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ウォッカのロシア史

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ロシアの国と人を支えてきたウォッカの今昔

ロシア人といえば、大酒飲みで特にウォッカが大好きというステレオタイプなイメージがあります。

90年代のテレビニュースに映った赤ら顔のエリツィン大統領や、ハリウッド映画で描かれる飲んだくれロシア人のイメージが強いかもしれません。

ただ、これが間違っているイメージかというと、半分くらいは合ってるのが悲しいところです。いかに健康を害しようとも、ロシア人はウォッカをこよなく愛してきました。ロシアの歴史はウォッカと共にあったと言っても過言ではありません。

 

1. 「生命の水」ウォッカ

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「ウォッカ」がロシアに伝わったのは14世紀後半と考えられていますが、それ以前からロシア人は酒好きであったようです。

キエフ・ルーシの歴史が描かれた12世紀前半の『原初年代記』には、キエフ大公ウラジミールがイスラム教徒に「ルーシは飲むことが生きがい」と言ったエピソードが掲載されています。

イスラームを信仰するブルガール人が来て、「あなたは賢明で思慮深い公ですが、掟を知りません。私たちの掟を信じ、イスラームを礼拝しなさい」と言った。ウラジーミルは「おまえたちの信仰はどのようなものか」と言った…(略)しかし、割礼と豚肉を食べないこと、まったく飲酒しないことは彼の気に入らなかった。彼は「ルーシ人には飲むことが楽しみなのだ。私たちはそれなしには生きている甲斐がない」と言った。

ロシアでは伝統的にビールかメドヴーハが飲まれていました。メドヴーハとは、蜂蜜に水と酵母を入れて発酵させた蜂蜜酒で、各家庭で自家消費用に作られるのが一般的でした。

「ウォッカ」がロシアにやってきたのは1386年、ジェノバの大使がモスクワを訪れ「アクアヴィータ(生命の水)」をモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイに献上したのが初めてとされています。

アクアヴィータ(aqua vieta)とは蒸留酒の古い呼称で、14世紀の錬金術師ジョン・オブ・ルペシッサが、エタノールを不滅で生命力のある「エーテル」であると主張したことに由来があります。

ロシア人だけでなく、当時のヨーロッパの人々もエタノールをまさに「命の水」のように愛し、この呼称はヨーロッパ各国の言語で蒸留酒を現す言葉として現在でも残っています。

例えば、英語では蒸留酒のことを「スピリッツ(Spirits)」と言うし、フランス語ではブランデーを命の水を意味する「オー・ド・ヴィ(eau de vie)」、イタリア語でもブランデーを「アクアヴィーテ(acquavite)」と呼びます。

実はロシアで、ムギ類を蒸留して作る蒸留酒のことを「ウォッカ」と呼ぶのが一般的になったのは19世紀末のこと

それまではウォッカは薬用に作られたアルコール度数75%以下の薬草酒のことを指していました。蒸留酒は長らく「ヴィーノ(ワイン)」と区別されておらず、しかもシヴゥーハ、ポルゥーガルなどの別称もありました。

また、ウォッカと言えば高いアルコールというイメージがありますが、18世紀半ばまでアルコール度数は40%未満で、それを水で割って24%以下にして飲むのが一般的でした。

 

2. 都市でも農村でもウォッカ

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宮廷の殺人的な飲み会

伝説によると、ロシアで初めてウォッカが作られたのは1430年頃、モスクワのクレムリン内にあるチュドフ修道院のイシドールという修道士が作ったそうです。正確には1503年10月10日だそうですが、いずれにしてもモスクワで作られたものでした。

ウォッカは長い間モスクワ大公国のみで生産され、作り方は門外不出とされたため、旨い酒の存在はモスクワの他の公国に対する求心力の源となりました。

当時の宮廷はどこでもそうでしたが、酒宴は飲めや飲めやの大騒ぎで、連日深夜まで続きました。モスクワ宮廷の酒宴も激しかったらしく、特にピョートル大帝は酒豪で知られました。

ピョートルの酒宴は殺人的で、えげつない量の酒を飲む宴が数日間続いたため、急性アルコール中毒で死ぬ人すらいました。

ピョートルは宴会で守るべき独自の規則を定めていました。それは「廷臣が宴会に遅刻した場合、大杯(1.5リットル)でウォッカを一気飲みすべし」というもの。彼は朝からかけつけ一杯ウォッカを飲むのが習慣だったらしいので、常軌を逸した酒飲みです。

