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巨大インド市場に紅茶を売った「大英帝国流マーケティング」

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インド人に紅茶を売り込め!

インド料理を食べた後には、ラッシーか甘い紅茶を飲みたくなります。

砂糖とミルクがたっぷり入って、少しカルダモンの香りが効いたあれです。 

 口に残る強烈なスパイスの味をさっぱりさせてくれて、さすが長い伝統の中で育まれた味…と思うのですが、実はインドで紅茶が普及したのはそんなに古い話ではなく、たかだかここ100年のことです。

インドは今や世界有数の紅茶の消費国でもあり生産国なのですが、その背景にはイギリス人による大規模なマーケティングとセールスプロモーションがあったのでした。

 

1. 長らく茶を飲む習慣がなかったインド

茶を飲む習慣は4世紀ごろに中国で始まったというのが通説です。

6世紀から8世紀頃に朝鮮半島や日本に伝わり、南に下ってタイ、ミャンマー、アッサム、西に行ってチベット、ヒマラヤにまで飲茶の習慣は広がっていきます。

しかし長らくインド人は茶を飲む習慣がありませんでした。

17世紀の記述によると、当時の富裕層に人気があったのはコーヒーで、デリーの大通りにはコーヒーを飲ませる店があったし、南西部にはコーヒー農園がいくつもあったそうです。

一般の人々はどうかというと、もっぱら水を飲んでいました。

インドの水は「暑いインドの太陽の熱によって浄化され、消化されやすくなっており、味も美味しく生臭さがない」と思われていたようです。日本人が飲んだら重度の腹痛でトイレに引きこもること確実ですが、要は慣れなんでしょう。

インドにも茶は入ってきていましたが、どちらかというと「生薬」という扱いで、頭痛や関節痛の痛みを和らげたり、瞑想を助けるものだったので、非常に高価だったし、普段飲むものではありませんでした。

イギリスでは17世紀には既に茶を飲む習慣が一般化していたため、インドにやってきた駐在員たちは紅茶を現地で確保するのに大変苦労したわけです。

 

2. イギリス人による茶栽培のはじまり

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 Photo by Benoy

難航するインドでの茶栽培

1823年、ロバート・ブルースという人物がアッサム地方の少数民シンポ―族が茶を飲んでいることを発見しました。同時期に、アンドルー・チャールトン中尉がインドで茶が栽培できないかの調査を行っています。

当時、イギリスは茶の輸入の大部分を中国に依存していました。

当時の中国の茶栽培は労働集約的な零細農家に委ねられており、特に生産計画など設定されるはずもなく供給量は不安定で、東インド会社は常に1年分の在庫を確保し、供給不足に備えなければなりませんでした。安定した茶生産はイギリス人の悲願であったのです。

1834年から「紅茶委員会」が設立され、インドでの本格的に栽培の模索が始まりました。

しかし当時、茶の生産技術は「中国の国家機密」であり、中国はありとあらゆる方法を使って技術漏洩を防ごうとしました。外国人が茶畑に近づこうとすると追い返され、場合によっては拿捕されてしまう。

中国から茶の技術を盗もうと、G.J.ゴードンという人物が派遣され、彼は苦心の結果1835年に八万本の苗木をインドに送り、また2人の中国人技術者を連れて帰ることに成功しました。

1838年にはアッサム産の茶は12箱の紅茶を生産することができるようになったのですが、まだまだ不慣れなこともあり出来が悪く、最も安価な中国産茶葉の足元にも及ばないレベル。

技術改良と茶畑の拡大、技術者の養成の格闘がしばらく続き、1860年代には成長性が見込まれ、アッサム地方にイギリス人の資本家・技術者・労働者がこぞって訪れるようになりました。新参者たちは未開拓地を開墾して茶を植え、茶畑はどんどん拡大。

1870年代にアッサム産の茶はようやく安定した収益を上げられるまでになりました。

 

さらなるマーケットの拡大のために

1880年からイギリス人は「インド産紅茶」を世界規模で大々的に宣伝し始めました。

イギリス本国のみならず、オーストラリア、カナダといった大英帝国の国々に積極的にキャンペーンが展開され、紅茶の無料サンプルとおまけのティースプーンは配布後にすぐ底をつく状態。味もかなりよく、1880年の品評会ではインド産紅茶がほとんどの賞をかっさらい、国際的な評価を上げました。

