ソ連最凶の親分ヤポンチクとマフィアの台頭
前編に引き続き、社会主義陣営の大親分・ソ連のヤクザの歴史についてです。
前編ではロシア革命からフルシチョフの時代までのソ連の著名なヤクザと、ヤクザの中のヤクザである「ヴォール」の制度についてまとめました。
今回は、歴代のソ連のヤクザで最凶と言われた大親分ヤポンチクと、ペレストロイカ以降に台頭し今のロシアの政財界を牛耳っているロシアンマフィアについてです。
4. モンゴル組の台頭
フルシチョフ時代になると、公然とソビエト体制に歯向かうヤクザ集団が出現するようになりました。彼らは十字架をシンボルにして宗教への帰依を唱え、無神論のソビエト体制に反抗する。プロレタリアート的に働かない。サボタージュを起こす。
そんな反体制の無頼漢たちが組織化され、頭目にヴォールをいただき、独自の任侠道を持って活動を始める。
反体制派である彼らは当局に厳しく取り締まられ、刑務所をたらい回しにされるのですが、出所してから闇社会で様々に活動を始めるようになりました。
そんなニュー・タイプのヤクザの1人で有名な人物が、通称モンゴル(本名G・カリコフ)。
モンゴル人だったわけではなく、見た目が東洋人っぽいから付いたアダ名。
戦争孤児で小学校もロクに行かず、最初はボロフスク市のコルホーズで働いていましたが給料が安くて食えなかったから、闇の食料流通販売をやり始めた。これが警察に発覚して「社会主義経済転覆罪」でムショにぶち込まれてしまいました。
その後何度かシャバとムショを往復しているうちに、次第に周りに子分が付き始め、次第に親分になっていきました。当時の刑務所はヤクザの大学のような場所で、モンゴルはガラの悪い連中を集めては「ワルのイロハ」を教えていたそうです。
モンゴルは精鋭30人のヤクザを使って武器・麻薬の密売を手広く行っており、また麻薬の売人に「名前をバラすぞ」と脅しては金品をまきあげる「キヌーチ(恐喝)」を生業としていました。
そんなモンゴル組で成り上がり、やがてソ連最凶のヤクザと恐れられるようになる人物が、ヤポンチク(ヴャチェスラーフ・イヴァニコーフ)であります。
5. ソ連最凶のヤクザ・ヤポンチク
5-1. ヤクザ・ヤポンチクの誕生
ヤポンチクは1940年、極東ウラジオストクの生まれ。
ヤポンチクというあだ名は「ジャップちゃん」みたいな意味で、身長が低かったこと、目がややつり上がって東洋人風の顔立ちであったこと、柔術を習っていたことなどからそういうアダ名がついたそうです。
ヤポンチクの家庭環境は劣悪で、父はアル中で誰かれ構わず怒鳴り散らしすような男で、母は信心深いが猜疑心が異常に強い女。あまり真面目に勉強することもなく、19歳でモンゴル組でチンピラのような生活を始めました。
ヤポンチクはモンゴル組でキヌーチ(恐喝)の専門となり、父親譲りのどなり方で相手をビビらせカネをせびり取る生活を送っていました。よほど迫力があったのかヤポンチクの売上は相当なもので、段々とヤクザの世界で能力が認められるようになってきました。
ところが1965年、ヤポンチクはスリの現行犯で逮捕されてしまう。現場で異常な暴れ方をしたので精神病を疑われて精神病院に入院させられ、しばらく病院でおとなしくしたあと、医師の勧めで堅気の仕事を始めました。
でもやはりヤクザの仕事のほうが儲かったためか、再びモンゴル組に戻ってヤクザ稼業を再開。武器取引のキヌーチでモンゴル組で1、2を争うほどの稼ぎ頭になり、他のメンバーも競うように麻薬や武器の闇ビジネスを進め、1970年代にはモンゴル組はソ連全土をほぼ支配するほどの広域犯罪組織にまで拡大していました。
