Photo from "Creamy, Meaty Richness Galore! These Are The Very Best Mughlai Restaurants In Delhi" So Delhi
様々な文化がミックスして花開いたインド宮廷料理
ムガール帝国は16世紀初頭から19世紀後半まで存在したイスラム系王朝で、強力な軍事力を率いて中央アジアからインドに侵入して南下しながら徐々に領土を広げ、一時は南インドの一部を除く全インド亜大陸を支配しました。
ムガール帝国の元でヒンドゥー文化、ペルシア文化、中央アジアの文化がミックスした独自の文化が花開き、特に建築の分野では有名なタージ・マハルなど壮麗な建築が帝国各地に建設されました。
食文化の面でも、ムガール宮廷は様々な文化を吸収した洗練された宮廷料理を発展させ、その贅沢放蕩ぶりは帝国の傾斜をもたらすのですが、現在のインド料理にも大きな影響を与えています。
今回は歴代の皇帝たちの食べたものから「ムガール料理」の発展の歩みを見ていきます。
初代皇帝バーブル「インド最悪。中央アジアに帰りたい」
インドが何もかも嫌いだったバーブル
ムガール帝国初代皇帝のバーブルは、自ら征服したヒンドゥースタンの土地にまったく馴染めなかったそうです。出身である中央アジアとインドを比較し、いかに中央アジアが素晴らしく、インドが不快で未開かを嘆いてはため息をついていました。
ヒンドゥースタンは都市も田舎もどこも不快だ。
人々は裸に薄汚い腰巻き一枚でうろつき、美しさがまったくない。社会にはマナーも優雅さもエチケットもない。典雅な詩を書ける者さえいない。加えて、熱気と痛いほどの風、そして砂埃…。
バーブルは唯一ヒンドゥースタンのいいところは「多くの黄金と資源があること」のみであり、資金を集めたらサマルカンド奪回の軍勢を興し、さっさとこんな未開な土地から脱出したいと思っていました。
ヒンドゥー料理とムガル料理の衝突
特にバーブルが不満だったのが「ロクな食い物がない」こと。
うまい肉もなければ、ブドウ・メロンといった果物もない!市場にもまともに食えるものもない!
中央アジアは大食らいで食道楽の文化でした。
狩猟で採ってきた獣肉や羊肉を串に刺して焼いたものや、そのまま丸焼きにしたものが大好物だったし、オアシスで豊かに実る野菜や果物は食味がよく、また酒も浴びるように飲む。
インドでも肉を全く食べないというわけではなかったようですが、羊肉や鶏肉の生産は非常に限られていたし、もちろん牛肉はご法度。
バーブルはヒンドゥースタンの料理には目もくれず、中央アジア風の豪快な肉料理を好んで食べていたし、故郷のサマルカンドからメロンを取り寄せては食し、故郷を思い出して感涙にむせぶのでした。
実際のところ、バーブルが征服した時代のインドでは高位の人は菜食主義が一般的で、しかもあまりバリエーションのないものでした。一般人も米と豆と野菜を煮たものに様々なスパイスをかけたキチャリというものしか食べない。
ヒンドゥー教徒にとって食事は、生活の中の医療や道徳と同義であり、人間と神々との関係の中において捉えられていました。ヒンドゥーの社会秩序の中で、いつ、誰と、何を食べ、それが身体と周囲と調和がとれた状態であるかを重視しました。
食道楽の人間が、食が社会規律の中に組み込まれている社会に住むことになったら、そりゃあストレスが溜まるでしょう。
2代皇帝フマユーンの時代から、ムガール人は自分たちが好む肉と野菜をふんだんに使った料理を発展させていき、その中にスパイスなどヒンドゥースタンの食文化がミックスされ、我々がインド料理レストランで食べるような上等な宮廷料理が構築されていきます。
2代皇帝フマユーン「ペルシア料理こそ至高。プラオ最高」
ムガル料理にペルシアのスタイルを取り入れる
2代皇帝フマユーンは父バーブル亡き後帝国を継ぎますが、その統治は不安定であり、内紛の末アフガン系の支配者シェール・シャーにインドの帝位を追われてしまい、15年間のペルシア亡命を余儀なくされます。
1555年に軍勢を従えてインドに再侵攻し帝位を回復するのですが、15年間の間にすっかりペルシア文化に染まりきってしまい、帰国するにあたってペルシアから様々な文化人を連れて帰りました。そのおかげで、インドにペルシア文化が多く入り込み、建築や文学、絵画を始め、ペルシアのスタイルが大きな影響を及ぼすようになるのですが、同じことが料理にも起きました。
