスルタン・メフメト6世は、軍人スレイマン・シェフィク・パシャに命じて、3つの歩兵連隊からなる計4,000名の半公式部隊を設立させ、アンカラ政府の打倒を目指しました。

カリフ軍という名前は、いまだに民衆に絶大な信頼がある「カリフ」という名を付けることで支持を集める狙いがありました。

しかし、軍の指揮権をスレイマン・シェフィク・パシャがとるか、当時反共和国蜂起軍の実質のリーダーであったアフメト・アズナヴルがとるかで揉めてしまう。

結局アズナヴルがとることになり、イスタンブールを出発したカリフ軍は東に80キロほどいった海沿いの町カンドゥラを占領しますが、5月17日にアリ・フアード・パシャ率いるトルコ大国民議会政府第20軍団に大敗を喫して再占領され、6月14日に再攻撃をするもまたも敗退。

カリフ軍はイスタンブールに撤退し、オスマン帝国政府は軍の解散を命じました。

 

3. 保守派軍人アフメト・アズナヴルの蜂起(1919年10月〜1920年11月)

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オスマン帝国に忠実な保守派の反共和国蜂起

アフメト・アズナヴルはチュルケス部族出身の軍人で、イズミット県長官を務めていた人物。

ムスタファ・ケマルが1919年5月5日に黒海沿岸の町サムスンで「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を発足させて反帝国の旗印を明確にし、各地の軍人や議員を糾合し始めると、自ら皇帝の臣民と考えあくまでオスマン帝国の維持を目指すアズナヴルは、1919年10月にアナトリア西部マニャスの町で「反革命・帝国維持」を宣言し軍事蜂起。

この軍事蜂起の背後にはイギリスの諜報機関がおり、アズナヴルに軍事支援をして帝国を維持させ、列強のいいなりにさせようとたくらんでいました。

アズナヴルの蜂起は大きく3回に分けられます。

第1回目の蜂起は1919年11月15日。アナトリア西部で配下の軍勢に蜂起させるも、トルコ大国民議会政府軍のチェルケス・エテム指揮下の部隊に敗れ同月中に鎮圧されてしまいます。

 

▽チェルケス・エテム

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 第2回目の蜂起は1920年2月16日。「ムハンマドの軍」と名付けられたアズナヴルの軍は、チャナッカレ近郊の町ビガを急襲し陥落させます。3月中旬にトルコ大国民議会政府軍500がビガの奪回を試みるも、主に棒と斧で武装したムハンマドの軍に敗れてしまいます。4月に再びチェルケス・エテムが送られ、トルコ大国民議会政府軍2,000名で攻め込みヤヒャキョイ村近郊でムハンマド軍を打ち破りました。敗れたアズナヴルははイギリス船でイスタンブールに帰還しました。

第3回の蜂起は、先述のカリフ軍を率いた戦いです。

いずれの蜂起も失敗したアズナヴルは、1921年5月に民族主義者によって暗殺されました。

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4.デリバシュ・メフメト・アガのコンヤ反乱(1920年5月〜11月)

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ギリシャ軍に支援された保守派の反乱

カリフ軍が結成されイスタンブールを出発した頃、アナトリア南西部の町コンヤの総督デリバシュ・メフメト・アガが「革命勢力によるカリフ廃絶に反対する」として、地元住民500名を糾合して反乱を起こしました。「コンヤ反乱」と呼ばれる事件です。

デリバシュ・メフメト・アガはアナトリア南西部に軍事侵攻しているギリシャ軍の支援を受けており、民兵団はコンヤの町の大国民議会勢力の建物を破壊したり電信線を切ったりなどの破壊活動を行った後に、行政府と警察の建物を占領。独自に大統領や知事を擁立しました。

これに対し、アンカラからダルヴィーシュ・パシャとレフェト・ベイが率いる軍が派遣され、10月6日にコンヤの反乱軍は鎮圧されました。

 デリバシュ・メフメト・アガはその後、ギリシャが占領するイズミルに逃亡した後、再びコンヤで反乱を起こそうとしますが失敗。仲間に裏切られて殺害されました。 

 

5. アレヴィー派クルド人の蜂起(1920年12月〜1921年6月)

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クルド独立国家目指す反乱

1920年3月、連合軍はイスタンブールを占領。8月10日にオスマン帝国政府とセーヴル条約を結びました。

セーヴル条約ではオスマン帝国にはアナトリア北部2/3を割り当て、その他の土地は列強と周辺国で分けあうというもの。アナトリア東部はアルメニアが占領するとされました。

