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近代化に失敗したオスマン海軍 - 財政と人材の問題

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 老いた大国の近代化が失敗した構造的な問題とは

オスマン帝国はかつて、北はヨーロッパ、西は北アフリカ、南は東アフリカ、東はチグリス・ユーフラテスまでを支配する超大国でした。

地中海もかつては「トルコの海」と称され、強大なオスマン海軍はヨーロッパ各国が束になってもかなわなかったほど。

しかし17世紀ごろから徐々に国力が衰退し、19世紀には完全に軍事力はヨーロッパに劣るようになります。帝国の生き残りを図るため、スルタンや宰相は必死で軍の近代化を図るのですが、後に述べるいくつかの問題により大失敗に終わります。

なぜオスマン帝国は海軍の近代化に失敗したのかが今回のテーマです。 

 

オスマン帝国近代海軍の創設の取り組み

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スルタン・セリム3世の軍の近代化

オスマン帝国の衰退は17〜18世紀にかけて徐々に進行。

北東では新興国ロシアが台頭してトルコの新たな脅威となり、トルコの内海だった黒海でもトルコ船がロシアに追い払われる事件が多発。

軍の近代化を痛感したスルタン・セリム3世(在位1789年〜1807年)は、側近のキュチュク・フセイン・パシャを海軍長官に任命し海軍の改革を実施し、「海軍組織の再編」「財政基盤の確立」「人材の育成」を3本柱とする改革が推進されました。

国内数カ所に造船所やドッグを建設し、フランス人を中心に外国人を招いて技術者に西欧の技術を学ばせました。

しかしセリム3世の失脚により改革は頓挫してしまいます。

 

ギリシャ人の独立

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次に改革に乗り出したのはスルタン・マフムト2世(在位1808年〜1839年)ですが、この時に後に海軍の近代化のために必要なある重要なものが失われます。

それは「ギリシャ人」。

トルコ人は元々遊牧民族で基本的に海が苦手ですが、ギリシャ人は古代から海上通商を得意とする「海のプロ」。オスマン帝国は船を作るのも、作った船を運用するのも、その多くをプロであるギリシャ人の知識と経験に依存していました。

ところがバルカン民族主義の高まりでギリシャ人は独立を希求するようになり、1821年のギリシャ独立戦争で勝利し独立を勝ち取ったのです。

これにより、オスマン帝国は自国民でまかなえる海軍の人材を根こそぎ失い、人的にますます西欧人に依存せざるを得なくなったのでした。

 

スルタン・アブデュルアズィズの海軍増強策

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スルタン・アブデュルアズィズ(在位:1861年〜1876年)は歴代のスルタンの中でも特に海軍増強に固執した人物。

西欧の視察で列強が持つ艦隊に魅了された彼は、オスマン帝国のメンツを維持するための大艦隊の編成を目指し、慢性的な財政難を無視して外国から軍艦を買いまくりました。そのためオスマン帝国はわずかな期間でイギリス、フランスに次ぐ海軍大国になったのです。

 

 近代化の失敗

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アブデュルハミト2世の方針転換

次のスルタン・アブデュルハミト2世は、露土戦争の敗北後に危機的状況にある財政を立て直すため、海軍予算を大幅に圧縮し新規の軍艦の建造や購入を禁止しました。

既存艦隊の活動もストップされ、先のスルタン・アブデュルアズィズが作った自慢の艦隊は20年間近く金角湾にとどめ置かれました。このため、19世紀末に海軍の軍事技術が日進月歩で進む中、オスマン帝国は海軍技術の開発と導入を無視し列強に決定的な軍事的劣勢を取ることになってしまったのです。

 

 これにはアブデュルハミト2世の政治的方針がありました。

露土戦争中にオスマン帝国は黒海に自慢の大艦隊を派遣するも、ほぼ役立たずに終わりました。その理由をスルタンは「機関長が全員イギリス人だったから」と思っていました。

艦隊の構築から運用まで、すべてイギリス人にアウトソーシングしていたわけですが、いざ実戦となるとイギリス人の雇われ軍人たちはスルタンの命令に背き、「この命令は我がイギリスを敵に回す」などと主張する有様でした。

オスマン帝国の独力で艦隊の構築と運用は不可能、そしてアウトソーシングでも適切な運用が不可能となると、そもそもオスマン帝国には強大な海軍は必要なく、形だけあればよく、それが政治的な駆け引きの手段になれば問題ないというスタンスを取るに至ったのでした。

この時はオスマン帝国海軍の暗黒時代だったのですが、予算もないし、訓練もしないし、そもそも役割を求められないという状況は、軍備の質的低下もさることながら、人材の質的低下を招きます。

当時のオスマン帝国海軍を視察した日本海軍の関係者は、

「トルコの海軍はほぼ死んでいる。見た目は立派だけど使えない」と述べています。

土耳古の海軍は萎び振はず極言すれば海軍は殆ど死して只其名あるのみ…当国の軍艦を問へば曰く甲鉄艦幾艘曰く水雷艦十艘なりと。其言は実に美なれども之を実見すれば皆土京の河中に繋ぎて航海演習をなさず…要するに土国の海軍は腐敗して実用に適さず。(『時事新報」1891年4月2日)

