歴ログ -世界史専門ブログ-

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19世紀の大都市を荒らしたストリート・ギャング

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19世紀に起こった大規模なストリート・ギャング抗争

田舎と都市とでは概して都市のほうが治安が悪いものです。

田舎はお互い顔見知りだから、何か粗相をしでかすとすぐに悪評がたってそこに住めなくなってしまう。だから治安は案外いい。

しかし都会は基本的に知らない人しかいないから、タガが外れるというか、凶暴性を抑制する規範や道徳が薄い。だから自分と異なるバックグラウンドを持つ人間同士の衝突が起こりやすくなる。

急速に都市化が進んだ地域に地方から大量に人が流れ込み、貧富の格差が広がり貧しい者同士で結束し相互扶助の組織が出来上がっていく。特に貧しい若者はその不満を暴力という形で解決しようとしがちで、例外もありますが、ストリート・ギャングの多くは概して地方出身か地方出身の親を持つ教育水準の低い貧しい若者であるケースが多いものです。

産業革命により急速に都市化が進んだ19世紀は、そのようなストリート・ギャングが猛威をふるった時代。今回はかなりマニアックですが、当時の人々を恐怖に陥れたギャング団をピックアップします。 

 

 

1. ハイ・リップ・ギャング

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リヴァプールを荒らした少年ギャング団

ハイ・リップ・ギャングは1880年代のリヴァプールの街を徘徊した貧民街の少年ギャング団。

その存在が公になったのは1884年1月。スペイン人の船乗りが殴打されナイフで滅多刺しにさされた遺体が発見されました。この犯人として17歳の少年が検挙されたのですが、少年らによるリンチ殺人は増加していきました。

1884年〜1886年がハイ・リップ・ギャングのピークで、多数の船乗り、港湾作業員、商店店員が殺害されました。彼らは武器として重いベルトとナイフを持ち、街角に立ち行き交う人の中で適当な人物を見つけて因縁をつけ路地に引っ張り込み、リンチの上殺害をしていました。その手法から「コーナーマン」と呼ばれ、その殺人の理不尽さ、貧民街の少年たちの行き場のない暴力はリヴァプールの人々を震え上がらせました。

 1886年を境にギャングの活動は沈下していき、90年代にはほとんど活動は見られなくなりました。

 

 

2. 40人の盗人団

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ニューヨークにたむろした貧乏人の窃盗団

ニューヨークには多数のストリート・ギャングが現れては消えていきましたが、その初期の頃、1825年後に出現したのが「40人の盗人団(Forty Thieves)」です。

構成メンバーはスラム街に住むアイルランド移民で、彼らは当初路地で安い野菜や食品、肉などを売って生計を立てていましたが、ある時からスリやタカリ、強盗のほうがはるかに効率がいいことに気づき、次第に徒党を組んで組織的に犯罪行為を行うようになっていきました

初期のリーダーであるエドワード・コールマンは、妻を殺害した罪で投獄されてしまいますが、リーダー不在後も組織は拡大していき、スラムの貧民を中心にメンバーをリクルートし、少年だけを集めた「40人の盗人少年団(Forty Little Thieves)」なるユース組織すらあったそうです。

 盗賊たちは犯罪によって財をなし、一部は民主党の派閥「タマニー・ホール」に多額の献金をし政治活動にまで関与する者も出現したそうです。

タマニー・ホールについて詳しくはこちらをご覧ください。

www.history.com

 

 

3. ロックス・プッシュ

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 Photo from "THE ROCK PUSH SYDNEY"

後にファッションブランドになったシドニーのストリート・ギャング

1870年代のオーストラリア・シドニーにたむろする、ストリート・ギャングは「PUSHES」と言われました。PUSHESの中で最大だったのが、プロテスタント系のメンバーで構成された「ロックス・プッシュ」。

そのライバルはカトリック系のPUSHESで、最大のグループはラリー・フォレイという男がリーダーの「ラリキンス」というグループでした。

1871年、ライバルのPUSHES同士決着をつけようということになり、親玉同士のボクシングで雌雄を決することになりました。

ラリー・フォレイはカナダ人ボクサーの元でトレーニングを積んだことがあり相当な自信があったようですが、ロックス・プッシュの親玉も負けず劣らず強く、お互い譲らず闘いは71ラウンドも続き、警察が止めに入らないとどちらかが死ぬまで闘い続けただろうと言われたほど伝説的な闘いだったと言われています。

この闘いはロックス・プッシュの親玉が優勢だったこともあって以降、ロックス・プッシュがラリキンスをコントロールするようになり、ロックス・プッシュは20年に渡ってレイプや殺人などを犯しシドニーの夜の恐怖の象徴となりました。

20世紀になるとロックス・プッシュは活動を停止。

そして1950年代に入ると、当時のストリート・ギャングのファッションがにわかにクローズアップされるようになり、ファッションブランド「The Rocks Push」が誕生しています。

www.therockspush.com

 

 

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5. バワリー・ボーイズ

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ニューヨークの政治や文化にも影響を与えた苛烈なギャング抗争 

1840年代はニューヨークのストリート・ギャングの抗争がピークだった頃。

ニューヨークに労働者階級が住むバワリー地区を拠点にしたストリート・ギャングが「バワリー・ボーイズ」。貧困白人層が主で反カトリック・反アイルランド系を掲げ排外主義的な活動を行っていました。メンバーは普段は精肉店や整備工として働きながら、自警団的消防団に属し、一種の義侠的な思想を共有していました。

