歴ログ -世界史専門ブログ-

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実は存在しなかったと考えられる世界史の人物(後編)

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存在しなかった可能性が高い有名人

前編に引き続き、「実は存在しなかったと考えられる世界史の人物」をピックアップします。

前編は以下の人たちをピックアップしました。

  • 李巌(りがん)
  • ヨハネス20世
  • アルビダ
  • アルベルト・ダ・ジュッサーノ
  • メネリク1世
  • クリスチャン・ローゼンクロイツ
  • 梅妃
  • ウィリアム・テル

 まだご覧になってない方は、こちらよりどうぞ。

後編は、比較的マイナーな人物を中心にピックアップしてみました。

 

9. ブリテンの建国者・トロイのブルータス

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トロイア戦争の末裔によるブリテン建国神話

ブリテン島は様々な神話や伝説が存在する、神話の宝庫のような場所です。

その中でまことしやかに語られるのが、ブリテン島の最初の国王はトロイア戦争の末裔の「トロイのブルータス」という男だというもの。

彼はトロイア戦争の英雄アエネアスの子孫で、ギリシアで奴隷にされていたトロイア人7,000人を解放して船に乗せ、巨人やセイレーンら化物たちと遭遇して打ち負かしながら航海を続け、当時アルビオンと呼ばれていたブリテン島に到達。そして最初の王となったとされています。

この話は12世紀の年代学者ジェフリー・オブ・モンマスが記した「ブリタニア列王史」という本に載っているのですが、この本は歴史学的にはまったく価値のない偽書であるということで歴史家の評価は一致しています。

ちなみに、トロイア戦争で敗れた末裔が国の始祖になったという伝説は、ゴート族、ヴェネツィア、スカンジナビア、ローマ、ノルマン、トルコ、フランスなどヨーロッパ各地で見られるポピュラーなものだそうです。

 

10. ドラゴン退治で有名な聖ゲオルギウス

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 様々な伝説に彩られた竜殺しで有名な聖人

カッパドキアの聖ゲオルギウス(ジョージ)は「竜殺し」のエピソードで有名です。

ゲオリギウスが竜に槍を刺す意匠は人気があり、様々な地域の国章や市章に用いられているし、白地に赤い十字を描いた意匠は「セント・ジョージ・クロス」と言い、イングランドの国旗にも採用されています。

4世紀前半、カッパドキアの町には毒を吐く竜が住んでいて、様々な貢物を要求しては人々を苦しめていた。竜はとうとう人間の生贄を要求してきた。くじの結果、王の娘が選ばれてしまった。人々は困り果て、たまたま通りかかった聖ゲオルギウスに助けを求めた。聖ゲオリギウスは生贄の行列の先頭を歩んでいき、竜の目の前に立つと、先んじて竜の口を槍で一突きした。そうして王の娘の帯を借りて竜の口をぐるぐる巻きにして、人々の前に連れてきて言った。

「殺してほしくば、キリスト教を受け入れなさい」

そうしてカッパドキアの人たちはキリスト教徒になったのだ、というお話です。

聖ゲオルギウスの生涯は伝説に彩られており、真実は資料が少なくほとんど解明されていません。パレスチナのリュッダの人で、軍人の家系に生まれ、290年に殉教したと考えられています。その足跡や功績に関する資料は少なく、その存在自体を疑う人も少なくありませんが、少なくとも聖ゲオリギウスのお話の元になった人物はいた、ということは歴史家の間では認められているようです。

 

11. アルメニアの伝説的な王・美麗王アラ

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あまりにイケメンすぎたため殺された伝説の王 

 アルメニアの伝説的な王アラ美麗王は、アルメニアの文学や詩にたびたび登場する人物です。

アッシリア王国の女王セミラミスは、北の王国アルメニアのアラ王があまりにもイケメンであるため恋い焦がれ、様々な贈り物を送って求愛をした。しかしアラは求愛を断り続けた。アラ恋しさに気が狂ったセミラミスは、とうとう大軍を引き連れてアルメニアを攻めた。アラと部下たちは必死に戦ったが、大軍の前になすすべなかった。セミラミスは配下の兵にアラを生きて連れてくるように命じていたが、セミラミスの愛人の1人がわざとアラに矢を放ち、毒が回ってアラは死んでしまった。セミラミスは恋い焦がれたアラの死体を前にして悲しみにくれ、長い時間たたずみ、そして彼の横で自殺して果てた、というお話です。

