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阻止された5つの共産主義革命・その失敗の理由

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なぜこれらの共産主義革命は失敗したか

20世紀は戦争の時代であると同時に、革命の時代であります。

ロシア革命に始まり、中国内戦、インドシナ戦争、キューバ革命など、ソ連の組織的な支援を受けて次々と赤化していき、それを食い止めるためアメリカを始めとした西側諸国は世界各地にカネや武器をばら撒いていきました。

アメリカの支援にも関わらず革命政権が樹立されるがその後の内政がマズくて崩壊していったケースが多いような印象を受けますが、実は途上で革命が阻止されたケースもあります。

ということで今回は、20世紀の「失敗に終わった共産主義革命」を集めてみました。

  1. フィンランド内戦(1918年)
  2. ハンガリー・ソヴィエト共和国(1918年)
  3. バイエルン・レーテ共和国(1919年)
  4. グレナダ・ニュー・ジュエル運動(1973年)
  5. エルサルバドル内戦(1979年)

 

 

 1. フィンランド内戦(1918年)

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失敗に終わった初の共産主義輸出の試み 

フィンランドは18世紀からロシアの影響下に置かれ、1905年にはロシアの直轄領に組み込まれていましたが、1917年にロシア革命が起こり帝政ロシアが崩壊すると独立を宣言。 ソ連政府もそれを追認しました。

しかし独立後フィンランドは政治・経済ともに安定せず、食糧不足や高い失業率など人びとの不満は高まっていました。労働者や小作農はソ連のような革命を目指して赤衛派を組織。一方、富裕層や有産階級は白衛派を組織しました。

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1917年10月、右派は議会での絶対多数を獲得し、左派の追放を決定。それに対し左派はストで対抗するなど両者の対立は高まっていきました。

1919年1月、赤衛軍はとうとう「革命」を宣言し、国内の労働者・農民に戦闘に参加するよう呼びかけた。一方で議会を指導する白衛派は、首都ヘルシンキを脱出しヴァーサへ移動。臨時の首都としました。

内戦開始直後は、ソ連の支援を受けた赤衛軍が白衛軍を圧倒しフィンランド南部を制圧しました。しかし、2月に白衛軍の救援依頼を受けたドイツ軍1個師団が戦闘に参加すると、形勢が逆転。4月6日に南西部工業都市タンペレが大激戦の末に陥落すると、13日には首都ヘルシンキが白衛軍によって占領されました。

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 赤衛軍最後の拠点も5月5日に陥落し、残った赤衛軍はソ連に亡命。5ヶ月の内戦の末、フィンランドは白衛軍が勝利し、初の共産主義輸出の試みは失敗に終わったのでした。

  

 なぜ失敗に終わったか

白衛軍も赤衛軍もフィンランドの独立維持という点では共通しており、赤衛軍が過度なソ連軍への依存を避けたことが理由としてあります。レーニンは初の共産主義輸出を目論んでソ連軍を送り込んでいるものの、ソ連軍は第一次世界大戦から手を引いたばかりで外国での戦いは士気が上がらず、結局7,000から10,000程度の軍勢を送るしかできませんでした。

 

2. ハンガリー・ソヴィエト共和国(1918〜1919年)

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対外戦争で自滅したヨーロッパ初の共産主義国家

第一次世界大戦に敗れたオーストリア=ハンガリー帝国では、首都ブダペストでアスター革命が発生しカーロイ・ミハーイを首班とするハンガリー民主共和国が成立しました。

しかし敗戦の混乱が続く国内の治安と経済の統制はうまくいかず、新生ハンガリー政府への国民の不満は高まっていました。 

そんな中で急速に拡大したのが、ベラ・クン率いるハンガリー共産党。

共産党は特権の廃止と国民の平等、言論の自由、無料教育、そして国境の回復を訴えてインテリ、失業者、少数民族の支持を集めました。

共産党支持者はメディアに対し過激なデモを行ったため、政府は取り締まりを強化し、ベラ・クンを始め共産党のリーダーたちを投獄してしまった。

そのニュースが伝わると国民は一層共産党にシンパシーを寄せ、政府に憎悪を募らせてしまったのでした。

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1919年3月、カーロイ大統領は政府の解散を宣言し、国民に支持の高い社会民主党単独による新政府の発足を伝えました。ところが社会民主党は、カーロイ大統領に秘密で獄中にあった共産党に連立への参画を呼びかけた。

