イングランド人の心を揺さぶる伝統のエールの味
以前「イギリス料理がまずくなった5つの理由」という記事を書いて、大きな反響をいただきました。
「いやいや嘘つけ結構美味しかったぞ!」とか「そうそう本当にマズかった!」とか色々なコメントがあって非常に面白かったのですが、
いつどこに滞在して何を食べたか個人の経験にも依るので、一概に「まずい」と切り捨ててしまったのは良くなかったなあと思った次第です。
ただし、今回のテーマ「イングランド・エール」はイギリス人も胸を張って「これは旨いぞ!」と言えるのではないでしょうか。
なぜイギリス人はワインではなくビールなのか。なぜイギリス人はビールを愛して止まないのか。その歴史的な理由を「パブとビールのイギリス 飯田操著 平凡社」から抜粋してまとめていきます。
1. イングランドのエール、フランスのワイン
1-1. 主食としてのエール
イギリスにおいてエールは古代ローマ時代から作られていました。
しかしそこまで広く飲まれているものではなく、というのも古代ブリテン島は深い森に覆われていて穀物の生産が盛んでなく、人々は森で採れるハチミツから作る「ミード」という酒を愛飲していたようです。
森の開墾が進み穀物の生産が拡大すると麦芽がお酒に利用できるようになり、エールが普及するようになりました。
古代ではエールは酔うためではなく、パンの代わりに主食として飲むもので、また安全の水の代わりに飲むもの。そのためアルコール度数は低く、朝から飲むし、女性や子どもも飲むものでした。
司祭や富裕な者はアルコール度数の高いワインを楽しんだようですが、庶民はもっぱら家庭で作るエールを日常でもハレの日も飲んでいたようです。
1-2. ビール、エール、ビター、ラガー…
先に「エール」と書きましたが、イングランドでは「エール」の方が「ビール」より先に発達しました。
エールとは「ホップを加えないもの」で、ビールは「ホップを加えたもの」として区別されます。ただしこの言葉の定義は時代によって多少異なり、現在ではビールは「麦芽を使用した飲料」全般を指しますが、エールは「焙煎していない麦芽を使用した色の薄いビール」であると定義されているようです。
現在のイギリスのパブではさらに「ビター」と「ラガー」という区別もあり、「ビター」は「常温の上面発酵で醸造されるエール」で、「ラガー」は「低温の底部発酵で醸造され冷やして飲むビール」のことを指します。
イングランドにホップが入ってきたのは15世紀ごろで、当初は根強い反対があったようです。
1483年にはロンドンのエール醸造組合は、市長にエールにホップなどという「邪悪な雑草」を入れることを禁止する嘆願書を出しています。この以来は聞き入れられ、エールにホップを入れ販売した者には罰金が課せられました。
これはホップを用いたビールやホップの害悪に対する反対ではなく、慣れ親しんだエールを守ろうという意味合いが強く、ホップは実際のところ防腐効果に優れており、その風味も次第に好まれるようになり普及していきました。
この頃から、「ビール」と「エール」が互換性のある言葉として定着していくようになりました。
1-3. 「誇り高きイングランド人はエールを飲む」
テューダー朝期のイングランドは、人々の間に「イングランド人意識」が芽生えた時代で、向かい合うフランスに対する対抗意識が芽生えました。
フランス人はチャラチャラ飾りつけた肉料理を食べ、カッコつけてワインなぞ飲んでやがる。
我々イングランド人はそんな浮ついたものを好まぬ。肉汁の溢れるローストビーフ。ドシンと麦芽の濃い味のエール。これが我らイングランドの味だ。
「フランスのワイン」に対する自国のアイデンティティとして、「イングランドのエール」が認識されるようになっていきます。
シェイクスピア作の史劇「ヘンリー5世」には、フランス軍司令官の以下の様な言葉が登場します。
戦の神よ!彼らはどこからこの勇敢な気質を得たのですか。
彼らの気候は寒冷で、陰気で、霧が深く、太陽はまるで悪意を持っているかのように、しかめ面で青白い顔色をし、実った果物を腐敗させているではありませんか。
あの煮立てた水、疲れた馬の水薬、いわゆる「大麦の汁」で、彼らの冷たい地をあのように熱い勇気に導けるものでしょうか。
ワインで生気を吹きこまれたわれわれの俊敏な血が、凍りついているようにさえ見える。
2. イングランド人はエールをしこたま飲んでナンボ
2-1. 大量飲酒の時代
17世紀のイギリスでは、貴賤問わずとにかく大量に酒を飲んでいたようです。
ヘンリ8世の宮廷では、優雅な淑女たちが朝食として「小麦パン、1ガロンのエール、1リットルのワイン」を飲んでいたと言うし、エリザベス女王自身も朝から約1リットルのエールを飲んでいました。
病院では子どもたちに1日3パイント(約1.5リットル)のエールが与えられていました。
当時の人々にとってエールはパンや肉と同じ食事の一部であり、手間のかからない食事の一部でありました。
17世紀末では2300万バレるを超えるビールが生産されており、ウェールズを含むイングランドの人口比で割ると、当時のイギリス人は1日あたり2〜3パイント(1〜1.5リットル)のエールを飲んでいたことになります。飲みすぎ!!