クルド人が多く住むアナトリア南東部では、場合によってはクルド人自治地域の創設の可能性が生じましたが、当時のスンニ派クルド人団体の多くはムスタファ・ケマルを支持しており、諸外国の干渉に反対の立場を示していました。

ですが、コチュギリの町の東部に住むクルド人は概して貧しく、少数派のアレヴィー派を信仰していたため、スンニ派クルド人との妥協は成立せず、アレヴィー派クルド人はディヤルバクル、ヴァン、ビトリス、エラズーなどの町を含む南東部アナトリア地域を「クルド独立国家」と宣言し、反乱を起こしました

反乱軍はウムラニエやケマといった町を占領し、アンカラ政府の役人や軍人を拉致。クルド人の蜂起の知らせを聞いて近隣の部族からも増援がやってきて、反乱軍の数は約3,000にもなりました。

アンカラ政府は1921年4月にヌレッティン・パシャに命じて6,000の騎兵、2万5,000の歩兵を率いて攻め入り、10日間で主要な軍勢を打ち破ることに成功。残りの2ヶ月で散発的に抵抗を続ける残党も鎮圧されました。

 

6. チャパノールのヨズガト蜂起(1920年5月〜12月)

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流れで反乱に合流した地元の名士

ヨズガトは中部アナトリアに位置する地方都市。

チャパノール家はヨズガトの町の名士(アーヤーン)で、14世紀にヨズガトの町を建設して以来、町を実質的に統治してきた一族です。

1920年4月にアンカラに大国民議会が開設されると、チャパーノール家当主チャパノール・セラルはスルタンの存続を訴えて反対を表明。

これに呼応する形で、ナズムとカラ・ムスタファという2人の郵便局員が暴動を起こし「アンカラ政府への宣戦布告」を宣言。暴動は瞬く間に拡大していきました。

ムスタファ・ケマルはチャパノール・セラルと弟のハリト・ベイに暴動を鎮圧するように要求しますが、彼らは態度を保留し続けたため、アンカラ政府の警察は彼らの逮捕状を出しました。

チャパノール兄弟は後に引けなくなり、ヨズガト反乱に合流しアンカラ政府と戦うことを決意。直轄軍を反乱軍に合流させ、6月13日にソルグンの町を攻撃し、14日にヨズガトを掌握。トルコ大国民議会政府軍を攻撃しました。

これは外国軍が扇動したものではなく、アンカラ政府の判断ミスが起こしたことでもあったのですが、6月20日にチェルケス・エテムがアンカラから軍を率いて鎮圧に向かい、23日に包囲を開始。25日には反乱軍約200は降伏し、ヨズガトは制圧されました。

 

7. トルコ・フランス戦争(1918年11月〜1921年10月)

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アルメニア人を実働部隊としたフランス軍の侵入

ムドラス休戦協定によってシリアと南部アナトリアを入手したフランスですが、その後、フランス勢力圏とされたキリキア地方の完全領有を目指し軍を侵攻させました。

1918年11月、フランス軍のアルメニア人志願兵部隊15,000人とフランス人将校150人をキリキア地方南部のメルスィンに上陸させ、12月までにキリキア地方を占領。次いで1919年末までにアンテップ、マラシュ、ウルファなどの町を占領しました。

フランスはキリキアの占領はトルコにとってギリシャの侵入ほど脅威ではないはずだからさほど熱心に抵抗をしないだろうと考えていました。11〜13世紀にはキリキアにはキリキア=アルメニア王国が存在していたため、歴史的な大義名分もあると考えられました。

しかし、いざ占領が完了すると、実働部隊がアルメニア人ということもあり、トルコ人レジスタンスの頑強な抵抗に遭遇することになりました。特にマラシュの町のトルコ民兵の抵抗は激しく、1920年1月〜2月に行われたマラシュの戦いで、フランス軍はマラシュから撤退を余儀なくされました。

アルメニア人はトルコ人の格好に扮装しないと殺されたし、扮装してもバレて殺されました。この戦いでは逃げそびれたアルメニア人がトルコ人に大虐殺され、その数は8,000〜12,000とも言われています。

1921年11月にアンカラ条約が結ばれ停戦合意がなされ、1922年にフランス軍は占領地から撤退しました。 

 