反共だったカーロイ大統領の意志に反し、新たに発足した政府(社会民主党と共産党が合併した社会党による政府)はレーニンのモデルを模してハンガリー・ソヴィエト共和国の成立を宣言。カーロイ大統領は半年を待たずに政府によって辞職させられました。

ソヴィエト政府は従来掲げていた政策を明文化し、裁判所を廃止して革命法廷を置いて農地を国有化。「反革命」的な人物を見つけ出しては殺害する恐怖政治を開始しました。

また彼らにとって重要で国民の支持を得ていたのは、従来ハンガリーが領有していた北ハンガリー(スロヴァキア)とトランシルヴァニアの奪回でした。

政府はソ連に対しハンガリーのソヴィエト政府の成立を伝え、対外戦争の協力を打診。しかし当時内戦中だったソ連はその申し出を受けきれず、新生ハンガリー・ソヴィエト政府は単独でプロレタリア革命の輸出(という名の侵略)を行うことになったのでした。

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手始めにハンガリー赤軍は北ハンガリー(スロバキア)に侵攻。チェコスロバキア軍を駆逐し、この地にスロバキア・ソヴィエト共和国を樹立し、次いでトランシルヴァニアを解放すべく東へ軍を進めました。

ところがルーマニア軍は手強く、ハンガリー赤軍は散々に負けて首都ブダペストに向けて敗走。これを追うルーマニア軍はとうとうブダペストを占領。ベラ・クンを始めソヴィエト政府の主だった指導層はオーストリアに亡命し、ソヴィエト政府は崩壊。

その後保守派が政権を掌握し、ハンガリー王国が成立しました。

 

なぜ失敗に終わったか

タイミングが悪かったというか、もしソ連の援軍があればルーマニアを挟み撃ちできてトランシルヴァニアを奪還できたかもしれません。

仮に防衛に徹していたとしても、革命の波及を恐れるルーマニア王国の軍に敗れていたでしょうから、そもそも崩壊する運命にあったと言えるかもしれません。

 

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3. バイエルン・レーテ共和国(1919年)

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Work by Mikewazhere 

ベルリン憎しで結成された短命のソヴィエト(レーテ)政権

第一次世界大戦中の1918年10月29日、ドイツ艦隊の水兵1,000人の出撃命令拒否から、ドイツ全土で労働者の暴動が発生。ドイツ革命が勃発し、後に皇帝(カイザー)が退位しドイツ帝国が崩壊しヴァイマル共和国が成立するのですが、ミュンヘンを中心とするバイエルン王国では独自の革命が進行していました。

11月8日、独立社会民主党の党首クルト・アイスナーが「バイエルン共和国」の成立を宣言。アイスナーは純粋な穏健的な左派で、政策的には大多数の保守的な人びとに指示されるような人物ではありませんでしたが、彼は巧みにバイエルンに根強い「反ベルリン」感情を利用し支持を得ました

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1919年2月21日にアイスナーは右翼青年に暗殺されると、人びとの同情を得た独立社民党が立場を強めました。

そんな中4月6日、独立社民党のエルンスト・トラーによって革命が発生。ミュンヘンからバイエルン政府は駆逐され、ソヴィエト政権であるミュンヘン・レーテ共和国が成立しました。バイエルン政府は北部バンベルグに逃れ、バイエルンは内戦に突入。

一時バイエルン政府はレーテ共和国を倒しましたが、4月13日に再びレーテ共和国が復活。これにはソ連で革命を経験していた革命家が賛同しており、レーニンもハンガリーに次ぐ2番目の共産主義輸出に力を入れていたそうです。

ところがこれを聞きつけたベルリン政府は国軍と義勇軍合計6万を率いてバイエルンに侵攻。3日であえなく全土は制圧され、レーテ政府は崩壊しました。

 

