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【世はまさに世紀末】中国民衆が悪党支配に立ち向かう時

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悪政に立ち向かう自警団組織はいかにして生まれるか

黒澤明監督の「七人の侍」では、野武士の襲撃に苦しむ村人たちは町に出かけ、7人の浪人を雇って村の防衛を委託しました。

何で浪人を雇わなくてはいけなかったかというと、あの時代は行政機能が麻痺していて、政府が無法者を取り締まる力がなかったからです。自分たちの力で自分たちの身を守るしかなかった。

農民たちも武器を持って野武士に立ち向かいますが、戦闘の指揮を執っていたのは浪人たちでした。指揮官が上につくとキビキビと戦うのはいかにも日本人らしいです。

所変わって中国。

辛亥革命で清王朝が崩壊した後、中国は各地の軍閥が群雄割拠する戦国時代に突入します。同じく政府が民衆を守ってくれなくなった時代、中国の民衆は独自に自警団を組織し、自分たちの身を自分たちで守ろうとしました。

華北に出現した「紅槍運動」を例に、中国民衆の自警団組織の発生と展開についてまとめていきます。

 

 

1. 軍閥割拠時代に誕生した「紅槍会」

紅槍会運動は1910年代、北洋軍閥が華北平原を割拠し互いに抗争を続けた時代に始まり、国共内戦が終わった1940年代後半まで見られました。1930年代前半に戦闘が小康状態にあった時には運動は沈静化したかに見えましたが、日中戦争の勃発で再び姿を表しました。

 

1-1. 目的 

紅槍会の目的は「軍閥による過度の収奪や、土匪や盗賊による略奪から村を守ること」です。

袁世凱政権の崩壊後、華北の各地域は地方軍の軍閥が軍事・財産権を掌握して割拠し、お互いの領土を奪い奪われの抗争が続けられました。

よく知られる軍閥は、馮国璋の直隷派、段祺瑞の安徽派、張作霖の奉天派があります。

これらの軍閥は戦費や食料の調達のために村に過酷な税を課し、また勝手に軍票を発行して男たちを村から狩り出して兵士や人夫として働かせたりしました。

さらには盗賊化した難民の襲撃があったり、戦闘に巻き込まれて村や田畑が被害にあったり、まぁ真面目に働くのが馬鹿らしくなるほどヒドい時代です。

このような外部からの破壊的圧力に対する自衛手段として、紅槍会のような自警団組織が民衆の側から自然発生してくるわけです。

 

1-2. 自警団の拡大

当時の新聞にはこうあります。

県内1300余村では紅槍会の学塾のない村はなく、村ごとにそれぞれ5〜60人から100〜200人の12、3歳から40余歳にいたる村民が紅槍会の術を学んでいる。全県で2万人以上に登る会徒は、昼は登板によって交替で、夜はそろって見張り番に立ち、1つの村で警報のドラが鳴らされれば、他の村人も一斉に出動して土匪を攻撃したために、土匪は農村部から姿を消した。

この勢力を治安維持に利用した官庁は、紅槍会という名称を民団と改めるように指示したため、紅槍会の集会場所になっていたすべての廟の門には今では「第何番民団」と書かれた大きな紅旗が立てられている。

上記の内容から、自警団は民衆の側からの自発的な活動で、それを行政が利用して「指導」している様子が伺えます。

ところが紅槍会は中央政府に従順だったわけではなく、政府が彼らにとって不都合な命令を下したときには反旗を翻して正面から公権力とぶつかる組織へと変貌しました。

1926年、紅槍会は河南省督軍維峻指揮下の国民第二軍を攻撃して大打撃を与えています。

紅槍会は政府の軍隊や軍閥を追い出して、無政府状態となった農村を取り込んでいき、1926年前半には河南省のほとんどを掌握してしまいました。

 

1-3. 紅槍会会規

紅槍会の会規なるものが存在します。

これは北洋政府の下で河南省長を務めた王印川に招かれて北京を訪れた紅槍会の代表十数名が、攻撃的傾向を強めた運動を「正軌」に引き戻そうとして制定したもので、運動の本来の目的を表していると言われています。

 

