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【西洋史】下層階級から国王になった人物列伝

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 あまり数がないヨーロッパ史の「太閤様」

日本史の成り上がり者と言えば豊臣秀吉をすぐに連想します。

彼の出自には諸説あって、農民足軽の出身であったとも、その下の身分であったとも言われています。

日本史と同じく、中国史や中東史でも最下層身分出身の王は登場しますが、ヨーロッパでは最下層身分出身の王はあまりいない印象です。

階級社会が昔から明確なヨーロッパでは社会階級の流動は起こりづらく、ある程度は流動はありましたが、一代で王になるような人物は登場しづらい社会でした。 

そんなヨーロッパ史における「成り上がり者」をピックアップしてみます。

 

1. セルウィウス・トゥッリウス(王制ローマ)?-紀元前535年

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奴隷の身分からローマの王へ 

伝説的な建国者ロムルスを初代の王とする王政ローマは、ローマ市民以外の者や、移住してきたエトルリア人など外部の者を王に据えたり、征服した町の貴族をローマ貴族として認めたり、積極的な外部の取り込みで拡大をしていました。

第6代の王となったセルウィウス・トゥッリウスは、第5代王タルクィニウス・プリスクスと同じくエトルリア人であり、かつ元々は奴隷の身分であったと言われています。

奴隷の身分だったところをタルクィニウス・プリスクスの養子になり、その後養父が王になったので王宮に住むようになりました。ところが5代王タルクィニウス・プリスクスが第4代王の息子に暗殺されてしまったため、セルウィウス・トゥッリウスは先代の王の娘を嫁ぎ第6代王として即位しました。

王になった彼は、軍政や内政の改革を実施した他、現在でもローマの一部に残る「セルウィウス城壁」を建設して外敵の攻撃からローマを守りました。これはローマの7つの丘をぐるりと囲むほど巨大だったそうで、後年ハンニバルもセルウィウス城壁に阻まれています。

セルウィウス・トゥッリウスは紀元前535年、自分の娘とその婿であるタルクィニウス・スペルブスに暗殺され王座を簒奪されてしまいました。 

セルウィウス・トゥッリウスの出自には異説もあり、それによると彼はラティウム都市の王族であり、エトルリアから軍を率いてローマを征服。ローマの王に君臨したというものです。

まったく真逆のことが書いてありますが、どちらもワクワクする話ですね。

 

2. マクシミヌス・トラクス(ローマ帝国)173年-235年

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 トラキアの羊飼いからローマ皇帝へ

ローマ帝国最初の軍人皇帝として知られるマクシミヌス・トラクスの出身地はトラキア地方(現ルーマニア)で、当時からしたら辺境もいいところ。父親はゴート人で、母親はイラン系遊牧民族のアラニ人。

幼いころは父親の手伝いで羊の遊牧をしていましたが、青年になるとすぐにローマ軍団に志願。16歳という年齢にも関わらずメチャクチャに強かった彼はレスリングで年上の軍団兵を倒しまくり、トラキアに巡行していた皇帝セヴェルスに抜擢され軍団内で出世していきました。

紀元222年、皇帝ヘラガバルスが暗殺されアレクサンデル・セヴェルスが皇帝になるとマクシミヌス・トラクスは新兵の訓練の責任者に任命され、軟弱な新兵を戦士に鍛えあげる「ローマの鬼軍曹」のようなポジションで兵たちに大変慕われていました。

ところが235年にアレクサンデル・セヴェルスも暗殺されてしまうと、弱腰な皇帝にうんざりしていた軍団兵たちは、60歳を超えてるにも関わらず相変わらずマッスルな「オレたちのオヤっさん」を皇帝に擁立。元老院はそれを追認するしかありませんでした。

皇帝になったオヤっさんことマクシミヌス・トラクスはその後の北方蛮族との戦いで連戦連勝。北方民族に押されっぱなしだったローマに久しぶりに大勝利をもたらしました。

ですが、最前線からもたらされる皇帝の「粗野で無教養な書簡」は、既存エスタブリッシュメントの元老院の反発を強めました。「こんな野蛮な男がオレたちの上の皇帝という席にあることが許されてなるものか」。

