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老いてなお戦場に立った伝説の老将軍(前編)

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老兵は死なず只消え去るのみ

若き頃から戦場に生き、戦場をまるで我が家のごとく過ごし、老いてもなお第一線に立つ。「老兵」ってすごくカッコよく感じませんか? 

どっしりと腰を構えて軍議を聞く老将軍の姿もカッコイイし、馬に跨がって敵に立ち向かっていく老兵士もカッコイイ。

「老兵は死なず只消え去るのみ」と言ったのはマッカーサーですが、仲間の死を犠牲にして生き残り、戦場ではなく「引退」という形で消えていくという、戦いに生きた無骨な人間の生き様に胸が熱くなります。

今回は前後編で、超有名な世界史の「老将軍」をピックアップしてみたいと思います。 

 

1. 廉頗 ?-?(中国)

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Photo from "廉頗是怎麼死的 如何評價廉頗"壹讀

運に恵まれなかった悲劇の名将

廉頗(れんぱ)は戦国の七雄・趙国の将軍。

紀元前283年、趙の恵文王の時代に斉との戦いで大勝利し、陽晋の町を分捕る武功を上げ、執政官の上卿という位を授かりました。

恵文王が死に、次に武を尊ぶ孝成王が王になったので廉頗は厚遇されるのですが、紀元前263年に秦との間に廉頗の運命を変える「長平の戦い」が勃発します。

秦の将軍・白起が韓の南陽を奪取。すると韓の領土は二分割されてしまったので、韓王は秦に北部の上党郡を差し出そうとしました。しかし上党郡の長官は秦にくれてやるくらいなら、と趙に引き渡しを打診。これに怒った秦軍が出兵し、趙軍は廉頗が軍を率いました。廉頗は他国に使者を送り外交戦に持ち込むなら勝てると踏み、積極的な軍の展開は避け続けました。しかし孝成王は「なぜ廉頗は戦わぬのだ」と文句を言い、廉頗を首都邯鄲に呼び戻してしまう。秦の将軍・白起はこの機会に大いに軍を送り、趙軍40万を殲滅したそうです。

名声の衰えた廉頗でしたが、その後再度武功をたてて対燕・対魏戦で活躍するも、孝成王の死後に突如将軍の地位から落とされたため、趙を棄てて魏に亡命。その後楚に亡命するも活躍できずに客死しました。 

 

2. 王翦 ?-?(中国)

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秦の統一に最も貢献した将軍 

王翦(おうせん)は若い頃から兵法を好み、秦王・政(後の始皇帝)が秦王に就いてから秦に出仕するようになりました。

紀元前236年、政は王翦を主将にし、副将に桓騎(かんき)、佐将に楊端和(ようたんわ)を据えた遠征軍を趙に送り込みました。この戦いで桓騎が趙の首都・邯鄲の南の鄴(ぎょう)を落とし、王翦の軍は閼与(あつよ)を落とした。桓騎の軍は王翦の軍と合流し、合計で9の城を落としました。趙は亡国の危機にさられますが、将軍・李牧の活躍でギリギリ国を保っていました。政は謀略を用いて趙の宮廷に郭開という者を送り込み、諫言をさせて李牧を追放させ、それに乗じ王翦は軍を展開し趙を滅ぼしました。次いで、北の燕に子の王賁 (おうはん)と若い将軍の李信と攻め込み滅ぼしたのでした。

政はこの李信という将軍を殊の外信頼していたようで、ある時李信と王翦に楚を攻略するのにどれくらいの兵が必要かとを説きました。

李信は「二十万で充分でしょう」と答え、王翦は「六十万でなければ無理です」と答えた。政は「王翦将軍は老いたな。李信将軍は果勢壮勇であり、その言はふさわしい」と言い、李信と蒙恬に楚攻略を任せました。王翦はこれを聞き、病と称し故郷に隠居してしまいました。

しかし、李信は警戒を怠り楚軍の急襲を受けて大敗。敗北を知った政は王翦の元を訪れ、自らの非礼を謝罪。王翦に六十万の兵を授けて楚に侵攻させました。

王翦は巨大な営塁を建築し、六十万の兵に「毎日遊んで暮らせ」と命令しました。楚軍は秦兵が毎日遊んでいることを知ると戦闘意欲を失い、将軍・項燕は呆れ返って撤退を始めました。時は来たと王翦は全軍を動員し背後から楚軍に攻撃をかけ、それから1年で楚の城邑を攻略し滅亡させたのでした。

 

3. 蒙恬 ?-BC210(中国)

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 始皇帝の信任の厚い老将軍

蒙恬(もうてん)は元々斉の人で、祖父蒙驁(もうごう)の秦の荘襄王(そうじょうおう)の時代に韓・趙・魏の遠征に活躍した人物。父の蒙武も軍人で、弟の蒙毅(もうき)は官吏というエリート一家。

