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「チャパティを5枚焼いて、先の村々に配れ」
1857年2月の早朝、デリー県インドラプートの村番が1枚のチャパティ(未精製の小麦粉で焼いたパン)を持ってパハルガンジの警察署長を訪ねてきました。
そうしてこう言って去っていった。
「同じようなチャパティを5枚焼いて、近くの5村に配れ。その際、今私が言ったことと同じ口上を述べよ」
署長は不思議に思っていたところ、同じ日に「5枚のチャパティ配布」がデリー県の各地で発生していることが発覚しました。
チャパティの配布リレーはその後、恐ろしい勢いでインド各地に伝達されましたが、誰が、いったい何にために行っているか一切不明。
イギリス植民地当局は気味悪がり、チャパティの配布を禁止しました。
するとまもなく 、インド大反乱(セポイの乱)が勃発。
反乱はチャパティの配布が行われた道筋をたどるように発生していったのでした。
「チャパティを配る」行為は、イギリス人には分からないがインド人には分かる暗黙のメッセージを含んでいました。
1. 「イギリスはインド人をキリスト教徒にしようとしている」
1-1. イギリス人「インド社会を文明化し、キリスト教化せよ」
17世紀以降イギリスはインドの植民地化を進め、ムガル帝国を形骸化して支配を強めていきました。
その中で、特に1820年代以降エヴァンジェリカ派の人たちは「ヒンドゥーを悪」とみなし、インド社会を文明化しキリスト教化することに使命感を持っており、インドの伝統的な経済・文化・習俗に様々な改革を加えようとしました。
その過程で従来の地主は没落していき、地方の王位もイギリスに取り込まれていきました。文化的な面でも、サティーの廃止や女性の再婚の許可などは、イギリス的感覚からすると人権の向上という目的でしたが、インド人からすればインド的秩序への挑戦以外の何物でもありませんでした。
イギリス人がいかに政治権力を握ったとはいえ、インド的カースト文脈からすればイギリス人は「不可触民」であり、かなり後代までインド人はイギリス人と共に食事をすることは「禁忌を犯す」ことでありました。「禁忌を犯して汚れる」ことは、自らの所属するカーストから外れることを意味したため、イギリス人からすれば普通のことでもインド的な「不浄」に接触するものであれば、インド人は自らを守るために徹底的に抵抗しました。
1-2. インド人に牛と豚を食わせてキリスト教徒にさせようとしている
チャパティ事件と同じ年、ベラムプルに駐在していた東インド会社のセポイ(傭兵)が、新しいエンフィールド銃の火薬包使用を拒否する、という事件が起きました。
彼ら曰く「この火薬包には豚と牛の脂が塗ってある。銃に装填する際に口で包を噛み切らなければならない。牛はヒンドゥー教徒にとって神聖であり、豚はイスラム教徒にとって穢れであるため、噛み切ることなどとてもできない」というもの。
インド人にとって牛や豚を口にすることは、禁忌を犯したり穢れたりして、自分たちの所属するカーストから外れることを意味します。
同じような形で、刑務所で下位カーストの者が作ったイギリス風のパンが食事として出されることが問題になりました。これを食すると穢れて自分の所属するカーストから外れてしまう。
イギリスはまた「骨を粉末にして花や砂糖や小麦粉などと混合して売っている」という噂もたち、イギリスは「食べ物にまでインドを解体しキリスト教徒にさせるための陰謀を進めている」とされました。
冒頭の5枚のチャパティは、同一カーストの村々を回って配布されたと考えられ、不可触民であるイギリス人を排除して同一カーストのインド人の共同性を確認し、反乱に立ち上がる土壌を作っていったと思われます。
2. 言語で広がる反英の機運
2-1. 民衆の間に広がった予言・噂
インド大反乱の直前、様々な噂や予言がインド民衆の間で流行していました。
それは「インドに侵攻した100年後にイギリスは滅びるであろう」といったものや、「25年以内にヒンドゥー支配の世が訪れる」といったもので、あまりに突飛で非論理的であるためイギリス人はこの噂や予言の存在を把握していたにも関わらず、明確な対処ができませんでした。
ところがインド人にしてみたらこんなに分かりやすく、伝わる伝達手段は他にない。
チャパティ配布と同じように反乱に至る土壌は、イギリス人を排除したインド人独自のコミュニケーションで広がっていったのでした。
2-2. 士族階級に広がった手紙
反乱に直接携わったインド兵の間で広まっていた情報源は手紙で、大反乱の前には兵士たちの書く手紙が通常より激増しました。その多くは、いま立ち上がらなければカーストが滅ぼされる、インドが危うい、という内容。
例えば、インドのアワド王国が不当に併合され、軍が解散させられ士族カーストが困窮していること、このようなことはこれから続くだろうから、兵士は反乱し昔の王を復活させなければならない、といった内容でした。
特に文字が読めるバラモン階級の人びとはイギリスの権威を無視し、外国支配を覆さねばならない、という意識を持つようになったそうです。
2-3. 「キリスト教徒を殺せ」
反乱が勃発すると、各地で様々な宣言文が掲示され反乱への参加が呼びかけられました。その宣言で書かれた呼びかけは多くは「旧来の権威と秩序の回復」を呼びかけるもの。
例えばジャーンシー旧王国の反乱宣言文は
「人は神のもの、国は皇帝のもの、王国は王妃ラクシュミー・バーイーのもの」
