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後期アユタヤ王朝の歴史

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 歴代タイ王朝の中で最も発展した後期アユタヤ

 アユタヤ王朝は前期と後期に分かれます。

前期は初代ウートーン王の時代から、ビルマによって首都が陥落し傀儡政権の地位に落ちた時代までで、1351年から1593年。

後期は対ビルマ独立戦争を勝利に導いたナレースワン王の時代から、再び宿敵ビルマによって首都アユタヤが破壊されて滅びるまで、1593年から1767年までを指します(前期後期の定義は諸説あり)。

 さて、ナレースワン王から始まる後期アユタヤは、国際貿易によって首都アユタヤは大いに栄え、世界各国の人間が行き交う非常にコスモポリタンな都市でした。当時の日本が鎖国政策によって諸外国に門戸を大きく閉ざしていたのと対照的です。

 

 

 1. 対外交易に活路を見出すナレースワン国王

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ナレースワン王の国家戦略

「大王」の尊称付きで呼ばれるナレースワン王は元々ビルマの人質として幼少期を過ごし、父王の死後に跡を継いでアヨードヤの王となり、次第にビルマからの独立傾向を強めていきました。

ビルマはたびたび鎮圧軍を派遣するも、ナレースワン王は非凡な軍事的才能を持っており、遠征軍は都度打ち破られ、1592年〜1593年の大規模な衝突で最終的な勝利を収めてアユタヤの独立を回復したのでした。

 

ナレースワン王は、アユタヤは南シナ海の通商ルートとベンガル湾の通商ルートの中間地帯にあることに優位性があり、対外交易こそ国家の繁栄の道であると思っていました。

そこでナレースワン王はまず、現在のベトナム南部に居住していた海洋民族チャム人を移住させて海軍を創設。海軍を率いてビルマに奪われていたマレー半島西岸の港市テナセリムとタヴォイの2都市を奪還し、インド洋と南シナ海を結ぶ中継港としての機能を回復しました。

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増加する日本との貿易

次王はナレースワン王の弟であったエーカトッサロット王。

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Photo by Heinrich Damm

この王の時代、日本からの御朱印船が次々とアユタヤに入港し、対日貿易が盛んになりました。1604年から鎖国が始まる1635年まで、対日貿易は全体の15%を占めており、日本から銅・鉄・硫黄・樟脳・手工芸品を輸入、アユタヤからは鹿皮・象牙・更紗・柄鮫などを輸出していました。有名なアユタヤ日本人町が形成されたのはこの頃です。

最盛期には約1000名の日本人が居住しており、その多くは戦乱の世の終わりと共に失職した浪人や、迫害を逃れたキリシタンなど。特に浪人はその武芸の能力を買われ「クロム・アーサージープン(日本人傭兵部隊)」として反乱の鎮圧などに活躍しました。中には山田長政のように大臣級にまで出世する者まで現れました。

エーカトッサロット王は外国人優遇策を進め、徴税を強化し国庫を充実させました。

また、当時インドのゴアを拠点に交易を強化するポルトガルに対抗するためにオランダに接近。オランダ東インド会社の商館を日本人町の北側に設置し、日本向け輸出で稼いだ外貨を元にして、オランダの銃火器を輸入し軍事力の増強を図ろうとしました。

 

次王プラサートン王の時代は対日貿易が最盛期を迎えました。

当時の日本は徳川幕府の支配が固まりつつあり、社会の安定と共に外国産品への需要が高まり、鹿皮や鮫皮が飛ぶように売れました。鹿皮は皮陣羽織や足袋、鉄砲の袋などに使われ、鮫皮は刀の柄などに用いられました。

その後徳川幕府は鎖国政策に踏切り、日本の御朱印船は直接アユタヤに入港することはなくなりますが、中国人商人の手により長崎に運ばれて売られ、鎖国時代もタイ産の鹿皮は日本に流れ続けました。

 

 

2. 国際貿易都市アユタヤの繁栄

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対仏貿易の拡大

次王ナライ王の時代になると、イギリス・フランス・デンマークなどヨーロッパ諸国との貿易が拡大します。

中でも急速に存在感を高めたのはフランス。

トマス神父を始めとしたフランス・イエズス会の修道士たちは、土木技術に詳しい者がいたこともありナライ王の信を得て、要塞の建築などを指揮する代わりに首都アユタヤでの布教を許可されました。1680年にはルイ14世とナライ王との間に外交関係が樹立されました。

当時のフランス修道士はナライ王をキリスト教徒に改宗させ、東南アジアにキリスト教王国を築くことができると本気で考えており、積極的にアユタヤと良好な関係を維持しようとしました。

当時アユタヤを訪れたフランス人ショワジは帰国後に「シャム王国旅日記」を記しました。この本にはアユタヤの繁栄とコスモポリタンぶりが記されています。例えば、

アユタヤの神学校には「中国人、日本人、トンキン人、ペグー人、シャム人など40人の12歳から20歳までのあらゆる国の聖職者」がいたり、フランス大使に対する表敬のために「43カ国もの人々が皆、お国柄の衣装をまとい、お国ぶりの武器をもって」更新するための打ち合わせを行っていた、という具合です。

王のフランス大使への贈り物は「日本の部屋着、マニラの金製ボタン、中国かペルシアの金糸銀糸の緞子10反」で、王宮での食事は「美味しい日本風のソース、より一層おいしいシャム風のソース、そしてぞっとする味のポルトガル風のソース。スペイン、ペルシア、フランスのワイン、イギリスのビール」のもてなしを受けています。