5-2. ヤポンチク・グループの形成
ところがモスクワ犯罪捜査本部も、好き勝手に暴れまわるモンゴル組を黙ってみているわけではなかった。1972年1月には組長モンゴルを始め、主だった連中を一斉検挙し、裁判をかけて次々にムショに送り込んだ。モンゴルも15年の実刑が確定した。
ところが、ヤポンチクは色仕掛けで看護婦や女医を手なずけてニセのカルテを作らせてアリバイを作って、それを裁判所に提出してうまいこと逃げおおせた。
組がズタズタになってしまったので、ヤポンチクは自分を中心の組織を作り始めました。元モンゴル組で出所してきた連中や、新しいゴロツキを仲間に入れ、全国行脚をしながら組織とネットワークを固めていきました。ヤポンチクの全国行脚は闇世界の人間から非常に恐れられ、ヤポンチクが訪問した後には累々たる死体が転がると言われたほど。ソ連各地の有力なヤクザや盗賊団の頭領を持ち前のドスの効いた声で脅しあげ、金を巻き上げた後に闇に葬り去る。「恐怖のヤポンチク」というイメージを植え付け、全国に忠実な手下を次々と抱えて行きました。
ヤポンチクは1974年に「ヴォール」に認定され、34歳にして自他共に認める大親分に成長していました。
5-3. ヤポンチク組の結成
1970年代末、三度目のムショ勤めを終えたヤポンチクはグループに若手で固め、自分の組をモスクワの中心部に結成しました。時はブレジネフ政権の末期で、経済不振と政治腐敗が問題となり闇市場が活発になった時代で、ヤクザが勢力を拡大にするにはもってこいの時期。
ヤポンチク組結成にあたって実力のあるヤクザたちが多数入組しました。現代で例えると、著名なエンジニアが会社を辞めて独立したら、それを聞きつけた優秀なエンジニアが多数ジョインするようなものでしょうか。
ヨーロッパ柔道選手権優勝者のブイコフ、有名歌手のY・コブゾン、ドルゴプルードネンスク組のヴォール、サヴォシカ、リューベレッツ組のヴォール、シンカンなどなど、そうそうたる面々がヤポンチク組に馳せ参じた。まさにドリームチーム。
また、ソーンツェヴォ組との関係を強化したり、ヴォールのラフィク・スヴォーや同じくヴォールのロスピシなど、大物ヤクザたちとお互い支え合うことで、ヤポンチク組はほぼロシア全土に睨みを効かすようになった。
モスクワ警察の内部にも協力者がおり、警察内部の情報はヤポンチクに筒抜けだったので、警察の必死の捜査も上手く逃げおおせていたし、仮に容疑がかかっても例のごとく、愛人の女医にカルテを改ざんさせて裁判所に証拠を提出し、無罪放免となっていたのでした。
5-4. 逮捕、シベリア送りに
ある時、ヤポンチクはモスクワの骨董収集家ニセンゾンの自宅を襲い、切手や骨董品、現金を奪った。ヤポンチクは逃走の際、「通報したら命はないものと思え」と脅し、すっかりニセンゾンは怯えてしまっていました。
ところがニセンゾンがモスクワ警察に貴重な情報をもたらすことになりました。
1981年5月15日に、ヤポンチク一味が黒海沿岸のリゾート地ソチにバカンスに行くらしい、という情報をリークしたのです。若い美女たちを多数連れてホテル「ガスチーニッツァ・ジョムチュージナ」で酒池肉林の大騒ぎをしようというわけで、モスクワ警察は綿密に逮捕計画を練ってタイミングを待った。
とうとう旅行の前夜の14日夜、前夜祭を楽しむヤポンチク一味のアジトを警察の機動部隊が急襲。子分のほとんどはその場で取り押さえられ、ヤポンチクは逃げ出すも封鎖された道路でまもなく逮捕されてしまいました。