ピョートル側近のボリス・クラーキンは、ピョートルのせいで貴族の飲酒の習慣は広がり、今や(18世紀前半)女性も飲んでいる、と記しています。

ピョートル大帝の妻で夫の死後帝位に就いたエカテリーナ1世も大酒飲みでした。

彼女の宴会も何日も行われ、しかも夜間ぶっ通しで行われました。ザクセン大使館の手記によると、エカテリーナはまず朝に高級なダンツィヒ産のウォッカを一杯やることから一日を始め、そのまま飲み続け、ようやく夕方にハンガリーのワインに切り替えた、そうです。

 

農村の飲み会

宮廷の激しい飲酒文化がどこまで影響を与えたかは分かりませんが、少なくとも19世紀のロシア農民はウォッカをこよなく愛し広く飲酒の習慣が広まっていました。

人々は年に数十回もあるお祭りのたびに派手に飲んでいました。生誕祭、復活祭、聖母被昇天祭といった正教の祭りの他にも、洗礼者ヨハネや使徒ペテロやパウロといった聖人を祝う祭り、さらには国の祝日でも飲みました。

また、子どもの誕生や結婚式、成人といったライフイベントもあったし、春の種まき、秋の収穫といった季節のイベントもありました。

「1月は正月で酒が飲めるぞ、酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ」

という歌がありますが、ほんとそんな感じです。

農民だけでなく聖職者もウォッカを好んだそうで、I.S.ベーリュスチン『農村の聖職者に関する記録』には、聖職者が農民に酒をたかる様子が記録されています。それによると、ある農民の一家から結婚の届け出があると、司祭やその部下たちは婚礼の日まで連日連夜農民の家を訪れてウォッカを所望し、泥酔するまで飲んだそうです。

当然家計の酒代の負担は大きく、特に結婚式での酒代は大変なものがありました。1850年代のある農家の婚礼では、新郎新婦の両家族で5ヴェドロー(約62リットル)のウォッカを飲み、その費用は30ルーブリ相当。これは当時の農民の年間所得に近いものでした。

農民にとって飲むことは何よりも楽しみなことであり、酔っぱらうことは恥ではなく、むしろ誇らしいことでさえありました。

常識的に考えてこのような過度な飲酒が治安や健康、経済的にもいいわけないのですが、このような飲酒癖がついたのはロシア政府の経済政策に責任の一端があります。

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3. ロシアの財政を支えた酒税

ロシアではウォッカの生産と国民の飲酒から上がる税金が非常に大きく、国の財政を支えていました。

16世紀にモスクワを中心に中央集権化を成し遂げたロシアは、19世紀までカフカス地方やシベリア、極東、さらには北アメリカにまで領土を広げ、西ではイギリス、フランス、ドイツといった西ヨーロッパ諸国とあちこちで戦争を繰り広げました。

強大な軍事力を支えるため財政は常にひっ迫しており、塩や穀物、毛皮、製鉄などあらゆる産業を独占し税金を課しましたが、中でもウォッカ製造販売は旨味のある商売でした。

例えば、1895年のトゥラ県では、2ルーブリに相当するライムギ約130キロから約86リットルのウォッカが製造できました。それが居酒屋で約10リットル8ルーブリで販売されました。それが丸っと政府の収入になったので、まあ、ぼろ儲けってやつです。

歴代のロシア政府の財政でウォッカが占める割合は大きく、1911年の国の歳入のうち32%が酒税であり、酒の89%がウォッカでした

 

酒税のかけ方

ウォッカ生産が始まった当初は、まだ流通量も少なかったこともあり、ロシア政府はまず居酒屋を設け、そこで国家による独占的な販売を行いました。これをオークトゥプ制と言います。

最初の国営居酒屋は1545年、イヴァン四世の時代にモスクワに作られました。その後は各地に広がり、地方の酒税請負人が店の売上金を地方知事を通して国庫に納めました。

この酒税請負人は非常にオイシイ商売で、定められたノルマ以上の売り上げは自分の懐に入れることができたため、誰しもがこの役職に就きたがり、商人は多額の賄賂を地方政府の役人に渡しました。

酒税請負人は居酒屋の経営を一任されるので、どのように利益を捻出するかも自由自在。つまり、混ぜ物を入れた劣悪なウォッカを高値で売り利益を上げる連中が続出しました。水で薄めるだけならまだしも、中には石鹸や麻薬が混ざったものもあり、中毒で死ぬ者が毎年数万人にもなりました。