「財産や生命への欲望を捨てよ、我が古来の信仰と大義のために我々に与せよ」
とあり、信仰のための反乱であることを明示しています。
信仰はヒンドゥーであると同時にイスラムでもあり、アラハバードでは反乱軍が警察を占拠し建物の上に緑の旗をかかげて「ジハード」を宣言しました。
「すべてのヒンドゥーとムスリムよ」と呼びかけている宣言も多く、「ムスリムよ、異教徒すなはちキリスト教徒を殺す決意をせよ。遅滞あれば社会より追放され、不可触民・豚・犬の子孫と呼ばれるだろう」とヒンドゥーの文脈を含んだ内容になっています。
インド大反乱では、インドから駆逐すべき「元悪」はキリスト教であるとみなされ、物質文明や近代システムは弾劾の対象ではなかったようです。
3. 反乱の拡大
3-1. 「デリーを目指せ」
首都デリーに駐在していた部隊のうち、最初に反乱を起こしたのは第38連隊で、イギリス当局は第54連隊と第74連隊に攻撃の命令を下しました。ところが両連隊とも攻撃を拒否し第38連隊に糾合。
同じように、イギリス軍に率いられて反乱軍の鎮圧にあたったセポイたちも発砲を拒否し、まもなく反乱軍と挨拶を交わし始めた。こうして次々とインド兵が反乱軍側に吸収されていき、反乱の規模は拡大していきました。
反乱軍は「ムガル皇帝を擁立すべく」首都デリーを目指して進軍していきました。旧権力を担ぐ復古主義的な動きですが、当時まだ特にイスラム権力と信仰とが結びついて存在したためでした。
全て地域がムガル皇帝を歓迎したわけではなく、ニザーム王国の首都ハイデラバードなどデリー権力への反抗心が強い地域は反乱に立たなかっただけでなく、イギリス側に付いて反乱の鎮圧に当たりました。
3-2. インド人の中のアイデンティティの区分
デリーが反乱軍で占拠された際、少数のインド人キリスト教徒たちはイギリス人と行動を共にして国旗掲揚塔に避難しました。
イギリス人は全員殺され、インド人キリスト教徒も襲われますが、
デリー警察署長ジーワン・ラールが
「もし本当にキリスト教徒であれば殺されてもしょうがないが、もしそうでないなら釈放してやれ、というのが国王の命令だ。彼らはインド人なのだから」
といったのがきっかけで、多くは助けられたそうです。キリスト教徒は全員敵だったわけではなく、そこに民族の区分があったことが分かります。
また、反乱が進むにつれてヒンドゥーとムスリムの対立も顕在化してきました。
例えば、デリーの街中にあふれる緑の旗に対しヒンドゥー教徒からクレームが入ったり、兵士用の砂糖菓子をムスリム兵がいち早く手を付けたせいで、ヒンドゥー兵が食べられなくなってしまい(不可触民が触れて汚れたため)争いとなったりしました。
反乱側も一枚岩ではなく、多層のアイデンティティが混在していました。
4. 反乱のその後
4-1. 伝統的なコミュニケーションの破綻
大反乱後、ムガル皇帝は伝統的なコミュニケーションを踏襲しました。
復権に際し21発の礼砲を打ち鳴らしたり、近隣の王たちに蜂起を呼びかけイギリス軍撃退への激を飛ばし、馳せ参じた兵には砂糖菓子を出して歓迎の意を表し、金襴で飾った象にまたがって市内を行進したり。
ところが時代は変わっており、こういった旧来のやり方では通用しなくなっていた。
皇帝の権限は行政議会の中では限られていたし、皇帝がいかに神聖なものかを知らない兵たちが増えており、「よう、じいさん、元気かい?」などと軽口を叩く。
兵たちは自分たちの司令官がやるように、皇帝自ら前線に立って戦うことを期待するが、ムガルにそんな伝統はない。皇帝はいったん承知してラホール門まではその勇姿を見せるも、替え玉を立ててこっそり宮廷に逃げ帰ったり。
大反乱に限界を感じていたのか、皇帝は反乱軍と行動を共にしつつ、実は秘密裏にイギリス軍に救援依頼を送っていました。
反乱軍の旗色が悪くなるにつれ、当初は全くイギリス側に伝わってこなかった反乱側の情報も次第に伝わるようになってきて、デリー陥落直前は反乱側の情報をイギリス側はほとんど把握していました。
4-2. 反乱の「成果」
大反乱以降、イギリスは「キリスト教をインドに積極的に導入すること」と「インド社会を改革し近代思想に変革すること」の2つを諦めざるを得ませんでした。
あくまで権力を維持することのみに専念し、その他の社会活動は全てインド人に委ねて介入しないこと。
これは現実的な判断ではありますが、社会改革を捨てることはすなはち、インド的な「浄」の部分にイギリスの価値観を置換することをも放棄したことになり、イギリス的統治と統治されるインド的価値観の間で生じる様々な矛盾や問題を、消化不良のまま抱え込むことになるわけです。
これはいずれ爆発する時限爆弾を抱え込んだに等しく、20世紀のガンディーの大衆運動に繋がっていくのです。
まとめ
イギリスは、インドの複雑で多面的な文化を全面的に社会改革しようとして、文化の無理解から失敗した。
一方インドは、伝統的に人びとの間に根付いた信仰を守るためにイギリス批判がなされて大衆運動を動員できた。
一方で、長いイギリス支配は政治的復古を不可能にしていた。いかにインドの伝統文脈が強いとはいえ、イギリスが持ち込んだシステムは少なからずインド人の意識もを変えさせていた。
大反乱が与えた影響は、このような点からインド社会に与えた影響はことさら大きかったと思われます。社会の変化はみんなが気づかない内に少しずつ進んでいるけど、何かの拍子に一気に顕在化して多くの人がハッと気づく。
歴史が進展するときには、そういうことが起こるものなんでしょう、きっと。
参考文献 シリーズ世界史への問い3 移動と交流 岩波書店