交易によって世界各国の物産があふれ、各地の人材が行き交うコスモポリタンな町だったことが分かりますね。

 

華人勢力の台頭

1687年、フランス使節は結局ナライ王を改宗させることができずにアユタヤを去ることになりました。

1688年、病床にあるナライ王を「クーデター」で排斥し王位を簒奪したのは、王の乳母の息子ペートラチャーとその息子ルアン・ソラサック。

 

▽ルアン・ソラサック

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Photo by กสิณธร ราชโอรส

ここに於いて前王ナライの血脈は途絶え、ペートラチャーに始まる新たな王朝「バーン・プルールアン王朝」が始まります。

この王朝の始まりの15年は内乱や地方反乱が相次ぎ不安定な状態が続きますが、対外貿易は拡大を続けます。増え続ける舟の効率的な交通を目的に新たな運河の開発も始まり舟運の向上が図られました。

1709年、ターイ・サ王が王位に就き、彼の24年の治世で中国との貿易が拡大しました。

清の康煕帝は「アユタヤでは銀ニ、三銭を以て稲米一石を買うことができる」と進言を受け、安いタイ米を大量に購入し食糧不足に苦しむ福建・広東・寧波に配給することに決定。そのため清のタイ米輸入量は拡大。それに併せてアユタヤの対中貿易自体も華人が支配するようになりました。

中国との官貿易が拡大すると、私貿易も拡大し南部のパタニやソンクラーといった港から中国への米供給のための舟が盛んに行き交いました。

 

 

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3. アユタヤ黄金時代

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仏教を保護したボロマコート王の時代

1733年、中国貿易を主導したターイ・サ王が死去。

王位を巡って内乱が起こり、インド系である官僚チャムナンという男の介入によりボロマコート王が即位しました。後ろ盾を失った華人はこれまでの利権を失うことを恐れて反乱を起こしますが鎮圧され首謀者40名が処刑されるなど混乱が起こりますが、清政府はタイ米への徴税免除を与えたため輸出は継続されました。

しかしこの頃になると米貿易の利潤が少なくなったこともあり、華人で米貿易に携わるものが少なくなっていきます。清政府は引き続き食料供給のためタイ米の輸入を奨励していました。いかに伝統的に、中国がタイと食料供給の面で結びつきが強いかを表す話です。

ボロマコート王は、かつてフランスによってキリスト教が普及された時代とは異なり、仏教を厚く保護しました。王は各地の仏跡を巡礼し寺院の建立を進め、文学の分野でも仏教を元にした物語が多数描かれました。

王は仏教の分野でスリランカを支援し、スリランカ王キッティシリラーヤシーハの依頼でサンガ復興のために授戒の資格のある高僧18名をスリランカに派遣し、数多くの仏僧を育成しました。現在スリランカで最大の仏教宗派である「シアム・ニカーヤ(シャム派)」はこの時の弟子たちが開いた一派であるそうです。

ボロマコート王の時代は平和が続きましたが、死後は王位を巡って再び混乱が起こり、ボロマコート王の息子ウトゥンポンの派閥と、エーカタットという男の一派で内乱が繰り広げられました。

 

 

4. 王朝の滅亡

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アユタヤ国内が混乱する一方、1754年に隣国のビルマでは首都からモン人を駆逐しビルマを再統一したアラウンパヤー王が支配を確立し、モン王国を滅ぼし領土を拡大。その勢いをもってベンガル湾沿岸のマルタバン、タヴォイ、テナセリムを占領し、マレー半島にも侵攻して東海岸の港市を占領しました。

これによりアユタヤは重要な貿易港の大半を抑えられてしまいます。

 1760年、ビルマ軍はとうとう首都アユタヤを包囲。この時は1ヶ月の包囲にアユタヤは耐えますが、北のタイ族のラーンサーン王国(現在のラオス)とラーンナー王国(チェンマイを首都とする北タイの王国)をビルマに占領されて北からも圧迫され、北からも南からもビルマの脅威にされされることになります。

そして1766年、首都アユタヤは再度ビルマ軍に包囲され、3ヶ月間の包囲の末に陥落。ビルマ軍はアユタヤを徹底的に破壊し尽くし、現在のアユタヤ遺跡に見られるような荒廃した町並みを残すのみとなってしまったのでした。

  

 

 

まとめ

後期アユタヤ王朝は重要な港市を抑えて軍備を拡張することで、国内で産出される林産品や米を諸外国に輸出することで大いに栄えることになりました。

首都アユタヤは世界各地の人材が行き交うコスモポリタンな町で、多様な人材と価値観を受け入れる場所でありました。

ただし王朝の後期になると内政が混乱し、ビルマによる周到な包囲網にも適切に対処できずになされるがままになり結局崩壊を招いてしまいました。

現在のアユタヤの遺跡は、当時ビルマ軍がよほど徹底して破壊したであることが容易に想像がつくほど、寺院や仏塔などの当時は立派だっただろう建物が見る影もなく破壊されています。

ただし当時のアユタヤがいかに繁栄し美しい都だったのかも、容易に想像がつくほど豪華で壮麗な遺跡群なのです。ぜひ一度訪れてみてください。

 

 

参考サイト

東南アジア史〈3〉東南アジア近世の成立―15〜17世紀 7.後期アユタヤ 石井米雄

岩波講座 東南アジア史〈3〉東南アジア近世の成立―15〜17世紀

岩波講座 東南アジア史〈3〉東南アジア近世の成立―15〜17世紀

  • 作者: 池端雪浦,石沢良昭,後藤乾一,桜井由躬雄,山本達郎,石井米雄,加納啓良,斎藤照子,末広昭
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