ペルシアの料理人たちは、アッバース朝時代の都バグダードで発達した「イスラム料理」の流れを組んでいました。バグダードにはトルコ・アラブ・エジプトなどイスラム圏各地の料理人が集いその腕を競いあい、各地の料理がミックスされ高度に発達していました。
ムガール料理の象徴的存在「ビリヤーニー」
ペルシア料理のメインディッシュは「プラオ」と呼ばれる米料理。簡単に言うと味付けご飯です。
Photo by Jost Wagner
元々は遊牧民が焚き火で作る簡単な料理でしたが、野菜や肉、フルーツによって様々なバリエーションのプラオが発達しました。
プラオはペルシアから世界中に広まり、トルコでは「ピラウ」となり、ウズベキスタンでは「ポロ」、イタリアではバターが加えられ「リゾット」になり、スペインでは魚介が加えられ「パエリア」になりました。
オリジナルのプラオは上品にさっぱり作りますが、インドではプラオはヒンドゥースタンの辛いスパイスとミックスされ、「ビリヤーニー」となりました。
Photo by Garrett Ziegler
ビリヤーニーは単なる炊き込みご飯ではなく、作るのには結構な手間暇がかかります。
玉ねぎ、ニンニク、アーモンド、スパイスを凝乳に加えて肉を漬ける。しばらく漬け込み、軽く炒めて半ば火の通った米の上に乗せ、サフランを牛乳に浸したものを米の上に注いで色付けをし、蓋をして弱火にかけ、鍋の上と周囲にカンカンに照った石炭を置く。つやつやに仕上がったビリヤーニーを、ホッカホカのうちに食すわけです。
ビリヤーニーは、中央アジアの肉食文化に慣れたムガール人が、ペルシア料理をベースにヒンドゥースタンのスパイスを取り入れた、まさにムガール料理の象徴的な存在といえます。
次の皇帝アクバルからは、フマユーンの時代に花開き始めたムガール料理がさらなる発展を遂げていきます。
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3代皇帝アクバル「インド料理旨い!インド大好き!」
ムガール帝国のヒンドゥー化
3代 皇帝アクバルは帝位に就いてからインド文化へ傾倒するようになりました。
イスラム教だけでなく、バラモン教やジャイナ教の聖職者も宗教会合に招かれるようになったし、ガンジス川の水を「不死の水」と呼んで愛飲したし、ヒンドゥー教徒に倣って牛を食べるのを辞め、「肉の販売禁止」の日を作ったり、玉ねぎやニンニクを食べないように国民に推奨したりなど、あまりにもインド化した政策や行動をとったため、宮廷のムスリムたちは大いに狼狽したそうです。
アクバルはヒンドゥー教徒のような衣装を着て、髪も長く伸ばし、食生活においてもほぼ菜食主義となりました。
そのような皇帝の立ち振舞は、ムガール帝国が真にヒンドゥースタンの帝国となり、またムガール人を中央アジア人ではなくインド人に変貌させる上で大きく役立ったのでした。
花開いたムガール宮廷料理
皇帝は非常に粗食でしたが、貴族たちや高官は毎晩のように豪勢な宮廷料理を楽しんでいました。
宮廷の料理人はイスラム世界と北インド各地から集められており、アクバルの命令で1時間以内に100品の料理を出すことを求められたため、料理人同士切磋琢磨し、飽きが来ないようにお互いの地域の料理をミックスさせて様々なレパートリーが誕生していきました。
肉料理にはペルシア人が好んだ、ドライフルーツとキーマ(ひき肉)を合わせたものがよく登場しました。
▽キーマ・マタル
Photo by Affaf Ali
日本のインド料理店でもたまに見る「ローガンジョシュ」も元々はペルシア料理。
Photo by gahdjun
ペルシアではバターで炒めた肉のシチューですが、インドに入ってきて香辛料がたっぷり入った肉の煮込みになりました。料理人の出身によって作り方が変わるそうで、例えばムスリムの料理人の場合はニンニクと玉ねぎをたっぷり使う、カシミールの料理人の場合は玉ねぎとニンニクは入れずにフェンネルとアサフェティダ、鶏頭の花を乾燥させたものを使う、といった具合。
ムガールの貴族たちは冒険心のある美食家揃いで、それに応える形で料理人たちは腕をふるい、古い料理を洗練させたり、異なる地方の料理をミックスさせたりして、新しい料理を作っていきました。
4代皇帝ジャハーンギール「インドのマンゴー最高」