第一条 本会は武装団体として人民による自衛自治を実行し、人民が仕事を楽しみ平和に暮らせるようにすることを宗旨とする。

第二条 本会会員は以下の公約を守らねばらならない。

(一)親に考を尽くし年長を尊敬する

(ニ)郷里では皆和やかに暮らして国を愛する

(三)信義を守る

(四)患難は相共にする

(五)公を重んじ法を守る

(六)悪事をしない

第三条 本会は自衛自治の障害を排除するために以下の職務を実行する。

(一)土匪を殲滅する

(ニ)悪軍を殲滅する

(三)悪税の増微を拒絶する

(四)貧官汚官ならず者暴徒を処罰する

 

伝統的な中国農民社会の再建と、秩序の回復がその目的にあることが見て取れます。

それを脅かすものは「悪」であり、盗賊だろうが公権力だろうが、それを力づくで排除する、というものがその趣旨です。ただし、「公を重んじ法を守る」ともあり、正しい権力の支配がなされればそれに従うのは正しいことである、ともされています。

 

1-4. 組織の形態

紅槍会は統一した組織形態があるわけではなく、全体を統括するリーダーもいなく、それぞれの地域の社会状況に応じて自然発生的に出来たものでした。

そのため地域によって組織形態も組織のルールも微妙に異なる。

組織の最小単位は村で、必要によって周辺のいくつかの村を統合して防衛組織を作ることもある。

防衛組織を物理的に束ねたのは土着の地主や支配層で、彼らが組織の庶務や財務、防衛計画を担当し、村々から戦闘に参加可能な男子を徴用する。

宗教的儀礼・武術教練に当たったのは他地域から招かれた「法術」「武術」の専門家で、彼らが村人に軍事訓練を施し、宗教儀礼を行うことで「気合い」を入れる。

宗教儀礼とは具体的には、儀礼を行うことで「刀や槍を跳ね返す体を得る」というものです。

 

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2. 「孫悟空よ!オラに力をくれ」

紅槍会に入会すると、「無敵の体」を手に入れるための様々な訓練や秘儀が行われます。

西北軍の軍人として紅槍会と交戦した劉汝明によると以下のとおり。

広く徒衆を集めて、武芸の訓練を行い、修練の済んだ頃に、香を焚いて叩頭すると、「神」が乗り移り、気の狂ったように踊り叫ぶ。

彼らの奉ずる神はいずれも小説戯曲中の人物で、孫悟空・猪八戒・楊六郎・穆桂英や「三国志演義」の中の五虎上将(関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠)、さらには「施公案」の黄天覇などまで含まれていた

これらの「神」の出現を請う人は、どんな「神」であれそれが体に乗り移るや、たちまち行動や言葉使いがこれらの「神」の舞台上の動作を模倣したものとなり、言辞も唱戯のせりふのようなものになる。しかし言葉の順序が滅茶苦茶で、何を言っているのか聞き取れない。

「神」が乗り移れば「刀槍不入」になるなどと言う。私は、こうした神がかりになった人を見たことがあるが、彼らは刀の峰やこんぼうで自分の背中を乱打し、打った部分の皮膚が赤く腫れた後なお力任せに打ち付けても、まるで少しも痛みを感じていないように見える。

儀式を行えば、体に西遊記や三国志演義などの小説のキャラクターが乗り移って、

「うおっ!やべえ!オレ超最強!」的な高揚感を得ていたようです。

 

3. 紅槍会の拡大と抵抗運動

さて先述の通り、 紅槍会の当初の目的は、伝統的な農村社会の維持と秩序の回復でありました。ところが1926年後半から急速に攻撃的性格を帯び始めます。

まず、河南省を抑えていた軍閥・直隷派の軍勢が紅槍会ら在郷武装勢力によって縮小。

さらに北から張学良の奉天軍と張宗昌の直魯連軍が南下し、直隷派が河南省の大部分から撤退。河南省は無政府状態になり、その権力の空白地帯を紅槍会が埋めることになりました。

これまで土着の農民で構成されていた組織に、難民・流賊・盗賊・ゴロツキなど、土地に生産基盤を持たない流動的生活集団が大量に参加し、彼らの爆発的な攻撃力が河南省全体を紅槍会の支配が覆うことに貢献したのでした。

 

紅槍会が権力を握った結果

元々村の自警団として出発した紅槍会が権力を握った結果何が起きたか。

まず権力のバックボーンにある伝統的な中国農村秩序が拡張されて支配地に適応されることになりました。

学校や西洋の学問など、中国の伝統と相容れない知識や施設は破壊され、廟や神像があちこちに作られてシャーマンのような民間信仰で溢れてしまった。

次に、外部権力に対し攻撃的・戦闘的な組織になった

問題は余剰人員。会が拡大するにあたって腕っ節ばかり強いゴロツキどもを大量に抱え込んだわけですが、土地はもう一杯で彼らに新規で田畑を与える余裕はない。放っておいたら社会不安の種になるから、ゴロツキどもを外に追いやって対外戦争をやらせておくわけです。