元老院はプピエヌス・マクシムスという男を皇帝に擁立しマクシミヌス・トラクスの討伐を企て、これに敗れた彼は殺害され遺体はテベレ川に投げ込まれてしまいました。

 

3. ディオクレティアヌス(ローマ帝国)244-311

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 一兵卒からローマ皇帝へ

ローマ帝国に4分割統治(テトラルキア)をもたらしたことで知られる皇帝ディオクレティアヌスは、その出自が実はあまり定かではありません。

分かっているのは、生まれがダルマチアのサロナ(現クロアチアのソリン)で、両親の身分が低かったということ。農民だったのか、あるいは漁師だったのかなど細かいことは分かっていません。

若くしてローマ軍に入隊したことは確かなんですが、具体的にどのような軍務キャリアを歩んだのかもこれまた謎に包まれており、初めて記録に登場するのは282年、軍人皇帝の1人であるマルクス・アウレリウス・カルスによって近衛軍団のトップに任ぜられたことです。

その後カルスが変死し、帝位には息子のヌメリアヌスが継くのですが、ヌメリアヌスも変死してしまう。ディオクレティアヌスは軍の兵たちの推挙でニコメディアで皇帝を宣言しました。

ディオクレティアヌスは機能不全をあちこちで起こしている広大なローマ帝国を1人で統治するのは不可能と考え、同僚のマクシミアヌスを共同皇帝にし、東をディオクレティアヌス、西をマクシミアヌスが統治する分担統治制を導入。その後、正帝の下に副帝を立ててさらに分割統治をする4分割統治を実現しました。

ディオクレティアヌスはキリスト教徒を大迫害した人物としても知られ、303年には宣教師から信者までを反逆罪として一斉逮捕し、聖書を焼き教会を破壊し撲滅を図りました。

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4. ユスティニアヌス1世&テオドラ(ビザンチン)485-564, 500?-548

 

 農民から皇帝、サーカス女優から皇后へ

ローマ法大全を完成させたり、アヤ・ソフィア大聖堂を完成させるなど、東ローマ帝国の最盛期を築いたユスティニアヌス1世は、本名はペトルス・サッバティウスといい農民の生まれでした。コンスタンティノープルで王宮の警護兵をしていた叔父ユスティヌスは、聡明だったペトルス少年を養子に貰い受けコンスタンティノープルで勉強をさせました。

叔父ユスティヌスは近衛兵として出世し、そのブレーンとしてユスティニアヌスは欠かせない存在となっていました。前皇帝アナスタシウス1世が死亡した後、ユスティヌスはユスティヌス1世として即位。ユスティニアヌスも皇帝を支える腹心の1人となり、後に共同皇帝となり、叔父の死後には単独皇帝として即位しました。

 また、ユスティニアヌス1世の妻のテオドラも低い身分の出自でした。

父親はサーカス団で働いており、テオドラ自身もサーカスの女優をしていました。当時のサーカス女優は春を売ることもあったようです。

ユスティニアヌス1世はテオドラに出会ってすぐ一目惚れし、叔父のユスティヌスの力を借りて身分差の結婚を許可する法律を制定させて彼女と結婚しました。

テオドラもまたユスティニアヌス1世の政治面での強いパートナーとなり、心が折れそうな局面でも皇帝を支え続け、東ローマ帝国の黄金時代を築いたのでした。

 

5. イヴァイロ(ブルガリア)?-1280?

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Image from "Ivaylo - the peasant with extraordinary military talent" bnr

 貧農からブルガリア皇帝へ

13世紀後半のブルガリアでは、度重なるモンゴルの侵入で国土は荒れ皇帝の権威は失墜していました。

1277年、イヴァイロ(ギリシャ語でキャベツという意味)というあだ名の男が現れ、農民たちを糾合して自警団を作り、モンゴル軍を打ち破ってしまいました。

イヴァイロはその名からも分かる通り貧しい農民の出で、雇われの豚飼いで生計を立てていましたが、ある日突然神の啓示を受けたとし、農民軍の首領として人々をまとめるようになっていきました