アルメニアの人にとってアラは民族の誇りでもあり、アッシリアに抵抗したアルメニアのウラルトゥ王国のアラマ王と同一視されます。アラマ王は実在の人物ですが、アラ美麗王もセミラミスも架空の人物です。

 

12. スリランカ初代国王・ウィジャヤ

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Photo by Photo Dharma

 シンハラ人とタミル人の係争のネタとなるスリランカ初代国王

スリランカの建国の王とされているのはウィジャヤという人物で、インドからやってきてセイロン島に国を作る物語がスリランカの建国の物語となっていますが、事実とフィクションがごっちゃに混じり合っていると考えられています。

ウィジャヤの祖母サファデヴィは北東インドのベンガルの王族の娘で、家出をしてグジャラート州ラダの町でライオンと交わって子を授かり、シンハバフと名付けた。シンハバフはラダの王となり、シンハプラという町を作った。シンハバフは妹と結婚し、32人の子どもを儲けた。

長男のウィジャヤはシンハバフと共に王子に任ぜられますが、とにかく乱暴者で仲間と徒党を組んで暴れまわったため、父王の命令で仲間と共にシンハプラから追放されてしまった。そうして船に乗ったウィジャヤ一行はランカの島にたどり着き、ヤッカハスと呼ばれる先住民を打ち負かした後、タンバパニー王国を建国した、というのが大まかな物語です。

研究によると、古代スリランカはインドから渡ってきた人々によって2度大規模な征服が行われており、ウィジャヤの物語はこの両方のストーリーがミックスされている可能性があると考えられているそうです。

現在のスリランカでは北部のタミル人と南部のシンハラ人の民族対立が表面化していますが、 ウィジャヤの物語は両民族のナショナリズムに使われている節があります。

シンハラ人は自らはウィジャヤの子孫であるからスリランカ全土の支配の正当性がある、と主張するし、タミル人は自らはウィジャヤによって虐殺されたヤッカハスの子孫であり元々はスリランカは我々の物だった、と主張しています。一部のシンハラ人の学者は、シンハラ人もタミル人もウィジャヤの子孫であるため、タミルの分離主義は間違いであり、共に協力すべきと主張しています。

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13. 8世紀のポーランド女王・ヴァンダ

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ドイツ人への抵抗のためにヴィスワ川に身を投げた女王

ヴァンダはポーランド国家の伝説的な女王で、8世紀にクラクフの町を開いたクラクスの娘とされています。父王の死後にヴァンダはヴィストリアン族の女王となりました。

非常に美しく、優しく、知性もあり、スコトニッキー湖の戦いでドイツ軍を打ち破ったように軍事の才能もあったとされます。

ところが、彼女の美しさを伝え聞いたドイツ人の王リディギエルが、自分の嫁にならないと軍勢を率いて攻め滅ぼすと脅した。すると気丈なヴァンダは、自分自身が口実になって王国が滅びるのであればと、ヴィスワ川に身を投げて死んでしまった。

この物語は「死をもってドイツを拒否した」としてポーランドの愛国者には人気があり、ポーランド分割の時期や亡国時代にナショナリズムの支えとなりました。

しかし、ヴァンダの物語は12世紀〜13世紀ごろに成立したもので、スラブの神話や様々な民間伝承をミックスして作られたものと考えられています。

 

14. メロヴィング朝の祖・メロヴィクス

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Photo by Fordmadoxfraud

謎の多いメロヴィング朝の始祖的存在 

メロヴィクスはメロヴィング朝の初代国王クローヴィスの祖父とされる男で、メロヴィング朝の名前の由来になっています。

この人の伝承には謎が多く、その存在も含めて半ば伝説的な存在となっています。

メロヴィング朝の歴史家・トゥールのグレゴリウスの記述によると、メロヴィクスの父はフランク族の王クロディオであるそうですが、「偽フレデガリウス年代記」という書物によると、メロヴィクスの父は海の神ネプチューンであるそうです。もはやよく分かりません。

