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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

売国奴と呼ばれる人たち:ミラン・ネディッチ

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枢軸国の傀儡となった「セルビアのペタン」

ミラン・ネディッチ(1877年〜1946年)はユーゴスラヴィア王国の軍人。

ドイツ軍のユーゴスラヴィア王国侵攻後、セルビア民族を守るとしてヒトラーに協力。傀儡政権である「セルビア救国政府」の議長を務めました。

ユーゴスラヴィア解放を目指すティトーのパルチザンと戦うも、戦闘に敗れて後にウィーンに亡命。その後イギリス軍の捕虜になり戦争犯罪人として起訴される中で1946年に自殺しました。

ヒトラーの傀儡となってユーゴスラヴィアをドイツに明け渡した売国奴という評価が一般的ですが、 セルビア民族主義の高まりを受けて「戦争の危機下でもセルビア民族の存続を図った」として再評価する動きもあり、評価を巡って議論がある人物でもあります。

 

 

1. エリート街道まっしぐら

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民族の英雄の血を受け継いだネディッチ

ミラン・ネディッチは1878年、セルビア公国の首都ベオグラードの郊外グロツカの生まれ。

セルビアは14世紀後半からオスマン帝国の支配下に入っていましたが、1804年の豚商人カラジョルジェ・ペトロヴィチの起こした第一次セルビア蜂起と、同じく豚商人ミロシェ・オブレノビッチによる第二次セルビア蜂起の結果、 オスマン帝国を宗主国とする半独立国家となっていました。

※第一次・二次セルビア蜂起について詳しくはこちらの記事をご覧ください。

reki.hatenablog.com

ミラン・ネディッチの生まれた1878年、セルビア公国はオスマン帝国からの完全独立を宣言し、蜂起を指揮したペトロヴィチ家とオブレノビッチ家を国王としたセルビア王国として再出発をすることになりました。

ネディッチの父は地方の行政官で母は学校の教師。

父はセルビア蜂起でオスマン軍からチョケシアの村を守ったダムヤンとグリゴリエの兄弟の家系。

母の祖父は民族詩人ニコラ・ミハイロビッチで、独立の父カラジョルジェ・ペトロヴィチの盟友。

ミラン・ネディッチにはセルビア民族のために戦った熱い男たちの血が流れていました。

 

異例のスピード出世

ネディッチは高校を卒業後、18歳でベオグラードの陸軍士官学校に入学し優秀な成績で卒業。その後参謀学校で学んだ後に、セルビア王国軍に入隊しました。

よほど優秀だったのか、1910年には早くも少佐に昇進。1912年のバルカン戦争で獅子奮迅の活躍をして幾つかの勲章を授与して中佐に昇進。第一次世界大戦では王国軍のアルバニア撤退を指揮しまたも大活躍。その功績が評価され、異例スピード出世で大佐に抜擢されました。38歳での大佐の就任は「セルビア王国軍最年少の大佐」でありました。

1918年には第3軍の指揮官となり、翌19年にはクロアチア駐在の第4軍の指揮官も兼務。1930年に陸軍将軍になり、1934年にはユーゴスラヴィア王国軍全体の指揮官に就任しました。

 

2. ユーゴスラヴィア民族問題

セルビア王国は第一次世界大戦後、解体したオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったクロアチアとスロヴェニアを吸収し、「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国)」となっていました。

セルブ=クロアート=スロヴェーン王国では首都がベオグラードに置かれセルビア人が政府を中枢を支配。セルビア人を中心とする中央集権的な南スラブ国家化の推進が進んだため、民族自立を望むスロヴァニア人とクロアチア人は反発。クロアチア共和農民党を指揮するスチェパン・ラディチはクロアチア人の自治を求めて活動しますが、後に政権内のモンテネグロ人に議会内で撃たれ殺されてしまう。

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ラディッチ殺害を受けて政治的危機が起こることを理由に、1929年に国王アレクサンデル1世は憲法を停止し国王親政を宣言し、国名を「ユーゴスラヴィア王国」に変更。絶対的な権力を握り中央集権化を進めますが、クロアチア人の反発は根強く、1934年にアレクサンデル1世は外遊先のフランスで過激派に暗殺されてしまいました。

