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「スペイン領フィリピン」が世界史にもたらしたもの

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 世界の経済史を決定的に変えた東南アジア〜北米航路

東南アジア史はどういうわけか、日本ではあまり人気がない分野です。

日本史との接点も少なくないし、世界史に与えた影響も大きいんですが、歴史好きを公言する人でも東南アジア史の概要すらロクに知らなかったりする。それは一般的な日本人の東南アジア全般への関心の低さとも連動している気がします。

というわけで、今後歴ログでは東南アジア史を強化していこうと思っています。

今回は、いかに東南アジアが世界に与えた影響の大きさの好例として、「スペイン領フィリピン」の成立とその役割を追っていきたいと思います。

 

 

1. スペイン人到達前のフィリピン

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 現在のフィリピン共和国は、ミンダナオ島やルソン島を始めとした大小7107の島々で構成されています。これらの島々が「フィリピン」という政治的枠組みで統合されたのはスペインとアメリカの植民地支配によるもので、17世紀以前はこれらの地域が政治的に統合されたことはありませんでした。

 

16世紀、フィリピン諸島南部のミンダナオ島やスールー諸島には、マギンダナオ王国やスールー王国などイスラム化した王国が成立しており、またマニラを含むルソン島南西部からフィリピン諸島南西部のルバン島、ミンドロ島、クヨ島などは、カリマンタン島を拠点にするブルネイ王国の影響下にありました。

現在のインドネシアやマレーシア付近のイスラム化した首長が率いた勢力により、南部から徐々にイスラム化が始まっていましたが、それ以外の地域では政治的統合が成されておらず、昔ながらの村落共同体社会の中で暮らしていました。

 

土着の共同体は自給自足経済を基礎としながらも、近隣の島々や中国人、日本人らと盛んに交易していました。交易品は島々で産する蜂蜜や蘇木、鹿皮、金など熱帯雨林の産物で、中国人や日本人からは奢侈品や銀を受け取っていました。

 

 

2. 交易都市マニラの発展

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スペイン領マニラの成立

 スペイン人が初めてマニラに到着したのは1570年。

当時のマニラはブルネイ王国の支配下にあり、ブルネイからもたらされる刀剣・宝石・樟脳・香水・インド綿などの奢侈品をフィリピン諸島各地にもたらす貿易センターの役割を果たしていました。マニラには福建などから多くの中国船が来航し、陶磁器・絹・真鍮製品・鉄製品・鋳物などを売り、金・鹿の皮・蘇木・蜂蜜などを買い求めました。中国人はマニラに中国人街を形成し、かなり活発な商取引を行っていたようです。

 

スペイン人は1565年にセブ島にスペイン人居留地「サン・ミゲル町」を設置してセブ島支配を深化させていき、1571年にスペイン人とセブ人からなる混成軍でマニラの砦を攻め落とし、「令名高く永久に忠誠なるマニラ市 Insigne y siempre leal Ciuada de Manila」の設立が宣言されました。

 

ガレオン貿易の成立

マニラ市はスペイン本国と同様の立法権・司法権・行政権を持つ市会によって統治され、行政区分的にはスペインの植民政府首府のメキシコのヌエバ・エスパーニャの下に入ることになりました。そしてメキシコのアカプルコとマニラ間でガレオン船(大型帆船)による定期航路が結ばれました

この太平洋航路の成立で、マニラには新大陸から大量の銀が流入しました。この新大陸の銀を目当てに中国人商人がこれまで以上にやってくることになります。福建などから船が新大陸の貴族向けの豪華な絹製品・陶磁器などを満載してやってきて、取引後には船に銀を積んで帰っていく。

 

このガレオン貿易の確立で、16世紀後半からマニラは急速に繁栄をすることになりました。

銀を求める中国、ポルトガルの商品が来訪し、当時世界最大規模の銀の算出を誇った日本の商人も投資先を求めてマニラにやってきて、日本人町を形成しました。

特に当時の明王朝は北方経済の繁栄と共に銀に対するニーズが拡大し、新大陸産の銀を貪欲に買い求めました。また当時の金銀交換比率は、新大陸が1:13であったのに対し、中国は1:7であったので、中国商人は銀を仕入れれば仕入れるだけ儲かるようになっていました

 

それでも、中国産の絹製品や生糸は新大陸では仕入れ値の500%の利益を上げることができたので、低い交換率でもスペイン商人は莫大な利益を上げることが出来たわけです。

「福建〜マニラ〜アカプルコ」間を行き交う船は激増し、交易は莫大な富を産みました。

当時フィリピンに住むスペイン人は2500名ほどで、ほとんどが交易に従事し贅沢な暮らしを営みました。彼らは交易で上がる利益に満足したため、フィリピン諸島内の産業開発にはほとんど関心を示すことはありませんでした。ちなみに同じようなことはスペイン本国でも行われ、新大陸の富によって繁栄するも、貴族たちはカネを贅沢に浪費するばっかで国内・国外の資本投資にはほとんど回らなかったため、18世紀半ば以降スペインは没落と混乱の道を歩んでいくことになるのです・・。