紀元前221年、蒙恬はその家柄のおかげで秦の将軍となり、斉を攻めて打ち破りその功を認められ内史(だいし)に任命されました。

秦による天下統一後、蒙恬は三十万の兵を率いて北方の異民族を攻め、黄河の南の地域(オルドス)に長城を築き、軍事拠点・陽山(ようざん)に十数年駐屯し防備を固めました。

蒙恬は始皇帝に重用され大将軍として秦軍のトップに君臨し、弟の蒙毅は始皇帝の側近となり、二人は忠信の臣との名声を得、始皇帝を支え続けたのでした。

紀元前210年、始皇帝が死去。丞相・李斯(りし)、公子・胡亥(こがい)、中車府令・趙高(ちょうこう)は共謀し、胡亥を皇帝に立てることを画策。超高は以前蒙毅が自分を取り調べした時に自分に便宜を図ってくれなかったことを怨んでおり、蒙毅を殺害することも望んでいたのでした。

胡亥は太子になると使者を派遣して、罪状を上げて公子・扶蘇(ふそ)と蒙恬に死刑を命令。疑わしい罪状にも関わらず扶蘇は自殺してしまいますが、蒙恬は疑いを抱き再度の命を請いました。そうして蒙恬は牢屋に留置されてしまいます。

次いで趙高は胡亥に「蒙毅はあなたの太子擁立に反対していた」と進言。これを聞き入れた胡亥は蒙毅を代(山西省)に投獄しました。

始皇帝の葬儀後、胡亥が正式に二世皇帝となった後、皇帝から自殺の命令が下され、蒙恬と蒙毅は自殺に追い込まれたのでした。

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4. クィントゥス・ファビウス・マクシムス BC280-BC203(ローマ帝国)

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ハンニバルから国を守った「ローマの盾」

紀元前218年、カルタゴのハンニバルが冬のアルプス山脈を超えてイタリア半島に侵入(第二次ポエニ戦争)。

驚愕したローマ軍は軍を出すも、ティキヌスの戦い、トレビアの戦い、トラシメヌス湖畔の戦いで相次いでハンニバル軍に敗れました。事態の収拾のため、ローマはクィントゥス・ファビウス・マクシムスを緊急事態に対処するための臨時職、独裁官に任命しました。

ファビウスは稀代の天才軍師であるハンニバルに正面からぶつかっても必ず負けると確信し、カルタゴ軍と直接戦わずに追尾するだけして、また事前にカルタゴ軍の進路を焦土化させることで、カルタゴ軍の補給の消耗を待つ持久戦に持ち込むことを提案。

当初この戦略はローマ内で大変な批判を浴び、ファビウスは「ぐず、のろま」と罵倒を浴びせられました。ファビウスを批判し攻勢に打って出たミキニウスは危うく死にかけるし、ファビウスに代わって執政官になったヴァッロも攻勢に打って出た途端に、カンナエの戦いで歴史に残る大敗北を喫することになりました。

持久戦略は見直され、再び執政官となったファビウスは、再びハンニバルとの戦闘を避け続け、次第にハンニバル軍は補給も援軍もなくイタリア半島内で孤立していき、ローマの将軍プブリウス・コルネリウス・スキピオのカルタゴ上陸にあたって、イタリア半島からアフリカに撤退を余儀なくされたのでした。

・関連本

アド・アストラ ―スキピオとハンニバル― 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

アド・アストラ ―スキピオとハンニバル― 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 

5. 黄忠 ?-220(中国)

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三国志を代表する老将にして弓の名人 

黄忠は蜀の劉備に仕えた将軍で、三国志演義では60歳を超えた老人ながら弓の達人で、敵将を自ら打ち取る豪将として描かれています。演義では五虎大将軍の一角にリストアップされています(関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲)。

元々は長沙太守・韓玄の配下にいましたが、赤壁の戦いで呉・蜀連合軍が勝利し、劉備が荊州南部を支配すると劉備に仕えました。219年の劉備の漢中攻めに従軍し、魏の将軍で曹操の古くからの武将である夏侯淵と対峙。定軍山の戦いで黄忠は騎馬軍団を率いて本陣を陥れ、とうとう討ち取ってしまいした。

この戦いの勝利で劉備は漢中を支配し、黄忠は征西将軍に昇進しました。

生まれが定かではないので何歳で亡くなったのか分かりませんが、劉備が黄忠を後将軍に任命しようとした時、筆頭将軍だった関羽は「あの老いぼれとオレが同列になるとは!」と言って拒否したそうなので、一番活躍した時は当時からすると結構な年寄りだったようです。