イギリスでは、トマス・リプトンがインドとスリランカから安価に大量に仕入れる方法で「紅茶の価格破壊」を実現。これまでの1/3程度の価格で庶民に安く紅茶を提供することに成功しました。

 1900年には、イギリスにおける紅茶の産地のシェアは、インドとスリランカで83%を占め、中国はわずか10%にまで低下していました。

 

イギリスの紅茶産業界は、さらなる成長のために「インド人に紅茶を普及させること」を目指すようになります。

インド産の紅茶が世界を席巻しようが、インド人は紅茶に見向きもしなかったし、紅茶産業で働いているインド人ですら、家で紅茶を飲もうともしなかったのです。

イギリスは官民挙げたマーケティング活動をインドで展開していきました。

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3. 「紅茶協会」による宣伝活動

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1901年から「インド紅茶協会」はインド人に紅茶を普及させるべく、マーケティング活動を拡大させていきます。後に目覚ましい効果を上げるのですが、大変骨の折れる地道な活動の繰り返しでありました。

 

市場調査

紅茶協会は市場調査から始めました。

ヨーロッパから来たバックパッカー2人をバイトで雇い、インド中の食料品店を訪問させ紅茶の取扱い状況を調査。店員や近所の人にリプトンの紅茶を試飲させ反応を確認しました。

三年間の調査の結果わかったことは、「インドにはまともな紅茶市場がない」こと。

ただし、提供されれば人々は受け入れるし、反応は悪くなかったので、適切な機会さえあれば普及が見込めると思われました。しかしそれから14年間、セールスマンの必死の売り込みにも関わらず、一向に普及する見通しは立ちませんでした。

 

労働者への普及作戦

紅茶普及のための取り組みは様々に行われていましたが、最も効果を上げた方策が「労働者への紅茶の提供」でした。

第一次世界大戦中、軍需産業は好景気に沸き、工場や炭鉱、綿紡績工場はフル稼働で回っていました。イギリス人は労働者が飲める飲料を紅茶だけに指定し、喉が渇いた労働者に強制的に紅茶を買わせるようにしました

紅茶の味に慣れた労働者が家に持ち帰り、妻や子にも広がることを期待したわけです。

さらには、「紅茶を飲むための休憩時間」を設けるなどし、紅茶を飲むという行為自体を習慣化させようとしました。

果たして、1919年ごろには紅茶は工業地帯の労働者とその家族の間に普及していきました。

 

鉄道での紅茶販売

インド中に紅茶を普及させる上で役に立ったのが、イギリス人が各地に建設した鉄道です。

紅茶協会は紅茶の売り子を雇い、やかん・コップ・ティーパックを持たせて鉄道駅で働かせました。鉄道が駅に着いたら、「チャイ!チャイ!」と叫んで窓越しに客に茶を飲ませるのです。特に地方からやって来た人にとっては、旅先で出会った目新しい飲み物ということで飲んでみたがったし、ヒンドゥー教との高位カーストに所属する者は、低位カーストやムスリムから水を受け取ることができなかったので、紅茶の提供は大変喜ばれました。

紅茶売りが儲かる商売と知られ、紅茶協会が雇った以外にもモグリの販売員が各地に現れて品質と値段を競うようになり、1930年代には「列車の一等食堂車よりも駅の売り子の茶のほうが旨い」と言われるほどにもなったのでした。

 

 

4. 大衆にも広まる紅茶の飲用

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都市富裕住民への普及

紅茶協会のマーケティング部隊は、インドの大都市に「ティーショップ」をオープンさせ、都市住民への販売促進も行いました。

ひとたびティーショップがオープンし、流行に敏感な都市住民が飛びつくと、すぐに近くに似たようなティーショップが出現しました。しかもオフィシャルよりも安い値段で売るものだから、すぐに紅茶協会の直営店は潰れてしまうのですが、イギリス人はこれは「大いなる進歩」であるとみなしました。

ただし、様々なスパイスやミルク、砂糖をたっぷり入れて強烈に甘くし、茶葉の量を減らした入れ方が問題視されました。

幅広い人に売るためのインド人の独自ローカライズだったのでしょうが、紅茶協会は結果的にインド中で売り上げる茶葉の量を評価対象としていたため、茶葉の量が減る売り方は好ましいものではありませんでした。