8. トルコ・アルメニア戦争(1920年9月〜11月)

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アルメニア領東アナトリアをトルコ軍が武力で回復 

アルメニア人は長い間独立国家を持たず、オスマン帝国とロシア帝国の支配下にありました。

帝国の少数民族として生きたアルメニア人は、商人や銀行家、官吏などの知的職業に就き帝国を支えたのですが、オスマン帝国内でのトルコ主義や反キリスト教の高まりでアルメニア人への反発は強まっていき、1895〜1896年、1915〜1917年の2回にかけて、トルコ人がアルメニア人を組織的に大虐殺をし、約130万人近くが虐殺されたとされています(トルコはこれを否定する立場)

 

第一次世界大戦でロシア軍がカフカスからオスマン帝国に侵攻するも、ロシア革命が勃発。ロシアの支配下にあったアルメニアは独立の機会を得るも、ロシア軍が撤退し占領地をオスマン帝国に返還してしまったため、アルメニアはオスマン軍により領土侵略を受けながら1918年5月に共和国の独立を宣言しました。

 

ムドロス休戦協定によりアルメニアはオスマン帝国軍に占領された旧領土を回復しますが、東部アナトリア一帯に住むアルメニア人が虐殺から逃れて本国アルメニアに帰還しようと多数難民化しており、極度の混乱状態にありました

連合国はそのような状態を鑑み、セーヴル条約においてアルメニア人が多く住む地域をアルメニア共和国領と定めたのでした。

フランスがアルメニア人部隊を率いてキリキアに侵攻したのも、中世に存在したキリキア・アルメニア王国を復興させ、そこに追放されたアルメニア人の居住区を作る狙いもありました。

 

しかしアンカラ政府はアルメニアによる東部アナトリアの占領を認めず、ムスタファ・ケマルは1920年6月に東部アナトリアの領土の奪還を指示。キャーズム・カラベキル将軍にトルコ大国民議会軍第15軍団を率いさせてトルコ・アルメニア国境を越え進軍させました。

 

▽第15軍団司令官キャーズム・キャラベキル将軍

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アルメニア軍は各地で敗退を重ね、カルス(現トルコ領)、アレクサンドロポル(現ギュムリ)、旧都アニが陥落。トルコ軍はアルメニア共和国の首都エレバンに向かって進軍を続けました。

 アルメニア政府は列強に介入を求めますが、他の国々は自らの利権の確保に忙しく有効な手立てが取れず、とうとう1920年11月にギュムリで停戦協定が結ばれました。これにより、トルコはアルメニア共和国に東アナトリアの領有を放棄させ、現在のトルコ・アルメニアの国境線が確定しました。

 なお、トルコ・アルメニア戦争直後にアルメニアにボリシェヴィキ赤軍が横から殴り込んできて、首都エレバンを占拠。共和国は崩壊し、アルメニア・ソヴィエト政府が樹立され、再独立は1991年のソ連崩壊まで待たなくてはいけなくなります。 

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まとめ

歴史的経緯や周辺情報が多すぎてちょっと長くなりました。

諸外国の野望や利権問題、国内の政治・宗教問題、少数民族問題などあらゆる諸問題がドッと吹き出した格好です。

そんな中でもほぼ全ての戦争に打ち勝ち、オスマン政府を廃して新たな近代国家トルコを成立させたケマル・アタチュルクは本当に凄い男だと改めて認識させられます。 

 それでもこの諸問題を一気に解決できるはずもなく、現在でもギリシャとはキプロス問題を抱え、国内では民族勢力と宗教勢力が戦い続け、クルド問題はトルコ政府のアキレス腱であり続けています。アルメニア人虐殺の過去を巡ってのアルメニアとの「歴史戦」の戦いは、日韓の対立以上のものがあります。

トルコ共和国建国時に存在していた問題の大部分は、未だ未解決のままということがよくわかります。

 

参考サイト

"Kuva-i İnzibatiye" Türkçe Bilgi

"The Repression of the Koçgiri Rebellion, 1920-1921" SciencesPo

"Çapanoğlu isyanı nedir?" havervaktim.com

Konya Ayaklanması - Vikipedi

Revolt of Ahmet Anzavur - Wikipedia

Battle of Marash - Wikipedia

"The Last Turkish-Armenian War: September-December, 1920" Armenian Research Center