なぜ失敗に終わったか

もともとバイエルンは保守的で、共産主義を受け入れるような土地柄ではありませんでした。にも関わらず独立社民党が力を持ったのは、根強い「反ベルリン」感情を煽ったからで、遅かれ早かれ崩壊したに違いない脆弱なものでした。実際この後バイエルンは右傾化し、後にヒトラーによってミュンヘン一揆が起こさせるに至ります。

 

4. グレナダ・ニュージュエル運動(1973年)

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アメリカの介入で崩れた革命の夢 

1974年にイギリスより独立したカリブ海の小国グレナダは、外国資本と癒着した首相エリック・ゲーリーとその一族によって国が支配され格差が拡大していました。政府への反対運動は秘密警察によって監視され、独裁・恐怖政治によって島が支配されていました。

1979年、野党だったニュー・ジュエル運動のリーダー、モーリス・ビショップはクーデーター的に国会を掌握し、国外にいたゲーリーを罷免。首相に就任し、グレナダ人民革命政府(PRG)の成立を宣言しました。

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Work by Häßler, Ulrich

PRGは憲法を停止し議会を解散させる一方で、福祉や教育、医療の充実に力を入れ、農場を国有化し集団農業を取り入れました。国の経済は停滞しましたが、ビショップの政策は国民に幅広く支持されたそうです。

対外的には、ソ連やキューバなどの東側諸国に接近し、近隣の大国アメリカと敵対。

ドナルド・レーガンは「強いアメリカ」を掲げ1981年に大統領に当選しましたが、「裏庭」のカリブ海にキューバ以外に親ソ政権が存在することに反対し、あからさまに対決姿勢を強めました。対するグレナダもキューバから軍事顧問を受け入れたりなど対立を深め、同じカリブ海諸国の警戒感を強めることになりました。

そんな中、1983年10月14日にビショップは副首相バーナード・コードと彼を支持する軍によって軟禁され処刑されてしまう。コードは革命軍事評議会政府(RMC)を成立させ、PRGの支持者と戦闘状態に突入。

事態が緊迫する中、10月25日にアメリカ軍とカリブ諸国軍がグレナダに侵攻

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アメリカは特殊部隊を中心に約7000名、カリブ諸国からは約350名が参加。

一方のグレナダ側はグレナダ兵約1500名に加え、キューバ兵約700名、ソ連・北朝鮮などからの軍事顧問団が駐在していました。

戦闘は数日続きましたが、アメリカ軍の圧倒的な軍事力にグレナダ側はあちこちで圧倒され共産グレナダはここに崩壊。その後アメリカ軍とカリブ諸国軍により監視のもと、親米のハーバード・ブレイズ政権が成立しました。

これに反発したソ連を始めとした東側諸国は、翌年にロサンゼルス・オリンピックをボイコットしました。

 

なぜ失敗に終わったか

冷戦中の複雑な国際関係が多分に絡んでおり、グレナダ一国のみの問題ではないです。

強いて言えば、アメリカが虎視眈々と介入のタイミングを見計らっていたタイミングですら一枚岩になれずに内部闘争をしていた共産グレナダの危機感の薄さに問題があったでしょうか。

 

5. エルサルバドル内戦(1979年)

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アメリカの露骨な介入が招いた地獄の内戦 

1970年、移民や経済、国境問題で険悪状態にあった中米エルサルバドルとホンジュラスが、サッカーW杯予選の試合をきっかけに戦闘に突入。エルサルバドルは戦争を優位に進めますが、すぐにOAS(米州機構)の介入で停戦しました。

※サッカー戦争について詳細はこちらの記事をご覧ください。

reki.hatenablog.com

この戦争の結果、エルサルバドルとホンジュラスの交流は断絶され、ホンジュラスで働く30万人以上のエルサルバドル労働者が本国に送還されてしまいました。

加えてホンジュラスはエルサルバドル産の製品の多くを消費していたのに、経済交流が絶たれたことでモノが売れなくなり、エルサルバドルはすっかり不況に陥ってしまいました。