彼らは山高帽を被り、伝統的なWASPの文化や自分たちの仕事を移民たちから守ろうと、他のグループのギャング団と抗争を繰り広げました

バワリー・ボーイズのリーダーの1人であったマイク・ウォルシュは政治の世界にも参入し、富裕層に対抗し貧困白人層の権利を守ると称し、配下のギャングを動員し圧力をかけました。

マイク・ウォルシュは1895年に死亡しますが、その闘いは詩人ウォルト・ホワイトマンによって「義侠的な男の生き様」のように描かれ、ニューヨークの貧困白人層からは英雄視されました。

 

 

6. 死のウサギ団

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バワリー・ボーイズの宿敵のギャング団

先述のバワリー・ボーイズと抗争を繰り広げたストリート・ギャングが、アイルランド系移民を中心に構成された「死のウサギ団(The Dead Rabbits)」。

この変わった名は、団員が宣戦布告のため敵のアジトに死んだウサギの死体を投げ入れたことに由来します。当時のアイルランド系の人々の俗語で、死んだウサギは「闘い始める戦士」を意味したためです。

19世紀半ばにはいずれも1,000名超の構成員がおり、両ギャング団が直接衝突した日にはとんでもないことになり、1857年7月に起こった大規模な闘いは、正式な記録は残っていないそうですが、両ギャング団を併せると5,000名を超える男が闘いに参加し、8〜100名の死者が出て、家やビル、果ては孤児院まで焼かれ、連邦軍が出動してとうとう暴動は鎮圧されたそうです。

 

 

7. ペニー・モブス

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貧しいアイルランド移民の「はした金」のためのギャング団

スコットランドのグラスゴーは古くから造船業が盛んな町。

現在ではかつての賑わいはなく治安はイギリスの中でもトップクラスに悪いそうですが、昔から造船工や港湾作業者など荒々しい男たちが闊歩しており、1800年代の初頭もやはりストリート・ギャングがたむろしていました。

当時のギャングは「ペニー・モブス」と言われ、独自のテリトリーを持って通りかかる人に乱暴狼藉を働いていました。

「ペニー・モブス」は直訳すると「はした金強盗団」みたいな意味で、彼らがとにかく「はした金」のために暴力を振るうこと、文字通り1ペニーのために刑務所行きも辞さない連中だったことがその名の由来です。

ペニー・モブスの構成員は貧しいアイルランド系移民で、彼らの多くはカトリックでした。グラスゴーの住民のほとんどはプロテスタントであり、ニューヨークと非常に状況が似ていますが、グラスゴーの住民はアイルランド系移民から自分たちの暮らしと文化を守るべく、ギャング団を結成し、ペニー・モブスと闘いを繰り広げました。

 

 

8. マンデルバウム・ギャング団

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 ニューヨークのママたちで構成されたギャング団

「マンデルバウム・ギャング団(The Mandelbaum Gang)」 のリーダーは、フレデリカ・マンデルバウム(Flederika Mandelbaum)という女性。通称マーム。

1864年まで商店を経営していましたが、その後はスリ・ゆすり・強盗を専門に行うギャングのリーダーとして20年に渡ってニューヨークの裏社会に君臨しました。

彼女が20年間に渡って稼いだカネは、現在の価値で2億ドル、日本円だと200億円にものぼります。

マームのギャング団経営は見事なもので、法律事務所を経営し捜査の目から巧みに逃れていたし、警察や裁判官に賄賂を渡すのもお手の物。

マンデルバウム・ギャング団の構成員は主に女性で、女性たちに「スリのやり方」を教えるための学校まで経営していました。

また、盗んだ品物を保管するための倉庫まであり、そこには盗んだ品物を安く卸すための直売所まであり、お得意の上流階級を供するためのパーティーまで行われていました。まさに「やり手経営者」です。

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1884年、マンデルバウムは息子3人と共に逮捕されますが、推定1億円もの保釈金を払って出獄。引退しオンタリオ州ハミルトンで余生を暮らし、1894年に死去しました。

 

 

 

まとめ

 いずれにしても貧困が原因なのですが、少数派の移民の怒りを暴力にするアイルランド系、移民の増加に危機を感じ暴力的に対抗する白人貧困層、貧困から純粋にカネのために組織的に犯罪を犯す者と様々です。

1800年代は産業革命により都市化が進むと同時に、大規模な移民が始まり都市を中心にコンフリクトが起こっていました。

当時はカトリックとプロテスタントの違いが、それこそ「相容れない」と思うほど文化的な相違を与えたらしく、自分たちのカルチャーを守るためと称して暴力的手段に訴えました。

これ、まさに現在ヨーロッパで起こっていることではないでしょうか。

中東やアフリカイスラム系移民がヨーロッパに押し寄せ、互いのコミュニティによるコンフリクトが相次いでいます。当面は暴力的で破滅的な悲劇が起こるのでしょうが、近い将来は上手くインテグレートされていくのではないでしょうか。

そのような期待を抱いてしまいます。

 

 

参考サイト

"10 Deadly Street Gangs Of The Victorian Era" LISTVERSE

"The street gangs of the victorian era ruled nearly all the major industrial cities" ALL DAY

Fredericka Mandelbaum - Wikipedia

 

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