451年に西ローマ帝国軍がフン族の王アッティラをカタラウヌムの戦いで破った際、メロヴィクスも軍を率いて西ローマ帝国軍に加わったとされています。

一説によると、メロヴィクスという人物はフランクがキリスト教を受け入れた際にフランク人によって名誉を与えられたフランクの神ないし半神ではないかとも言われています。

 

15. 家族のために戦って死んだアユタヤ王妃・スリヨータイ

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王の身代わりになって戦いで死んだ悲劇の妃

1548年、コンバウン朝ビルマの国王タビンシュエーティーは、アユタヤ朝の征服を目指し東へ軍を進めました。これに対し、アユタヤ王チャクラパットと2人の息子は象に乗りビルマ軍を迎え撃とうとします。チャクラパットの妃スリヨータイは家族を心配するあまり、王には内緒で自ら男装して象に乗り戦いに参戦。

アユタヤ軍は劣勢で、とうとうチャクラパット王自らも武器をふるうのですが、ビルマ将軍の攻撃の前に王の象がつまづいて、大ピンチに陥った。するとスリヨータイは危険を顧みずビルマ将軍に戦いを挑み、哀れにも敵の刃に倒れて死んでしまった。

妃の死を嘆いたチャクラパット王は、アユタヤ西部にチェディ・スリ・スリヨタイという仏塔を建てて手厚く葬ったと言います。

このお話はタイ人にとても人気があり、2001年に「The Legend Of Suriyothai」という名前で映画化されてもいます。

ただし、スリヨータイの名前は同時代に資料は見えず、18世紀のボロマコート王の時代の資料から出てきたもので、実際にチャクラパット王と共に戦って死んだ女性はいたのですが、彼女の名前はプラー・ボロムディロックという16歳の少女で家族の代わりに死んだという事実もないそうです。

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16. ロシアの祖・リューリク

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 ルーシの始祖となったヴァイキングの王伝説

12世紀に成立した「原初年代記」によると、ノヴゴロド国に始まるルーシ国家の始祖は、リューリクというヴァリャーグ(スカンジナビア人)であるそうです。

チュード、東スラヴ、メリア、ヴェセ、クリヴィチの各部族はヴァリャーグの支配から逃れラドガの地に自分たちの国を作ろうとするも、意見がまとまらずに終いには争いを始めてしまい、戦いに疲れ安定した統治を求めてヴァリャーグに支配を求めた。その求めに応じ、リューリク、シネウス、トルヴォルの三兄弟はラドガの地に赴き、秩序をもたらした。リューリクはその後、ヴォルホフ川の源流から遠くない場所に「新しい要塞」という意味の町ノヴゴロドを建設した。その後リューリクの息子イゴーリは、都をキエフに移し、キエフ公国を建国した。

リューリクは9世紀後半までノヴゴロドの王にあったとされていますが、実際のところこの時代に本当にヴァリャーグがノヴゴロドに居住していたのかは疑問があることに加えて、イゴーリの父が本当にリューリクであるかどうかも怪しいと考えられています。

ただし、ロシア人はリューリクの存在を信じているようで、歴代のロシア王家の王朝はロマノフ王朝以前(9世紀から16世紀半ばまで)はリューリク朝と言われています。

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まとめ

国の始祖というのはやはり伝説的な人物になりがちというか。

人々を糾合するのに不都合が生じてきたときに、色々な要素を足したりして物語を膨らませて、ある種の正当性や国家求心力にした歴史があったのだろうと思います。

信じるか信じないかは自由だし、人によっては国家権力への盲目的な従順と批判するかもしれませんが、そうやって国をまとめてこようとしてきた先人の苦労も含めてすべて、愛すべき「世界史」だとぼくは思います。

 

参考サイト

 "The Legend of Ara the Beautiful" ARARA TOUR

" PHRA CHEDI SRI SURIYOTHAI (พระเจดีย์ศรีสุริโยทัย)" HISTORY OF AYUTTHAYA

"CHAPTER I THE BEGINNINGS;AND THE CONVERSION TO BUDDHISM" lakdiva.org

 "Queen Wanda" in your POCKET

Rurik - Wikipedia

Merovech - Wikipedia