そこで「正しい紅茶の飲み方」で販売するセールスマンを増員して、イギリス式の飲み方の普及も図られました。

 

都市部中流以下の家庭への普及作戦

ティーショップは富裕層の都市民のみが訪れることができる場所で、中流以下の女性たちは町に出てティーショップに訪れる金銭的余裕はありません。

そこで紅茶協会は村や家庭を直接訪問し、紅茶の普及を図るための大規模な販促キャンペーンを実施しました。

紅茶デモンストレーターがある村に4ヶ月間毎日入り、各家庭を尋ねて紅茶の入れ方を教えるという非常に地道な普及活動です。キリスト教の伝道と同じようなやり方で、イギリス人には馴染み深いやり方だったのでしょう。

特に高位カーストや厳格なイスラムの村などでは強烈な反発に合うことが多くありましたが、この地道な普及活動は何年も続けられ、1930年代には都市部の家庭に広く浸透していきました。

保守派はこの新たな飲み物の害を説き、牛乳やバターミルクなどの伝統的な飲み物のほうが健康的と訴えました。

 

地方の村への普及作戦

地方の村への普及には「映画」が用いられました。

仮設の映画館が設置され、近隣の村人がたくさん映画祭に招かれる。ここで飲み物として紅茶が配布されるわけです。ひと度飲んでしまえば、地方の人達も味が大変気に入って2杯・3杯と飲むようになったし、次に紅茶協会のデモンストレーターが入ったときには、映画がなくても人々は紅茶を欲しがるほどでした。

 

インド兵に愛された紅茶

第二次世界大戦が始まると、紅茶協会は大英帝国の国々に積極的に紅茶を提供しました。

日本軍のインパール作戦が始まると、撤退してきた部隊や負傷した兵が東部の都市に続々と流れ込むようになりました。紅茶協会は敗走兵・負傷兵に紅茶を配って回りました。兵士たちにとって紅茶は「傷ついた心と身体を癒す万能薬」となり、紅茶を飲む習慣を付けたインド兵は、故郷に帰った後その習慣を家族や親戚中に広げていったのでした。

 

 

5. 世界一の紅茶大国インド

1945年になると、路上生活者ですら紅茶を飲むまでになっていました。

しかしまだまだ一人あたりの消費量は少なく、1955年にイギリス人が1年間で一人あたり4.5キロの茶を消費していましたが、インド人はわずか200グラムでした。

イギリスはマーケティングを再び強化し、家庭への訪問、ティーショップの展開、鉄道販売などのキャンペーンを繰り返し繰り返し実施しました。

インドがイギリスから独立してからも、インド人の紅茶の消費量は増え続けていき、20世紀末には年間715万5000トンの生産高のうち、国内で70%近くを消費するという、世界一の生産国・消費国となっていました(2000年代に入ってからは中国が一位)。

現在ではインドの人々は、金持ちも貧乏人も、男も女も、家でも外でも、立ってても座ってても、紅茶をすするようになりました。

最も普及している種類は、冒頭で上げたような「砂糖とミルクがたっぷりで、カルダモンの香りが効いた」ような甘いやつ。地方によって様々な種類があり、例えばシナモン、黒胡椒、クミン、唐辛子、ドライフルーツなどで香り付けしたものもあります。

紅茶協会が危惧したように「イギリス式」の紅茶の普及は達成できなかったようですが、このようなインド独自の紅茶は逆輸入的にアメリカやヨーロッパ、日本にも入って人気となっています。 

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まとめ

以前何かで読んだ本にこんな内容がありました。

靴のセールスをしていた男が、アジア太平洋地域での市場調査のために太平洋のある島を訪れた。

すると、住民は裸足で生活をしていて、靴という存在自体を知らなかった。男は絶望した。「このような地域で靴を普及させるのは不可能だ」と。

しかし考え方を変えれば、もし靴の利便性やファッション性を人々に分からせることができれば、男はその島で独占的な地位を占められたのです。

イギリス人は職場での販促、メディアを使った販促、地道な啓蒙を40年近くかけてやり、インドを大規模な紅茶市場に育て上げました。

 1900年にはほとんど誰も紅茶を飲んでなかったことを考えると、時間がかかったとはいえ、かなり驚異的な業績ではないでしょうか。

 

参考文献

インドカレー伝 リジーコリンガム,Lizzie Collingham,東郷えりか 河出書房新社

インドカレー伝 (河出文庫)

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