 

 

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3. スペインのフィリピン人支配

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Photo by  Ramon FVelasquez

スペインによる支配制度の確立

スペインはスペイン人によるフィリピン支配の大義名分は、

「神の地上の代理人であるローマ教皇の代理で世俗を支配するスペイン国王」の手によって神の御心にかなう地を支配する

というものでした。なので、スペインが支配する地域の住民はカトリックを受容しなくてはいけなくなります。

そこでカトリック教会が中心となり積極的に住民のカトリック改宗が進められ、スペイン人支配の地域住民は教会や修道会の支配下におかれることになります。しかし特に南部のミンダナオ島などイスラム化が進んだ地域では、キリスト教の受容の進行は遅く、またスペイン人支配地区でも地域によっては教会の支配具合にも差がありました。

 

世俗支配の制度としては、新大陸でも導入された「エンコミエンダ制」が導入されました。これは、新しい土地を征服しスペイン国王に献上したコンキスタドールに対し、その労を報いるために征服した土地の徴税や貢納の権利を与えるというもの。これによりスペイン人の支配は拡大し、16世紀末までには現在のフィリピンの国土を構成する「スペイン領フィリピン」が成立することになりました。

 

支配下に置いた地域は「州」に分けられ、その下に「町(プエブロ)」が設置され、総督の指名するスペイン人が行政官として派遣されました。

ただしスペイン人の絶対数は限られており、税務官や治安官、書記など行政の末端の役職は、スペイン統治以前の支配層である首長たちに委ねられました。

彼らは行政業務を遂行する傍らで富裕化する機会があり(違法な収奪やピンハネ、賄賂など)、次第にプエブロの特権階級・支配階級として、ブルジョワ化していくことになります。

 

 

4. スペイン領フィリピンが与えた影響

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 スペイン領フィリピンが世界史にもたらしたもの

フィリピンは新大陸産の銀をアジアに、大量にしかも長期間に渡って流入させる玄関口となり、明王朝及び清王朝の経済発展に多大な寄与をしました。

中国国内においては銀により流通が促進され商品経済が発展。内需が拡大したことで、特に北方・チベット・新疆・ロシアとの交易が発展します。それにより中国人の内陸部への進出が拡大しチベットから新疆に至るまでの現在の中国の領土が姿を表わすことになります。

また、大西洋を渡ってヨーロッパに流れ込んだ銀はスペインはもちろん、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどにも渡りました。ヨーロッパ諸国は世界一の経済大国であった清王朝との交易によって富を得ようと競争します。その際に用いられたのはもちろん銀であり、新大陸の銀は全地球的に流通し経済を結びつける効果をもたらしたのでした。

 

フィリピン社会への影響

貿易によりフィリピン社会も大きく変化しました。

マニラ周辺では銀の流通が当たり前になり、現地の人々は綿花の耕作と綿製品の生産を辞め、諸島産の綿花を銀で買い取り中国に売り、中国製の綿製品を着るようになっていました。一種のバブル状態で、働かなくても贅沢な暮らしができるようになっており、特に首長層や支配層の勤労意欲が欠如することになります。

一方で、地方経済への投資はほとんど顧みられず、ただ収奪するのみの状態が続いたため、繁栄するマニラと停滞する地方という構造が定着することになりました。

スペイン支配以前からイスラム勢力が支配していたミンダナオ島やスールー諸島などでは、カトリック支配に抵抗し周辺の地場勢力と連携してイスラム支配を強化していき、中央のマニラとは異なった独自の世界を築いていくことになります。

 

 

 

まとめ

フィリピン・マニラは世界経済を結びつけるハブ的役割を果たし、その世界経済への影響は計り知れないほど大きなものがありました。

スペインはキリスト教を基礎にした支配制度でフィリピンという一つの政治的領域を作り出しましたが、現代に至るまで続くフィリピン社会の問題の根本原因もこの時に作られていました。

経済発展の恩恵を受けられない地方のイスラム社会に、ブルジョワ化したキリスト教徒のフィリピン人が進出して支配を強めていく。イスラム教徒は反発し、過激な者はテロに訴えてキリスト教徒を排除しようとする。

現在発生しているミンダナオ島の混乱の根本はこのあたりにあり、そもそもの社会の構造を変えていかないと決して解決しない根深いものがあります。

 

 

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なぜフィリピン革命は失敗に終わったか

 

参考文献

岩波講座 東南アジア史3 東南アジア近世の成立 5スペイン領フィリピンの成立 菅谷成子

岩波講座 東南アジア史〈3〉東南アジア近世の成立―15〜17世紀

岩波講座 東南アジア史〈3〉東南アジア近世の成立―15〜17世紀

  • 作者: 池端雪浦,石沢良昭,後藤乾一,桜井由躬雄,山本達郎,石井米雄,加納啓良,斎藤照子,末広昭
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