贅沢三昧のムガール宮廷
第4代皇帝ジャハーンギールの時代、帝国は莫大な税収入を得、宮廷は有り余る富で贅沢三昧を楽しむ風潮が生まれました。
貴族の食も毎日が饗宴で、それは豪勢なものだったそうです。
当時のイギリス国王ジェームズ1世の使節としてジャハーンギールに謁見したトマス・ローに随行した牧師エドワード・テリーは、宮廷の饗宴に招待されその内容を書き記しています。
主賓はローで、テリーは末席だったので、テリーに供された料理はローより10品少なかったのですが、それでも50品もの銀の皿に盛られた料理が並んだそうです。
様々な種類のカレー、カラフルに色付けされたライス、ナッツやフルーツがふんだんに入ったデザート。
テリーはその食味の洗練さと料理人たちの腕の見事さに感心しきりで、
われわれはみな、このご馳走が……機知に富んだ食道楽で有名なローマの美食家アビキウスにも勝るとも考え……陸、海、空から得られたあらゆる食材によってつくられたのかもしれない
と感想を書き記しています。
インドの味を取り入れるムガール人
ジャハーンギールはインド庶民の味キチャリが大変気に入り、特にグジャラート地方のキビの入ったキチャリを「菜食の時には作るように」と命じました。
インドの庶民料理も宮廷料理に取り込まれていき、アーモンド・干しぶどう・クローブ・メース・ナツメグなど高価な材料が入った洗練された宮廷料理となったのでした。
またジャハーンギールは果物を大変愛し、特にインド産のマンゴーを好んで食べました。初代のバーブルは「インドには果物がない」と言って故郷のメロンやリンゴを取り寄せていましたが、ジャハーンギールは「カーブルの果物も悪くないが、私はインドのマンゴーのほうが好きだ」と言ったそうです。
既にムガール人は中央アジア出身の外人ではなく、身も心もすっかりインド人になっていました。
5代皇帝シャー・ジャハーン「中央アジア大嫌い。インド帰りたい」
ああ、懐かしのインドよ!
5代皇帝シャー・ジャハーンは、先祖の悲願であるサマルカンド奪還を成し遂げようと軍を興し、1646年にブハラ・ハン国に攻め入りますが、ウズベク人の抵抗が根強く結局奪還しきれずに撤退。また、アフガニスタンのカンダハルもイランのサファヴィー朝に占領され、奪還のための軍を1649年に興しますがこれにも敗れ、先祖の地に帰る夢を果たすことはできませんでした。
中央アジアに攻め入ったムガール軍人たちは、中央アジアの気候の厳しさ、異質な習慣の人々にうんざりし、インドの自然、食、気候、習慣に対する懐かしさのあまり「インドに今すぐ帰りたい」という雰囲気が広がっていったと年代記に記されています。
贅沢三昧で先祖の勇猛さが失われ、すっかり軟弱になってしまってます。
美食を楽しむインドの庶民
実際、シャー・ジャハーンは大変贅沢を好んだ皇帝でした。
有名なタージ・マハルを建設したもの彼だし、美術・工芸・文学・都市建設など壮麗なムガール文化の絶頂期が訪れたのでした。
料理もより芸術的に工夫を凝らしたものが好まれ、例えばコース全部が「白い料理」だけで構成された食事など。そのためにはホワイトソースや白胡椒、白いクミンなど高価な食材が惜しげもなく使われたのでした。
宮廷の食文化は一般にも広がり、大都市には多くの料理店や惣菜屋がオープンし庶民も美食を楽しむようになったのでした。
バーブルがインドにやってきた時代と比べると、人々の食に対する意識も大きく変わって、中央アジア風に「美食を楽しむ」雰囲気が作られていったのでした。
まとめ
まったく異なる文化からやってきた支配者が、多数派の被支配者の文化を許容していき、そこで育まれた文化が下にも降りていって庶民文化も変容していく、というのは大変面白いですね。
我々が普段食べているインド料理レストランの、たっぷり食べごたえがある料理は、おおよそこの時代か、ムガール料理をベースにさらに発展したものです。そのように見たら、インド料理の見方がちょっと変わるのではないでしょうか。
単にインド料理を一言でカレーとくくるのではなく、素材や調理法、スパイスの違いまでも楽しみたいものです。
ちなみに、東京近郊のビリヤーニーのお店を紹介しているブログもあります。面白いのでぜひ。
参考文献
インドカレー伝 リジーコリンガム,東郷えりか 河出書房新社
バックナンバー:料理と歴史
ケチャップの歴史 - 英国流オリエンタルソースからアメリカの味へ