イヴァイロの農民軍は、ブルガリア皇帝コンスタンティン・ティフの軍勢を打ち破り皇帝を処刑。首都タルノヴォに迫りました。混乱するブルガリア情勢を知った東ローマ皇帝ミカエル8世は、コンスタンティノープルに亡命していたブルガリア王族イヴァン・アセン3世に軍を持たせて攻め込ませブルガリアを服属させようと企みました。

首都タルノヴォを守っていた女王マリアは、イヴァイロと和解し結婚。イヴァイロはとうとうブルガリア皇帝に就任しました。イヴァイロとマリアはイヴァン・アセン3世の侵攻から国を守ろうとしますが失敗し、イヴァイロは首都を離れ再び皇帝の座を狙いますが、次第に疲弊した農民軍は離反していき、最後はイヴァン・アセン3世の刺客により殺害されてしまいました。

 

6. カリン・モンスドッテル(スウェーデン)1550-1612

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侍女から王后へ

カリン・モンスドッテルはスウェーデン王エリク14世の后。

エリク14世はスウェーデンを大国にすべく対外戦争を推進した男でしたが、年を経るにつれ精神が混乱し発狂の症状を表すようになっていきました。

そんな王を支えたのがカリンで、ブランドの髪で無垢な瞳をしていたと言われ、上の絵画で描かれているのは錯乱するエリク14世の腕を支えるカリンと、王に署名をさせようとペンを持つ側近ヨラン・ペッションという構図です。

カリンとエリクの出会いには伝説があり、母親と共に市場で野菜を売っていたところにたまたまエリクが馬車で通りかかり、一目惚れをしたエリクがカリンに求婚した、というもの。

ただ実際のところ、母親はエリクの異母妹の侍女であった人物で、母親と同じくカリンも侍女として宮廷内で働いており、そこで見初めたと考えられています。

カリンは王宮内で唯一エリクの発作を抑えることができた人物で、特に野心もなく、公の愛妾として王家内でも認められていましたが、エリクがカリンを王后に迎えると宣言すると宮廷内は大混乱に陥り、結婚式の後早々にエリクは廃位され、エリクとカリンは引き離されて幽閉されてしまいました。

その後エリクは毒殺され、カリンはフィンランドに土地を与えられてそこで余生を過ごしました。土地の人々はカリンを尊敬し、大規模な暴動が起きたときも暴徒たちはカリンの土地には入らなかったそうです。

 

7. コンスタンティン・チェルネンコ(ソ連)1911-1985

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貧農からソ連の最高指導者へ

 1984年から1985年にかけてソ連の最高指導者を務めたコンスタンティン・チェルネンコは、シベリアのクラスノヤルツク近郊の貧しい農村の生まれ。

少年時代にロシア革命が起き、12歳で母親を亡くし、チェルネンコは教会の農場で働きながら生計を立てていました。

1929年にソ連全土で集団農場への強制移住が始まるとチェルネンコはコムソモール(共産党青年団)に加わり、たちまち頭角を表し、委員会のリーダー的存在となりました。

1年の軍務の後、1931年に共産党に入党し、プロパガンダや宣伝部門で順調に出世していき、1956年にソ連共産党宣伝部大衆煽動活動課長に就任。ブレジネフの側近となり、独自の人脈を構築し政治力を蓄えます。

1982年にブレジネフが死亡し、1984年に後継のアンドロポフも死亡すると、チェルネンコは72歳でソ連最高指導者に就任。彼は特別カリスマ性があるわけではなく、地道に真面目に仕事を続けていた結果、他に誰もいないため、トップに就任したという具合です。そのためチェルネンコは国民からは人気がなく、しかも長年患った肺気腫が激務により悪化し、就任からわずか1年で死亡しました。

 チェルネンコの後任は、ペレストロイカやグラスノスチの政策を進めたミハイル・ゴルバチョフです。

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まとめ

運もかなり味方したでしょうが、実力によってのし上がった感じですね。

 そしてそのような人物が、実力によってのし上がることができる社会情勢だったということなんでしょう。

彼らがもし現代に生まれていたら、どのような活躍をするんでしょうね。

実際、有能な政治家やビジネスマンになるかもしれませんし、スポーツや芸能界でも活躍する人物かもしれません。または、マフィアの大物にでもなってしまうかも。

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