1863年にはウォッカ製造の政府独占が廃止され、製造と販売が民間にゆだねられるアクツィース制が導入されたことで価格が急落。低所得者でもウォッカを購入できるようになりました。しかし1895年から再び国家による独占販売となりました。

当時からロシアの飲酒文化は大きな社会問題であるとみなされていました。人の健康を害す上、労働意欲を阻害するし、ウォッカ製造に使われる穀物や燃料は大きな経済損失であると考えられたのです。

1652年にはモスクワ大公アレクセイが「節酒令」を出し、酒税請負制と居酒屋を廃止し、都市の蒸留酒製造所を一か所のみにして一人当たりジョッキ一杯にする、といった意欲的な法令が実施されましたが、ポーランド戦争の始まりで税金が足りなくなり、むしろ酒類の販売が奨励される結果に終わりました。

1917年の10月革命で独裁政権を獲得したレーニンのソ連は、ウォッカによって国家やブルジョワが潤い、プロレタリアの貧困の原因となっているとして酒を断とうと試みました。

 

4. 革命の敵:酒

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1917年11月11日の全ロシア中央執行委員会で、トロツキーは以下のような演説をしました。

同士諸君、飲酒禁止だ!正規の衛兵をのぞき、夜八時以降はだれも街頭にいてはならない。酒類を貯蔵していると思われるあらゆる場所をさがしだして酒をたたきこわすべきだ。酒類販売業者には容赦無用だ。

革命直後のペトログラードではウォッカを求める兵士らの暴動が相次いだため、軍事革命委員会はアルコールの製造・販売を禁止する命令を発し、酒類販売店を閉鎖し、違反した者は裁判にかけられました。

当初は暴飲の悪癖は、ロシアの社会的・文化的後進性から来るものと考えられていたため、社会主義国家建設を推進する中で次第になくなっていくものと考えらえれていました。つまり、ウォッカ製造を担う地主・ブルジョワが追放されるので、プロレタリア民衆の自発的な健全文化の発展がなされるし、仮に密造酒が作られても計画経済の網の目の中で摘み取られるはずだ、というスーパー楽観論です。

しかし酒の販売が禁止されたことで、家庭で作られる密造酒が急増することになります。1923年の調査によると、農家の10%が密造酒を製造し、その合計は1億リットルにもなりました。ソ連政府は密造酒の製造者を逮捕して財産を没収し、5年間の強制労働を科す布告を出しました。

結果、刑務所は囚人であふれかえることになります。モスクワの囚人の半数以上は密造酒製造者で、しかも大半が貧困層や未亡人、失業者でした。また、彼らが作った密造酒は質が悪いことも多く、闇市場に出回ったため健康被害が相次ぎました。

1925年にはソ連政府は国家による酒類の独占販売を再開せざるを得ませんでした。

一方で「飲酒は革命の敵」という建前は維持され、反飲酒のプロパガンダや教育が熱心になされました。しかし、第二次世界大戦を経てからソ連でのアルコール消費量は右肩上がりに伸び、1940年のアルコールの総販売量を100としたとき、1960年は約200、1965年は283、1970年は439、1973年は534にもなります。1964年のブレジネフ政権で大々的な反飲酒キャンペーンが展開されましたが、目立った効果は上がらず、1960年代後半にアルコール消費量は急増しています。

1985年に成立したゴルバチョフ政権も、ペレストロイやグラスノスチを施行する以前、まっさきに挙げた課題の一つが禁酒でした。

政府は1989年に酒類の生産を40%削減する一方で価格を30%引き上げ、21歳未満の青少年の飲酒を禁じました。

しかし国民は砂糖に酵母菌を混ぜ即席のウォッカを作って飲むようになり、おかげで店頭から砂糖が消え、政府の歳入が約300億ルーブリ減るだけで飲酒量はちっとも減りませんでした。

当時の禁酒令が効果がでないことを皮肉ったアネクドート(政治風刺)があります。

禁酒令を破ってウォッカで酔っぱらったイワンが、赤の広場をフラフラしていて、警官に拘束されきびしく問い詰められた。心配した友人が、出てきたイワンに聞くと、「いや、別に、単にウォッカをどこで買ったかと聞かれていたんだ」

ソ連政府の反飲酒キャンペーンはあまり効果をあげず、現在のロシア連邦政府も同じように国民の飲酒問題に頭を悩ませています。

 

