会社の興亡と運命を共にしたアメリカの「企業町」
およそ100年前、アメリカ全土には約2500もの「企業町(Company Town)」があったそうです。
辺境地に作られることが多く、住人はおおよそ「会社の従業員とその家族」。
インフラも、各種サービスも、生活必需品の販売も、雇い主である会社が行う。会社の寮が超巨大になったものと考えたら分かりやすいかもしれません。
そんなことしたらコストばっかかかってどうしようもないじゃないか、と思っちゃいますが、土地が安価な辺境地に大規模な工場を作って、大量の労働者を囲い込んで安定的に操業するのは、当時はそれしか方法がなかったんでしょう。100年前なんて、鉄道も自動車も普及はまだまだでしたからね。
そして当時の「企業町」は「労働者の新たなライフスタイルを創りあげる」壮大な実験場でもありました。
100年前の野心家たちの夢の跡、かつて栄えた「企業町」を見ていきましょう。
1. イリノイ州プルマン
理想主義者が作ったデストピア
プルマンを作った会社は、19世紀末から20世紀中頃まで存在した鉄道関連会社のプルマン社。 プルマン社は鉄道車両の製造だけでなく、搭乗する車掌やボーイ、調理人まで一括で請け負うビジネスで急成長しました。
1884年、社長のジョージ・プルマンは製造体制を強化すべく、イリノイ州の4000エーカーの土地を購入しそこに新たな鉄道車両製造工場の建設を始めました。同時に、工場で働く従業員が住むための町の建設も同時に進めた。新たな町プルマンには、1000もの住宅、公共施設、公園が建設され、それぞれの住宅は庭が付き、ガス管が通り、毎日のゴミ回収が行われ、珍しいアメニティも備えた、当時としては先進的な設備を備えていました。1893年には1万2000人もの住民が暮らす、大規模な町に成長していました。
ところが、そんなプルマンに暮らすには、社長ジョージ・プルマンの「鉄の掟」に耐えなければなりませんでした。
ジョージ・プルマンは理想主義者で、自分の会社に勤務させたい「理想の労働者」を日々の生活によって作り出そうと考えました。
勤労意欲にあふれ、健康的で知的な生活を送り、もちろん会社の文句は一切言わない。
市民同士の集会は禁止され、本棚は「会社から指定された本」が並び、劇場でも「会社推奨の演劇」のみが上映される。
たまに会社の抜き打ち検査があり、それに引っかかると容赦なく「町からの追放」を命じられたのでした。
1894年、経済危機でプルマン社は大規模なレイオフを敢行。それに抵抗する労働者と会社は激しく衝突し、一時は州軍が動員される騒ぎにまでなりました。
1889年には、イリノイ州最高裁判所がプルマン社に対して非製造部門の社員を会社町から引き剥がして家を買わせるように、と指示が来たため、多くの社員がプルマンを離れてシカゴに移動。その後町は徐々に衰退をし、1957年の工場も閉鎖されました。
プルマン社は町の取り壊しをしようとしましたが、元従業員たちは頑強に抵抗を重ね、なんと現在も存在し人が住んでいるそうです。
2. ペンシルベニア州ハーシー
偉大なるチョコレート帝国の理想郷
ハーシー社はアメリカのチョコレート製造最大手で、日本でもハーシーブランドのチョコレートを販売しています。いかにもアメリカらしい、あま〜いヤツです。
1900年、創業者のミルトン・ハーシーはミルクチョコレートの大量生産と販売で業界のパイオニアとなりました。ミルトンは故郷のペンシルベニア州に、さらなる商品供給体制の強化のための工場を建設。そこは都市部から離れた田舎で、近隣の農家から安定的にミルクの供給を受けるのが狙いでした。
とはいえこんなに田舎に作っては労働者の確保が難しい。ということで、ミルトンは自分の思い描く理想的な町を作ってそこに労働者を住まわせることを考えました。
町のメインストリートは、「チョコレート通り」と「ココア通り」。
広い家を手頃な価格で提供し、所有も賃貸もできました。町にはトローリーバスが走り、学校、クラブ活動、アミューズメントパーク、動物園までもありました。
全米が不況で沈む中でも、ハーシーは大規模なホテル、スポーツアリーナ、公共施設などの建築をして労働者を雇い雇用を確保しました。
ところが、労働者に豊かな住環境を与えて会社への不満を潰してしまうミルトンの戦略も、1930年代から段々と歪みが生じてくるようになりました。上層部には残業代が出るのに、労働者には出ないことを知って腹をたてた労働者達は、団結して労働組合を立ち上げ、ストライキを敢行しました。会社と労働者の対立は長くは続きませんでしたが、ミルトンが掲げる会社と労働者との理想的な関係は、これによって大きく傷がつくことになったのでした。
1945年にチョコレート王ミルトン・ハーシーは亡くなりましたが、その後も彼の作った町は生きながらえました。