ヤポンチクは14年の「自由剥奪刑」に処せられ(後に15年に加算される)シベリアのマガダン監獄に送られるも、各地でケンカにあけくれ監獄をいくつもたらい回しにされ、最終的にソ連で最も規律が厳しいとされるイルクーツクのトゥルン刑務所に収監されました。ここでもヤポンチクは凶暴性を発揮し、58回も規則を破り、35回も懲罰室に送られ、16回も独房室にブチこまれたそうです。
そんな状態でもヤポンチクは相変わらず指導力を発揮して、イルクーツクにいる舎弟を経由してモスクワの組本部に司令を出し、刑務所にいながらにしてソ連全土を掌握していたのでした。むしろ殺される危険がないから、刑務所のほうが安心して組の運営ができたかもしれません。
5-5. 早期釈放へ
1980年代後半にゴルバチョフのペレストロイカが始まると、大小様々なマフィアが勃興し、ヤポンチクが長年築き上げてきた組織が音をたてて崩れ始めていた。
あせったヤポンチクは、ゴルバチョフやエリツィン、コワリョフ、フョードロフなどの有力な政治家に働きかけて早期釈放を訴えた。政治家や有力者、文化人がこぞってヤポンチクの早期釈放を求め、世論を導いた。これまでのヤポンチクが培ってきた人脈とコネがフルに発揮された。
1991年2月25日の法廷で、刑期が15年から10年に短縮されることに決定。ヤポンチクは晴れて自由の身となったのです。
ヤポンチクはソ連の崩壊とこれからのヤクザビジネスに限界を感じていたのか、アメリカ進出を計画。ソ連が崩壊した1991年12月から数カ月後にアメリカに渡った。
以降、アメリカでヤポンチクは闇ビジネスを展開していくのですが、時代はすでにロシア連邦になっているので、残念ですが割愛いたします。
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6. ゴルバチョフ時代 - 暴力マフィア組織の勃興
6-1. 新興マフィアの台頭
1985年から政権についたゴルバチョフは、ペレストロイカで(改革)とグラスノスチ(情報公開)政策を導入し、停滞するソ連の国歌の枠組みを大幅に刷新しようとしました。
その結果、これまで闇で私的に行われていたビジネスが大手を振って表に出てきた。
そしてそれらは武器で重武装した新興暴力団マフィアに支配されるようになり、これまでのヴォールが率いるヤクザ組織は段々と力を失うようになっていきました。
新興暴力団マフィアの出身は、ヴォールの支配外で活動していたチンピラどもか、ヴォールの舎弟だった者。そんな連中が武器を使って瞬く間に新時代のビジネスを牛耳っていく。連中はカネに飢えた残虐な奴らで、とにかく自分さえ儲かればいい。これまでのヴォールの硬派な義侠的美学なんて「知ったこっちゃねえ」。
ヴォールの率いるヤクザ組織はルール無用の下品な連中と抗争を繰り返し、互いに潰したり潰されたりしましたが、全体的にはヴォールの権威は低下していき、生き残ったヴォールたちは新興マフィアと協力関係を築いて生き残りを図っていきました。
6-2. ソ連末期とマフィア
ソ連末期には経済の政治の混乱が続いたことに加え、これまでソ連全土を支配していたヤポンチクがアメリカに拠点を移したこともあり、大小様々なマフィアが乱立して利権を巡って争い、まさに群雄割拠状態でした。
ロシア国内でのパイの食い争いから逃れて国際市場に乗り出そうとする組織や、政治家と癒着し商売を確実にしようとした組織など様々です。
ソーンツェヴォ組 - ロシアNo.1マフィアに
モスクワ周辺のマフィアから始まり、後のロシアNo.1マフィアとなったソーンツェヴォ組は、ソ連崩壊後から拠点をウィーンに移し、石油などの地下資源から西側の車やコンピュータ、売春斡旋などあらゆる商品を取り扱う国際マフィアに成長しました。