2-2. 乾杯!乾杯!乾杯!
そんなに飲んでいたら男女問わず泥酔する者が相次いだらしい。
1606年、デンマーク大使を歓迎するパーティで列席者が泥酔して仮面劇が台無しになってしまったことを伝える手紙。
宮廷の女性が慎みを忘れて泥酔し、千鳥足で歩き回る光景が見られた。
シバの女王役を演じた女性は非常に大事な贈り物を大使に手渡すことになっていたが、天蓋のついた台座に上がる時に足を踏み外し、デンマーク大使の膝の上にその小箱をひっくり返し、彼の足元に倒れてしまった。というより、顔の上に倒れ込んでしまった。
昔からあった乾杯の習慣は、大量飲酒の時代に激しさを増したらしい。
1666年頃にイングランド西部を旅したフランス人の見聞録。
この国の慣習にしたがって、宿の女将はよそ者や旅の者とも一緒に夕食をとる。娘がいれば、彼女たちも同席し、食卓の客たちを心ゆくまでもてなす。彼女たちも男たちと同じだけ杯を傾ける。
そして何よりも驚いたのは、同席している誰かの健康を祈って乾杯すると、この国の習慣では杯に酒を半分以上残すのが決まりで、杯はふたたび満たされて乾杯を受けた当人に渡されるのであった。
この乾杯の伝統はイギリス特有の伝統とみなされ、1698年にフランス人が記した「イングランドでは、宴席で同席の人の健康を祝して乾杯しない人がいたとしたら、人の目を盗んで酒を飲んでいるとみなされ、それは無作法な行為だとされる」という言葉にも、いかにイングランドで乾杯の習慣が大切であったかがわかります。
2-3. ピューリタンによる飲酒抑制
このような大量飲酒を非難したのは、オリヴァー・クロムウェルを筆頭としたピューリタン市民。彼らは「健康を祈って酒を飲み干すことほど危険で有害なものはない」として大量飲酒を非難しました。
ピューリタンの存在感が増すと、国王チャールズ1世も無視できなくなり「公衆の面前で酔っ払った者」に罰金を課す法律を制定しました。
この成功に勢いを得たピューリタンは、さらに人々の生活を律しようと民衆娯楽をことごとく規正する動きに出た。レスリング、銃猟、鐘鳴らし、仮面劇、ウェイク、そして祝祭で飲むエール。
ピューリタン政権下でエールハウスは厳しく締め付けられ、中には廃業する店も出てきました。
人々は禁欲的な生活に鬱屈した気持ちを募らせていき、クロムウェルの死後にその人々の思いは爆発しました。
クロムウェルの葬式では、「兵士たちは酒を飲み、タバコをふかしながら、騒々しい物音とともに通り過ぎて行った」とあるように、みんな破顔で独裁者の死を祝したそうです。実際にピューリタン政権崩壊後は、それまでの反動で再び人々は大酒を飲むようになりました。
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3. 人生を荒廃させる悪魔の酒「ジン」
3-1. ジン・フィーバーの発生
1688年、オランダのオレニア公ウィレムがプロテスタントの王ウィリアム3世としてイギリスに向かい入れられました。
ウィリアム3世は、オランダ出身なだけあり、イギリスでジンの製造を奨励しました。品質の悪い大麦を消化しオランダとの貿易を拡大し、敵対するフランスのブランデー輸入に歯止めをかける狙いがありましたが、ジンの普及のために税金が安く設定され、逆にビールの税金はあげられました。
その結果もありロンドンのパブの1/4はジン・ショップになるほどイギリスは「ジン・フィーヴァー」となりました。
ところがジンはビールよりアルコール度数がはるかに高く、猛烈に酔いがまわる酒。多くの住民がアルコール依存症になり、ロンドンの労働生産性や出生率にまで影響を与えたと言われています。
上記の版画はウィリアム・ホガースの「ジン横町」という作品ですが、泥酔し子どもを取り落とす母親や、犬と骨を奪いあう男、赤ん坊にジンを飲ます母親、泥酔し子どもを串刺しにする男など、この世の地獄のような風景が描かれています。
この版画にはジンの脅威を語る韻文が添えられています。