5. ソ連崩壊後のウォッカの消費

40代以上の方は、ロシア初代大統領の「酔っ払い」エリツィンのことをよく覚えていると思います。エリツィンと酒に関連する話は例えば、彼に飲酒を控えるよう進言したコスチコフ報道官を船の甲板から川に突き落としたとか、訪米中に酔っぱらってホテルから抜け出し、ニューヨークの町中を下着姿で歩き回っていたのを保護されたとか、噂も含めて色々あります。

ソ連崩壊後、1992年以降ロシアでは死亡数が出生数を上回り人口が自然減し、1992年から1996年までの男性平均余命も60歳を下回りました。これはソ連崩壊後の経済的混乱によって死亡率が高まったことを現しており、死亡率の高さにはアルコールの摂取が大きな影響を与えたことが指摘されています。(詳しいデータはこちらの論文「ロシアの死亡動態再考」をご参照ください

ぼくのロシア人の友人が以前、当時の社会の悲惨さを語ってくれたことがあります。

務めていた企業をクビになり、やることがないので毎日安ウォッカを飲んで憂さ晴らしをしてるうちに体にガタがきて死んでしまったり、酒を飲み過ぎ破産してホームレスになり冬の寒さで凍え死んだり。上記の平均寿命の低さはアルコールだけが原因ではないとは思われますが、「歯車」の1つにはなったはずです。

プーチン政権成立後のロシアは経済成長を成し遂げ、特にモスクワやサンクトペテルブルクのような大都会では、塩辛い食いものを食ってウォッカを飲むような食生活は敬遠されるようになりました。ロシアでは日本食が大変な人気ですが、その理由もスシがヘルシーというイメージによります。

ウォッカも1990年代の悪いイメージがあり、都会の人はあまり飲みたがりません。ぼくの友人も、ワインやシャンパン、ビールを好んで飲み、ウォッカは飲みたがらなかったです。カクテルでもスクリュードライバーやモスコミュールといったのも飲まず、「ウォッカはリットル1ドルで買えて、ブルーカラーの人たちを本当にダメにしてしまう」と心から忌避していた感じでした。

データでも、所得が向上するとアルコール摂取量は低下する傾向があり、ロシアの経済成長に伴いアルコール消費の絶対量は低下傾向にあります。プーチン政権も引き続き反飲酒運動に取り組んでおり、過剰な飲酒による死亡率の高さや治安悪化などを問題視し、アルコール販売の規制や、課税、飲酒運転の撲滅などに取り組んでいます。

しかしまだ、特に地方でのウォッカの消費量は多く、ロシアが国を挙げて取り組まなくてはならない問題の一つであります。

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まとめ

ロシア人と言えばウォッカ、というステレオタイプはまぁ間違っちゃいないのですが、そこをほんのちょっとでも深堀ってみると、財政や慣習など様々な問題が分かってきます。今回は触れませんでしたが、ロシア人の生活習慣、例えば脂質の多い食事と肥満、そもそもの寒冷な気候への対応、など環境面での要因もあります。寒すぎるから強い酒を飲んであったまる、というやつです。同じように寒いフィンランドやスウェーデンでもウォッカや類似の蒸留酒が愛されているので、環境面は無視できないでしょう。

いずれにしても、ロシアの国家はウォッカにある意味で支えられ、しかし悪い影響も多大に受けてきた歴史があります。ウォッカ自体は、品質の良いものは美味なお酒なので、個人的にはロシア人がウォッカを好きすることもなく、嫌いすぎることもなく、適量を適度に楽しむ習慣が根付くようになればいいな、と思うのですが、ロシアの左党からすると「余計なお世話」かもしれません。

 

参考文献

"歴史的ヴォルガ : ヴォルガがロシアの川となるまで"  三浦 清美 北海道大学 スラブ・ユーラシア研究報告集, 4, 1-23 文化空間としてのヴォルガ. 望月哲男, 前田しほ編  2013年3月

「概説西洋社会史」 野崎 直治 編 有斐閣 1994年11月20日初版第一刷発行

「ソ連における飲酒・麻薬・売春との闘い:ペレストロイカと法」 森下恒男 神戸法学年報4:1-86 1988年

ロシアのユ-モア 政治と生活を笑った三〇〇年 (講談社選書メチエ) 川崎 浹 2015年7月1日発行

"ロシアの死亡動態再考" 雲 和広 経済研究VoL63, No.2,Apr.2012

 

参考サイト

"迷宮ロシアをさまよう 今こそ「ロシア人とお酒」についての真実を語ろう" Globe Asahi 2019年4月9日

"ロシアのツァーリたちと酒:何をどのくらい飲んでいたか?" Russia Beyond 2020年10月21日