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3. ニューヨーク州スタインウェイ村
ピアノ会社が提供する労働者の楽園
1853年、ドイツ移民のヘンリー・スタインウェイは、ニューヨークのマンハッタンでピアノの製造販売ビジネスを始めました。
言わずと知れた世界の三大ピアノメーカーの一つ、スタインウェイです。
1870年、うまく時勢にも乗りピアノビジネスは順調に成長。工場ではスペースが足らなくなってきました。だが同時に、外部から無政府主義者や共産主義者がやってきて、ピアノ職人たちに何やら不穏なことを吹き込んでいました。
ヘンリーと息子のウィリアムは、「たまっていく労働者の不満を抜くために」ニューヨーク州クイーンズに400エーカーの土地を購入し大規模な工場と、そこで働く労働者のための住宅を建設しました。ニューヨーク島からマンハッタン川を渡ったすぐそばの場所です。抜群のロケーションですよね。
ウィリアムは労働者に村内に建設した住宅を販売・賃貸しましたが、同時に労働者同士の談合やストライキは厳しく制限しました。
スタンウェイ村では、会社の労働者以外への住宅の販売・賃貸も行っており、後にニューヨーカーたちが週末に楽しめるアミューズメントパークを建設し、地下鉄も最寄りに呼び込みました。
現在はスタンウェイ村は拡大してきた住宅地に飲み込まれてしまいましたが、ピアノ工場は健在で年間1000台のピアノを生産しているらしいです。
4. ニュージャージー州ローブリング
大繁栄したワイヤロープ製造会社の町
1840年、プロシアからの移民ジョン・ローブリングは、ロープ製造と吊橋の設計・建設ビジネスを始めました。彼の会社は後に、アメリカで最初の吊橋である、ニューヨークのブルックリン橋の建設に成功します。挑戦心のある革新的な男だったんですね。
創業者ジョンと彼の3人の息子たちは、ロープ製造と吊橋建設のビジネスを着実に広げていき、1848年に本格的な溶鉱炉付きの工場を建設しました。さらなるビジネスの拡大が目的でしょう。
そして工場の横に750軒の家を建設し、労働者とその家族をに安い価格で引き払いました。独身の労働者には寮を作って住まわせ、商店、レクリエーション施設、劇場まで建設しました。
会社は家や芝生、道などの補修・管理はしましたが、労働者の思想管理までは行おうとしませんでした。素晴らしいですね。
ローブリング社はその後、ゴールデンゲートブリッジやワシントンブリッジ、エンパイアステートビルなど、アメリカを代表する橋やビルを建築していくことになります。
1947年には家を売り払い、先進的なタウン・ビルディングを建設。今で言うマンションですかね。そして従業員に優先的に販売しました。
ローブリング家は1953年に経営権を売り払いますが、その後もローブリングの溶鉱炉と家々は残り、現在も壊されずに存在するそうです。
5. カリフォルニア州スコティア
Image from Barabas
最も長く生きながらえている企業町
1880年代、カリフォルニアの豊かな木材資源を資本に、パシフィック・ランバー社は住宅用の材木の加工・販売で急成長を遂げました。
パシフィック・ランバー社は創業から100年もの間同族によって経営されており、カリフォルニアという先進地には似つかわしくないほど「家父長的」な思想を持っていました。
すなはち、創業一族は親であり、従業員は息子たちで、みな兄弟である。
会社は従業員のために住宅を建設して破格の値段で充てがってやった他、クリスマスプレゼントで家をポンとあげるような大盤振る舞いすらしていました。
ところが1980年代から経営が苦しくなり、創業者一族は経営権を別のオーナーに売却。経営を受け継いだ新オーナーも、経営を立て直すことはできず、とうとう2007年に破産を宣告しました。この時点で、スコティアの270の家にまだ住民が住んでおり、またホテルや商業施設も稼働していました。
2011年、スコティアに住む住民800名を対象に「町自体を売却するか」「独立し自治会で統治するか」の選挙を行い、賛成多数で「独立」を宣言。現在は独自の自治体として存続しています。
まとめ
日本でも、豊田市や日立市、門真市、池田市のような「企業城下町」は存在しますが、
アメリカの場合何にもないところにゼロからドンと町を作ってしまうところが違います。
相当な田舎で会社に勤めていないと住む理由がないから、経営が傾いて住人(=労働者)が去って行くと、町自体がなくなってしまう。
そうやって新たな会社が新たな町を新たな思想の元作り、古くなったら潰れていく、新陳代謝を繰り返していけるのがアメリカという国の強いところなんでしょうね。
今は我が世の春のシリコンバレーも、いつかは今回の企業町のようになるのでしょうか。
参考・引用