 

防衛力としての海軍機能の強化策

大国としての海軍は放棄したアブデュルハミト2世ですが、オスマン帝国の国土を虎視眈々と狙うギリシャやロシアに対抗する沿岸防衛力の強化は検討せざるを得ませんでした。

海軍省はスルタンに対したびたび、ギリシャとロシアが新造艦を購入し日々発展を遂げていることを警告し、最新鋭艦の新造を進言します。アブデュルハミト2世はこれを受け入れますが、海軍省が主張するように艦船の新造は予算的に不可能であったため、既存艦の装甲を厚くしたりボイラーを取り替えたりする計画が立案されました。また沿岸警備のための水雷艇の増加策も計画されました。

しかし、これらの強化策はほぼすべて計画段階で頓挫し実行されることはありませんでした。

国内の工場にはこれら最新の軍事技術を取り扱えるところはなかったし、技術者も不足していたし、そもそも財政的に無理があったからです。

 

自壊したオスマン帝国艦隊

結局無策のまま日が過ぎていき、1897年に希土戦争(ギリシャ・トルコ戦争)を迎えます。

20年ぶりに金角湾から出航したオスマン帝国艦隊は、湾を出ないうちに主力艦メスウーディエのボイラーが破裂し、装甲艦ハミディエは出航直後から浸水を続け、水雷艇のほとんどもボイラーの空気漏れでまともに航行できない有様。

それでも航海を続け、実戦に向けて砲撃の演習を行うも、最初の砲撃で主力艦のほとんどの大砲が破損し使用不能になり、オスマン帝国艦隊は無残にも自壊したのです。

なぜオスマン帝国は度重なる努力にも関わらず、海軍の近代化に失敗してしまったのでしょうか。

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問題1. 財政

もっとも大きな問題は財政です。

19世紀末から欧米列強は海軍力の技術開発競争にしのぎを削り、人的資本的リソースをどんどんつぎ込んでいきました。その甲斐あって技術は日進月歩で進んでいったのですが、開発費用が膨大になり海軍の保持を極めて高額なものにしました。特に自国で海軍力を開発・維持することができないオスマン帝国は、非常に高価な海軍力を列強から買いまくり、財政破綻を招いたのです。

1853年のクリミア戦争でオスマン帝国は初めて外債を発行し、以降外国向けの借款を重ね、1875年に利子の支払いが不可能になり財政破綻状態となりました。1881年、債権国によって「オスマン債務管理局」が設立され、徴税権や借款交渉権などを握り、国庫収入の1/3が借金の返済に充てられました。

そもそも買うカネがなかったというのもありますが、オスマン帝国の財政は外国人によって牛耳られ、海軍力増強の予算を彼らが認めなかったのです。

 

問題2. 人材

「海のプロ」であるギリシャ人が帝国から離脱し、海軍を担う人材が根こそぎ失われたのは先に述べたとおりです。

さらには急速な技術の発展はオスマン帝国の主力であるトルコ人には全くフォローできないものであったため、いわゆる「お雇い外国人」の力を頼らざるをえませんでした。

同時期に近代化に着手した日本の場合、「お雇い外国人」は日本人への技術指導が主で、長期的な日本人の教育が施され、早期に日本人自身で自立することを目指しました。

一方でオスマン帝国の場合はイギリスやドイツなど兵器会社と技術者とがセットになっており、艦船の運用と設備の稼働のために契約を結んだ短期雇用者が大半を占めていました。そのためオスマン人への技術転移は難しく、結局外国人の技師や機関士に頼らざる得なかったのです

 後に統一ドイツ帝国の立役者となる大モルトケなど、軍事顧問団としてスルタンに仕える西欧人もいましたが、彼らはスルタンの侍従武官という地位に留まり、近代化における貢献度は低く、いつまでも自立できずにカネだけヨーロッパに吸い取られていくという状況が続いたのでした。

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まとめ

 かつて一大帝国を築き、その軍事力が周辺各国に恐れられたオスマン帝国は、ヨーロッパの軍拡競争に完全に乗り遅れ、またかつてワークしていたシステムに固執したことで動脈硬化を起こし、近代化の波に乗り遅れ列強の餌食になっていきました。

 同時期に近代化を目指した日本と比較すると、なぜオスマン帝国が失敗したかの教訓がまざまざと見えてくるのですが、だからと言って日本人が優れているということではなく、どのような組織体でもこのような状態に陥る可能性があるのです。

巨額の負債を抱え、海外で戦える人材に欠く現代日本が、オスマン帝国を嗤えるでしょうか。

参考文献

世界歴史<21>イスラーム世界とアフリカ 岩波書店 オスマン海軍の19世紀 小松香織