エルサルバドル政府はこの事態に対応しきれず、経済は振るわずに失業率は増え治安が悪化。労働者や学生は団結し左派運動が盛んになるも、軍や警察はこれを徹底的に弾圧。 1978年〜1979年だけで687名の市民が殺害(1796名という説もある)されました。

1979年、ニカラグアでサンディニスタ民族解放戦線が親米バティスタ政権を倒したのに次いで、10月にカルロス・ロメロ政権が左派革命軍のクーデターによって転覆。エルサルバドル革命暫定政権が発足しました。

アメリカはこれを深刻に受け止め「第二のニカラグアの誕生を阻止」すべく、エルサルバドル政府軍や右派民兵に大規模な資金援助を実施。右派勢力は治安維持の名目で左派を含む民主勢力をあらゆる手段を用いて弾圧。非人道的な虐殺事件がそこかしこで発生しました。エルサルバドル徹底支援を決めたアメリカはこの右派勢力の非人道的行為を無視したのでした。

これに対し、ソ連やキューバ、ニカラグアなど東側陣営は左派民兵ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)に資金援助を実施。ゲリラ戦を中心に右派のテロ攻撃に対抗しました。

泥沼の戦争は1992年まで続き、エルサルバドル内戦は米ソの代理戦争の様相を呈していました。

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Photo by Linda Hess Miller

1982年の選挙で暫定政権から民政移管がなされ、アルバロ・マガナ大統領のもとで政府と革命勢力の連立政権が発足するも、右派のナポレオン・ドゥアルテ(アメリカの支援を受けていた)が革命勢力との妥結に反発し離党。

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Photo by  Bogaerts, Rob / Anefo

1984年そのナポレオン・ドゥアルテが右派・民族主義協和同盟(ARENA)を率い大統領に就任し、FMLNとの対話が成立するも、右派は対話の影で左派の弾圧を継続しており、和平はまとまらずに内戦は続く。

結局和平が成立したのは1992年。

ソ連が崩壊しFMLNへの資金援助が困難になり、合法政党として政治活動で政権を奪取することに政策転換。選挙で右派・民族主義共和同盟(ARENA)を中心とするカルデロン政権が発足しました。

内戦は75,000名以上の死者を出し、右派の勝利に終わったのでした。

 

なぜ失敗に終わったか

ナショナリズムを煽って後先考えずに戦争に突き進むとロクなことがない悪い見本だと思います。

加えて、大国アメリカの右派への支援と、ソ連の崩壊に伴う左派の政策転換が原因といえるでしょうか。しかしまあ、何ともいえず胸糞悪い展開です。

 

 

まとめ

20世紀の中期には成功した共産主義革命はたくさんあります。

ティトーのユーゴスラヴィア解放、中国革命、 キューバ革命、ベトナム統一、ニカラグア革命などなど…。

ざっと見る限り、特に前期と後期に失敗している例が多くあるように見受けられます。今回挙げた他にも、ドイツ、スペイン、エチオピア、ペルー、ネパールでも共産主義革命が失敗しています。失敗の要因は数多くありますが、大親分のソ連の介入の度合いが革命の成功のカギを握っているのではないかと思います。

前記も後期も、経済不振・政局不安で足元の安定もおぼつかなかったから積極的に対外支援ができなかったことで、共産主義革命を広げられなかった。

一方で中期は経済も政局も比較的政権安定していたから、積極的な対外支援ができて大きく共産主義革命を広げることに成功した。

他に要因は数多くありますが、「共産主義ブロック」という一つの集合体の発生と繁栄、そして衰退という一連の流れで俯瞰すると分かりやすいものにならないでしょうか。

 

参考・引用

Finnish Civil War - Wikipedia, the free encyclopedia

Hungarian Soviet Republic - Wikipedia, the free encyclopedia

Bavarian Council Republic - Wikipedia, the free encyclopedia

New Jewel Movement - Wikipedia, the free encyclopedia

グレナダ侵攻 - Wikipedia

Salvadoran Civil War - Wikipedia, the free encyclopedia

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