最後に、リーダーたちが大衆扇動的になった。

これは二番目と絡んでいるのですが、攻撃を外に向かわせるためには大衆を高揚させ、戦闘意欲を煽る必要がある。

従来は村の習慣法で、演劇の上演の回数や品目は決められていましたが、しきたりを破って年に5〜6回も上演されるようになりました。演劇を通じて大衆の戦闘気分を高め、爆発力をさらなる拡張につなげていこうとしました。

 

ところが、このような状態が長期化するにつれ、民心の離反が起こり始めます。

戦闘が長期化して厭戦気分が高まる。男手不足がたたり農業不振が続く。組織が内部分裂し内輪で戦い始め混乱に拍車をかける。

 

5. 為政者の取り込み、共産党の暗躍

1928年春、復活した河南省政府主席の馮玉祥率いる旧国民軍(旧直隷派)と、奉天軍・直魯連軍の戦争は最終局面に入り、 紅槍会組織はそれぞれの利害関係にもとづいて、ある者は旧国民軍、ある者は奉天軍、ある者はいずれにも与しない、といったふうに軍閥戦争に参加していました。

おびただしい数の民衆が死傷し、農民は紅槍会が動員する戦争を嫌がり、生産活動と治安の回復を求めるようになりました。

先述の「紅槍会会規」は、こういう状況下で提出されたもので、元々志向していた農村の秩序回復に回帰しようとしました。

これに協力したのが、河南省の再統一をすすめる馮玉祥政権。紅槍会を指導する在郷の地主たちは馮玉祥の指導する民団化政策に参加していき、秩序は徐々に回復していきました

具体的には、紅槍会を民団として再編成し各組織に政府からの監督官の指導を入れること、民団メンバーと武器数を帳簿に記録すること、団員の再編成と役職・責任者の明確化です。

馮玉祥は紅槍会の支配時にあちこちに作られた廟や像を破壊。「迷信打破」を呼びかけ、怪しげなシャーマンや占師はことごとく追放されました。

さらに辮髪や纏足、アヘンなどの悪習を禁止し、「時代思想にそぐわない」劇の上演を禁止。代わりに「革命の趣旨にそぐう内容」の劇を上演し、民衆の再教育を行いました。

 

中国共産党も紅槍会の取り込みを図っており、かなりの数の紅槍会のメンバーが紅軍に参加して、中には幹部になった者もいるそうです。

具体的には、「地主による農民の圧迫と搾取」の劇を上演して「農民の革命意識を高め」たり、

祭礼の行事には警察は関与しないといいう民団と政府の約定を利用し、革命思想の宣伝をしたり、

廟会の祈りの時間にドラを叩いて太鼓をたたいて練り歩いて国民党軍を油断させて一気に殲滅させたり、

伝統的な中国農村の文脈を巧みに利用して、共産党の革命思想を伝達していく手段がかなり見られたようです。

この点からも、中国の共産主義はマルクスの言う共産主義思想とはまったく別物であることが分かりますね。

 

 

まとめ

自然発生的に自警団組織が生まれ、明確なトップがいないのに勢力を拡大して強大な暴力装置に発展していくのは、日本では考えられない現象です。

混沌の中から力が生まれ、権力が生じていく歴史を中国では何千年と繰り返してきました。文化大革命で毛沢東が破壊しようとしたのはこういった伝統文脈で、これを破壊することで共産党の永久支配を打ち立てようとしたように思います。

ぼくはちょっと不勉強なのでわからないのですが、現代の中国にこのような伝統的な文脈は残っているのでしょうか?

文化大革命を乗り越え、経済開放で荒れる農村にかつてのような共同体意識は残っているのか。

そして仮に中国共産党が求心力を失ってしまったら、権力の空白を代替する21世紀の紅槍会が生まれる余地はあるのか。自己防衛作用が働かず、欲望むき出しの暴力の世界になってしまいはしないかと恐ろしいのですが…

 

 参考・引用

シリーズ世界史への問い4 社会的結合 柴田三千雄 三谷考 岩波書店

社会的結合 (シリーズ世界史への問い 4)

社会的結合 (シリーズ世界史への問い 4)