国王を継いだのはアレクサンデル1世の長男ペータル2世でしたが、幼かったため従兄弟にあたるパブレ・カラジェルジェヴィチが摂政に就きました。

セルビア人とクロアチア人の対立は続きますが、国外に目を転ずるとドイツではナチスが政権を握ってユーゴスラヴィアへの進出の機を伺っており、これ以上の内部対立はナチスに「クロアチア人保護」を名目にした政治介入を招く恐れがある、と摂政パブレは考えました。

1939年、パブレはドラギシャ・ツヴェトコヴィチを首相に就任させ、クロアチア農民党のヴラトコ・マチェクと「ツヴェトコヴィチ・マチェク合意」を締結させ、クロアチア自治州と議会の設置を認めました。ネディッチも陸海軍代表として、合意へのサインを行っています。

 

3. 枢軸国軍のユーゴスラヴィア侵攻

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揺れる対外政策

1939年9月にドイツがポーランドに侵入し第二次世界大戦が勃発。ドイツとイタリアはバルカン半島に対する圧力を高め、ユーゴスラヴィアの政治勢力はドイツ協力派とイギリス協力派とに分かれて議論が続いていました。

ナチス・ドイツやイタリア・ファシストはクロアチアの民族主義団体ウスタシャの指導者アンテ・パヴェリッチなどの過激派民族主義団体に支援を行っており、彼らは枢軸国をユーゴスラヴィアに引き入れて解体し、民族独立国家の樹立を目論んでいました

そんな中1940年11月6日、ネディッチは摂政パブレに「ナチス・ドイツとの対決の非協力」を理由に、軍の司令官の任務を罷免されてしまいました。当時摂政パブレは、ユーゴスラヴィア国家維持のために、イギリスの協力を求める考えでいたようです。

ところが、同月に隣国のハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアが日独伊三国軍事同盟に参加(翌年3月にブルガリアも参加)。周辺の国を枢軸国で囲まれてしまいました。

ここにおいて摂政パブレは方針を転換。枢軸国の侵入と王国の解体を阻止するため、1941年3月25日に三国軍事同盟に加わる決定を下しました。

ところが、これに対しベオグラードでは大規模なデモが起き、イギリスに支援されたユーゴスラヴィア国軍によるクーデータで摂政パブレは追い落とされ、17歳のペータル2世のが実権を握りました。ペータル2世はイギリスがユーゴスラヴィアを守ることを期待したもののそれは叶わず、4月6日に枢軸国軍がユーゴスラヴィアに侵入するに至りました。

 

枢軸国軍の侵入

ドイツ軍、イタリア軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍、アンテ・パヴェリッチのクロアチア軍が同時に多方面から侵入。ユーゴスラヴィア軍は各地で敗退を重ね、わずか12日間という短い間で全土は枢軸国軍によって占領されました。ネディッチも第3軍を率いて抵抗しますが、ドイツ軍に投降しました。

占領されたユーゴスラヴィアは解体され、ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリーに領土が割譲された他、民族主義者によって枢軸国の傀儡政権であるクロアチア独立国(濃い茶色部分)とモンテネグロ王国(薄い緑部分)が成立しました。

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占領を指揮したドイツ国防軍のハインリッヒ・ドゥンケルマンは残されたセルビア人の領土の治安維持を託せる人物として、ネディッチに接触。ネディッチはこの提案を受け、1941年9月1日にラジオ・ベオグラードで「セルビア人を救うために」ドイツ占領下の臨時政府・セルビア救国政府の設置を宣言しました。

セルビアの領土は上記図で言うところの、中間のグレーの部分。

えげつないほど領土を割譲されていますね……。

 

4. ネディッチ首班の「セルビア救国政府」

枢軸国軍のユーゴスラヴィア占領が始まってから、大きく2つの抵抗組織が存在しました。1つがティトーが率いるパルチザンで、もう1つがドロジャ・ミハイロビッチが率いる旧ユーゴスラヴィア王国残党軍のチェトニック。亡命した国王ペータル2世は、国外からチェトニックを支援し抵抗運動を繰り広げました。

ドイツ軍はこれらの抵抗運動のために軍や警察の人数を割くことができず、ネディッチ指揮下のセルビア国家防衛隊とセルビア義勇軍に武器を与えて治安の維持に当たらせました。セルビア義勇軍は初期の頃は右翼のセルビア国家運動のメンバーが担い、ナチスの占領政策に貢献しました。救国政府下でのセルビアは、ナチス的な文脈のプロパガンダがなされ、反共・反ユダヤ、反フリーメーソン、セルビア民族主義が喧伝され、治安維持と称した赤狩り、ユダヤ人狩りが行われることになったのでした。