ちなみに演義では続きがあり、夷陵の戦いにて、劉備が老兵を軽んじる発言をしたため「若者には負けん」と発奮して奮戦し、最期は呉の武将・馬忠の矢に射られ死亡したとされています。

 

6. アンドレア・ドーリア 1466-1560(ジェノヴァ共和国)

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 84歳まで活躍したジェノヴァの雇われ海軍提督

アンドレア・ドーリアはジェノヴァの古くからある貴族の生まれ。

若い頃から傭兵となり、ナポリのフェルディナンド1世やアルフォンソ2世に仕え名声を上げた後、自分の海軍を組織しトルコ海軍やサラセン海賊相手に暴れまわり、一財産を築き上げました。1522年に故郷ジェノヴァが神聖ローマ皇帝カルロス5世に取り込まれたことをきっかけにフランス海軍に入り、フランスの地中海艦隊の司令官となりました。

しかしフランスの政策が気に食わず仲違いをし、1527年に神聖ローマの雇われ提督となりました。皇帝カルロス5世はドーリアにジェノヴァの当地を一任しました。

1528年から死ぬまでドーリアはジェノヴァの政治を支配し、それまで支配的だった門閥政治を排除し、特定の貴族からなる寡頭制を採用。ジェノヴァ共和国の親神聖ローマ政策を進めますが、親フランス派からの反発の根強く、特にフィエスチ家はドーリアの甥ジャナンティーノの殺害を画策。ドーリアは彼らを検挙。親フランス派のドーリアに対する抵抗は続きますが、全て失敗に終わりました。

84歳の年になってもドーリアは海に出て艦隊の指揮を続けました。サラセン海賊討伐、そして対フランス戦を戦い、1555年にジェノヴァに引退し、自らの艦隊を大甥のジョヴァンニ・アンドレア・ドーリアに譲りました。

 

7.クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール 1653-1734(フランス)

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フランスの大敗北を救った救国の英雄

ヴィラールはルイ14世とルイ15世時代のフランスの将軍。フランスが断絶したスペインの王位継承を狙い列国がそれに歯止めをかけようとしたスペイン継承戦争において、フランスの大敗北をギリギリで救った将軍です。

領土拡張路線を突き進むルイ14世の元、フランスはネーデルラント継承戦争、大同盟戦争など周辺各国と次々戦争を起こし、イギリス・ネーデルラント・神聖ローマ・オーストリアなどは反発を強めていました。

そんな中スペイン・ハプスブルグ家のカルロス2世が子を残さず死亡し、その後継者にルイ14世の孫・アンジュー公フィリップが指定され、フェリペ5世として即位。これを受けルイ14世はスペインのフランス統合を推進しようとしたため、周辺諸国軍とフランス軍の戦闘がヨーロッパ各地で勃発しました。

ヴィラールはライン川戦線で転戦し、フリートリンゲンの戦いで神聖ローマ帝国軍を打ち破った功績で元帥に昇進しました。バイエルン選帝侯マクシミリアン2世がフランス側に立った後、ヴィラールはバイエルン軍と合流し一時はウィーンに迫る勢いでしたが、マクシミリアン2世と意見が合わずに本国に召喚されてしまいます。その後も各地を転戦するも全体的にフランス軍は苦戦続きで、ルイ14世は同盟軍との和平交渉を望みますが出された条件が「フランスのスペイン統合を放棄する」といった内容であったため交渉は決裂。戦闘が再開されます。

同盟軍はフランス本国に侵入。ヴィラールは兵をかき集め北部のマルプラケに要塞を構築し同盟軍を迎え撃ち、戦いには敗れますが同盟軍に痛打を与えることに成功(マルプラケの戦い)。

次第に同盟軍の間にも厭戦気分が高まり、イギリスが戦争から離脱するとヴィラールは奪われていていたフランスの町を次々と奪還していきました。講和は1714年に締結され、当初の同盟軍の要求からは緩和された内容で折り合いがつき、当初の争点だったフェリペ5世の王位継承は認められました。

ヴィラールはフランスを救った英雄としてルイ15世の治世でも戦場に立ち、1733年のポーランド継承戦争には80歳で戦闘の指揮を取りました。

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つなぎ

「老練」という言葉がしっくりきますね。

武功を焦る若手に対し、時間が必要だ、焦るな、とどっしり構える。

それが結果的に、王や王の側近たちの不信を招いて悲劇を生み出してしまったことも数多い。

老将軍シリーズ、後編に続きます。

 

reki.hatenablog.com

 

参考本

 

 

 参考サイト

"『史記 蒙恬列伝 第二十八』の現代語訳:1"

"Quintus Fabius Maximus Verrucosus" Encyclopedia Britanica

"Anrea Doria" Encyclopedia Britanica