ジン、忌まわしい悪魔、手に負えぬ凶暴さで、人間を餌食にする。
この恐ろしい酒を飲むうちに、いつのまにか命を奪われる。
この猛威は、美徳や真実を絶望へと追いやるが、いたれるつくせりの世話で盗み、殺人、破誓を育む。
忌むべき杯、炎を秘めた液体は、命の腎臓をむしばむ。
心臓に狂気を運び、血管のなかで暴れさせる。
ジンの過度な飲酒による脅威は叫ばれていましたが、政府はあがる税金の巨大さに目がくらみ、なかなか有効な対策を取ろうとしませんでした。
3-2. 正しいイングランドの酒・エール
政府が対策を打ったのは、道徳が低下し労働者の確保が難しくなってきてから。
対策といっても、膨大な酒税を手放すことはしたくない。ということで、ジンの代わりに、「健全な酒」ビールを奨励することにしたわけです。
ウィリアム・ホガースの版画「ビール街」は、そのような意図に基づいてビールがいかに健康的で活気に満ちた酒かを、ジンの地獄のような光景と対比させる形で描いています。
波波のビールと牛肉の塊を持った恰幅の良い男、右手にビールを持ち女に語りかける女、魚売りの女も詩を読みながらビールを飲んでいる。
平和で健康的で、幸せに溢れた光景です。
これにも同じような韻文が添えられています。
ビールよ、わが島国の至福の産物。
筋骨たくましい力をもたらし、疲労と労苦でまいっていても、雄々しい勇気を取り戻させる。
ビールで励まされた労働と技術は、首尾よく前進する。我々はその香り高い酒を朗らかに痛飲し、フランスには水を任せる。
健康の守り神よ、その心地よい風味は、ユーピテルの杯に匹敵し、あまねくイングランド人の寛き胸を自由と愛で熱くする。
実際のところビールもアルコール入ってんだから、ジンが極悪でビールが健康なんてことはないはずなんですが、ビールは愛国心を高めるためのアイコンとして機能していきます。
4. ビールと愛国心
18世紀に作られた以下の歌には、ワインの国フランスに対抗する、ビールの国イギリスとしての愛国心が歌われています。
祖国を愛する真に誠実なるブリトン人よ。
かくも勇敢で、戦いに勝利し、自由を守った者たちの末裔。
ビールを手にして常にフランスを打ち負かした者よ。
さあ、誠実なるブリトン人よ、ここへ来て、ともに歌え。
さあ、いにしえのイングランド流儀の乾杯だ。
我々の宝物、逞しいイギリスのビールのもたらす利益と喜びをともに歌おう。
ちびりちびりとワインを飲む輩、酒をすする輩は退却した。
ビールを飲むブリトン人は、決して負けることはないのだ。
このような愛国歌とともに、イギリス人は再びビールを飲み始めます。
課税率を上げたり、販売を禁止したりして危険度が高いジンの消費量は下がっていき、ビールの消費量が上がり「国民的飲料」としての地位を不動のものとしました。
ビールの大量飲酒は以降も続き、特には深刻な社会問題を引き起こしますが、パブを始めイギリス人が郷愁を誘うビール文化が作られていき、それは現在にも受け継がれています。
まとめ
こういうのを「フードナショナリズム」とでも言うのでしょうか。
自分と相手を区別するために、最も分かりやすい「食べ物」で区別する。
例えば
「アメリカ人はジャンクフードばっか食ってるから味覚音痴なんだ。一方で日本人は繊細な味付けの日本食を食っているから味覚が優れているんだ」
とか。
ジャンクフードを食べると味覚音痴になるのが本当かもよく分からないし、そもそも多くのアメリカ人がジャンクフードばっかり食っているというのも実情とは違う部分があると思います。
冒頭に述べた「イギリス料理がまずい」という文脈も、その比較対象として「一方で優れた料理文化を持つ我が日本は…」という話につながりやすく、
盲目的な自己肯定と他者への蔑視につながりかねないものであるように思えます。
参考文献 パブとビールのイギリス 飯田操 平凡社
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・ビールの歴史はこの本が詳しいです