リューベレッツ組 - 国際金融マフィアに成長
そのソーンツェヴォ組に次ぐのが、地方都市リューベレッツを本拠地とするリューベレッツ組。主に骨董品を集めてきて該当で売りさばくバザール商法を生業としていました。このリューベレッツ組も後にアメリカに進出し、国際金融を扱う近代的マフィアへと成長していきます。
ポドリスク組 - 政治に進出
地方都市ポドリスクを拠点にしたポドリスク組は、請負殺人、マネーロンダリング、石油製品や希少金属の密売で利益を上げ90年代に急成長。ロシアの国会議員やモスクワ市議員と緊密な関係を築き、やがてプーチン初代内閣のスポーツ観光大臣ロタンを輩出するに至ります。
プーシキン組 - 副大統領と太いパイプを築く
プーシキン組の親分ユズバシェフは、表向きはロシア社会開発基金「ヴォズラジデーニエ(復興)」の副総裁でしたが、裏ではウォッカの密売をしており、ロシア副大統領アレクサンドル・ルツコイの大親友でした。ソ連警察がユズバシェフを逮捕しようとするとルツコイがユズバシェフに耳打ちをする。するとすぐにユズバシェフはイスラエルに高飛びしてしまう。そのお礼として、ユズバシェフはルツコイに多額の政治献金をするという間柄でした。
1993年10月3日、ルツコイは最高会議議長ハズブラートフと組んで反エリツィン勢力を結集し、ロシア議員会館に立てこもり銃火器で攻防戦を行った。ところが重戦車を擁するエリツィン勢力に敗れ、監獄にブチ込まれてしまいました(4ヶ月後に釈放)。この時反エリツィン勢力が議員会館に持ち込んだ約2000丁の小銃は、プーシキン組が調達してきたもの。政変に敗れたルツコイは失脚し、プーシキン組もユズバシェフを除く幹部が内外の抗争で多数殺害され、ほぼ解体同然の状態になっているとのことです。
まとめ
多少は緩やかになったとはいえまだ厳しい社会主義体制の元、ヤクザたちは独自のルールを設けて相互に助け合い闇ビジネスを展開していました。その中で出た傑物がヤポンチク。彼の存在はかつてのヤクザの中では伝説の粋にまで達しており、ルール無用の新興マフィアもヤポンチクはリスペクトをし、彼の「指導」を仰ごうとしました。それだけヤポンチクがソ連のあらゆる領域を牛耳っていたからに違いない。
先に述べたとおり、ソ連崩壊後のロシア連邦では血みどろの抗争の末、新たな事業の拡大を目指して外に飛び出していくマフィアもいれば、政治家と組んで権益を確保しようとするマフィアもいました。
そんな中でモスクワに乗り込んでくるのが、チェチェンマフィア。
ロシアマフィアとチェチェンマフィアは車や武器の取引で対立し、血で血を洗う抗争に発展していった結果、ロシア連邦軍を巻き込みチェチェンへ武力介入するという事態に至ります(第一次・二次チェチェン戦争)。
そのような状態なので、現在のロシアの政治はマフィアと深く繋がっており、元大統領エリツィンも現大統領プーチンもマフィアと太い繋がりがある。ロシアの資本家もマフィアと繋がりがあるか、あるいはマフィアが経営している企業も多い。
どんな社会でも裏社会は存在し、多少なりとも表の権力や金と繋がってはいるものですが、ロシアはコインの表裏のように表社会と闇社会がベッタリと張り付いて離れない。
ソ連という壮大な社会実験が生み出したのは「人類の発展」どころじゃない、カネと武力がモノを言う戦国時代のような社会。何という皮肉でしょうか。
参考文献 ロシアマフィアが世界を支配するとき 寺谷弘壬 アスキー・コミュニケーションズ
Russian mafia - Wikipedia, the free encyclopedia