一方でクロアチア独立国領内やドイツ占領下など旧ユーゴスラヴィア領内では、セルビア人がドイツ軍やクロアチア民族主義者によって土地で家や財産を奪われ、暴行・殺害される事件が相次ぎました。

ネディッチはこれらのセルビア人難民の多くを受け入れ、ドイツ側に迫害をやめるように再三要求しましたが、各地で高まった民族主義と排外主義の高まりは蛮行を止ませることはなく、戦争中30万人のセルビア人が殺され「ドイツ人1人の死につき100人のセルビア人が死んだ」と形容されました。

セルビア救国政府はその権限の多くをドイツ人によって握られており、ネディッチは「お飾り」にすぎず、彼自身はセルビア人の命と財産を守ろうと腐心しますが止めることができなかった。

そのためセルビア人の多くは、武力でドイツに抵抗するティトーのパルチザンへの支持を高めていきました

 

5. 政権崩壊、処刑

旧王国軍であるチェトニックは元々連合国からの支援を受けていましたが、次第にセルビア救国政府と協力してティトーのパルチザンと戦うようになっていました。

ヒトラーは傀儡にすぎないネディッチが力を持つことを望まず、チェトニックに支援してパルチザンとの戦いに当たらせようとしました。

ネディッチは激怒し、1944年2月に9ページも渡る「意見書」をドイツに送りつけています。ドイツ軍の過度な干渉、コストの増大、やまないセルビア人への迫害、そして救国政府の権限の少なさ、あろうことかチェトニックにより多くの力を与えようとしていること。しかしこの意見書は当然ながらドイツ側に無視されました。

その間にもパルチザン勢力は日増しに勢力を強めて各地を「解放」していく。

1944年8月20日、ネディッチとミハイロヴィチは会談し、パルチザンに対抗するためより多くの武器の供給をドイツに求めるよう一致し、その旨をドイツに伝えました。しかしドイツから与えられた武器はほんのわずかしかなかく、セルビア国家防衛隊とチェトニックはパルチザンの攻撃を抑えきれず、10月4日に首都ベオグラードが陥落

まもなく東部からソ連軍が侵入し、セルビア国家防衛隊とチェトニックは国外に逃亡。ネディッチもオーストリアに逃亡しました。

1946年1月、ネディッチはイギリス軍によってティトーのユーゴスラヴィアに引き渡され獄中で尋問を受けていました。

ところが2月5日に新聞が「ネディッチが看守の目を盗んで窓の外に飛び降りて死亡」と報じました(他殺説あり)。

プライドを守るために、自ら死を選んだのでしょうか。

 

 

まとめ 

ユーゴスラヴィア連邦の末期、かつてユーゴスラヴィア王国が経験したように民族自決を求めた声が強まり、スロヴェニアの独立を皮切りに次々と構成国が独立。

2006年に最後まで連邦に残っていたモンテネグロが独立し、とうとうバラバラに分裂するに至っています。

各地で民族主義が高まる中、ユーゴスラヴィア連邦では「ドイツに協力した最悪の売国奴」と 非難されていたネディッチも、「セルビア人を救おうとして失敗した悲劇の人」のような文脈で語られるようになっていったようです。

セルビアの学問の権威であるセルビア科学芸術アカデミーには「最も偉大なセルビア人100人」の中にネディッチの名前がエントリーされているそうです。

また国内の政治勢力の中には、ドイツとたびたび衝突したネディッチを「反ナチス」として評価しようとする動きもあるらしく、救国政府下でユダヤ人狩りが行われたことは意図的に無視されています。

こうして当時の複雑な政治状況を追ってみれば、彼を単純な売国奴として非難することもできないし、かといって正当化もできない。まことに複雑です。

ミラン・ネディッチの人生は国家と民族のために自ら矢面に立ってふんばり、無力ながらあがいて散っていった、男の悲哀のようなものを感じます。

 

参考文献

Милан Недић — Википедија, слободна енциклопедија

Max Brym, Die serbischen Tschetniks einst und jetzt, Anmerkungen zur Geschichte der serbischen Rechten

Kingdom of Yugoslavia - Wikipedia, the free encyclopedia

Government of National Salvation - Wikipedia, the free encyclopedia

 

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