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なぜイギリスにはガーデニングマニアが多いのか

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大英帝国とガーデニングの関係

イギリスの住環境は、日本の狭いアパートに住んでいる人間からしたら天国かと思うほど豪華で豊かなものです。

建築に対するこだわりもそうですが、庭やガーデニングに対するこだわりは並々ならぬものがあり、さほど大きくない家でも花壇の配置や花のカラバリなど、趣向を凝らした庭を持っていたりします。

イギリス人がガーデニングに目覚めたのは18世紀にさかのぼるのですが、植物との関係は大英帝国が世界の国々を植民地にし、その影響力を拡大していく様と並行し、イギリスのガーデニングも発展するに至ります。

今回はイギリスの帝国主義とガーデニングの切っても切れない関係見ていきます。

 

記事三行要約

  • 各地を植民地にして植物を採集・繁殖させ、工業製品に役立てようとした 
  • その過程で入ってきた外国産植物は、ガーデニングブームを起こした
  • 外国産の植物がもてはやされる一方、地味なイギリス固有植物も注目され始めた

 

 

1. 植物の貧しいイギリス

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冒頭でも述べた通りガーデニング大国であるイギリスですが、実は固有の植生はめちゃくちゃ貧しいらしい。

19世紀の園芸家J.C.ラウダンによると、元来イギリスに自生した樹木はおよそ200種で、そのうち半数はバラ・イバラ・ヤナギであるため、それを除けば100種しかない。属でくくってしまうともっと数が少なくなってしまう。

そのため、16世紀以降にイギリスが海外に進出していき、その植生の豊かさを見聞きするにつれ、熱帯や亜熱帯、地中海性気候の豊かな植物への強いあこがれを抱くようになりました。

自然は熱帯地域に、つきせぬ量のもっともすぐれた植物という恩恵をあたえた。ところが北方の住民にあたえられたものといえば、しなびた漿果、痩せこけた根があるにすぎない。かれらが、もし、なんらかの果実を手に入れるとすれば、それは忍耐と、熟練と、勤勉の結果なのである。

(「エンサイクロペディア・ブリタニカ」4.5.6版への補遺「パンノキ」の項目)

 

2. 「植物を支配せよ」

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2-1. ヨーロッパ人のライフスタイルを変えた熱帯の植物 

熱帯原産の植物は常にヨーロッパ人を魅了し続けてきました。

黒胡椒、ナツメグ、カルダモン、クローヴなどのスパイス。

コーヒー、茶、タバコ、ココア、砂糖などの嗜好品。

インディゴ、コチニールなどの染料。

これらの植物はヨーロッパ人のライフスタイルすら変えてしまい、また製造業の原料としての需要を生み出しました。そのためこれらの品物の原産地にダイレクトにアクセスすることは、すなはち富にアクセスすることでありました。

 

2-2. 植物を支配するための植民地帝国

植物は大地に根を張っているものですから、特定の環境下にある土地と切り離すことが難しい。また成長のための時間がかかるし、育成のためのノウハウも必要。

各地へ進出したヨーロッパ諸国は熱帯の植物を支配するため、これら「空間」「時間」「人」を支配する必要がありました。

土着の政治勢力や商人と協力して入手する方法もありますが、供給が不安定だし、品質もまばらである。

供給を安定的にするには、じゃあ、自分が支配してしまえばいい

すなはち、軍隊を派遣して土着の政治勢力を排除し、植民地としての政治機構を構え、人と資本を送り植物を栽培し、本国へ輸送して市場へ供給するという「植民地」の形がそこに成立するわけであります。

 

例えばオランダ東インド会社は、クローヴとナツメグの生産をアンボイナ島とバンダ諸島(現インドネシア)に厳しく制限し門外不出としました。近隣の島々でこれらの樹木が発見された場合は容赦なく切り倒したほど。こうすることで、オランダはクローヴとナツメグの供給を独占し、自由な価格設定で膨大な富を手に入れたわけです。

 

2-3. 植物の移植計画

クローヴとナツメグは死ぬほど欲しい。でもオランダ野郎にペコペコして大枚はたいて買い求めるのは胸糞悪いし、国家間関係が悪くなったら手に入らなくなる。

そこで重要植物物産品を盗んだり奪ったり分けてもらったりして、自分が抱える植民地に移植して栽培しようという計画が構想されるようになります。

このような植物の「盗難」と「移植」は昔から行われていたもので、例えばコーヒーはオランダ人が17世紀にアラブ人からこっそり盗んでスマトラ島とティモール島で栽培を始めたもので、その後アムステルダムに植えられた苗木の1本がフランス・パリに渡り、ジャマイカに植えられました。

 

2-4. 「植物を確保し、栽培せよ」

さてイギリスは国にあげて重要植物の確保に乗り出していきます。

1745年、「技術、製造業、商業の奨励のための協会(以下「勧業協会」)が設立されます。この団体は、イギリス経済が必要としている技術上の革新に対し、奨励金を出してその課題の解決を広く求めるための組織でした。

勧業協会は帝国内で自給する必要がある植物をピックアップしています。

コチニールなどの染料、ゴマなどの油脂用植物、海藻などのアルカリ、シルク・コットンといった工業原料、シナモン・ナツメグなどのスパイス、芥子・キナノキなどの医薬用植物などなど。

勧業協会はこれらの植物の種子を帝国に持込んで栽培したものに奨励金を出し、その栽培を手助けするために「植民地植物園(Provincal Garden)」を設置しました。 

 

3. 帝国各地に作られる植物園

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3-1. セント・ヴィンセント植物園の設置

ロンドンの亜麻商人ジョン・エリスは、北米植民地の医師A.ガーデンと通信して、新大陸での植民地植物園の構想を練っていました。

エリスは当初北アメリカでの植物園建設を目標としていましたがそれは頓挫し、結局1765年西インド諸島のセント・ヴィンセント島で植物園が設置されることになりました。

島の南部の渓谷に6エーカーの森林が開梱され、多種多様な有用植物が栽培されました。

染料としてログウッド、コチニール・サボテン、アーナトなど。

樹脂・油脂としてゴマ、センナ、ガルバナム、アロエ、コリアンダーなど。

食用としてマンゴー、ナツメ、アニス、ヴァニラ、ナツメグなど。

植物園の目的はこれらの有用植物を「西インド植民地に導入すること」。

主に南北アメリカで栽培されるも、スペイン人やフランス人の手にある植物を一同に集め、西インド諸島の土地に順化させて普及させることでありました。

 

3-2. 本国植物園への植物の移送

その後植民地植物園の開設は続きます。

1775年にジャマイカ、1786年にインド・カルカッタ、1789年にマドラス、1791年にボンベイ、1800年にマレー半島ペナン、1812年にスリランカ、1816年オーストラリア・シドニー、1818年にタスマニア。

拡張する大英帝国の緑辺に植物園は置かれ、各地の植物の収集・導入、栽培実験、気候順化を続け、植民地行政に協力しました。

これらの植民地植物園は有用植物の普及栽培が主目的でしたが、収集・栽培した植物を本国イギリスの植物園へ移送することも大きな任務の1つでした。

 本国に持ちこまれた植物は、初期は国王の植物園に持ちこまれて国王お抱えの植物学教授によって研究されましたが、後に植物学者や園芸家らが独自の植物コレクションを持ち、マニアックな私的植物園があちこちに出来ていきました。

 

3-3. イギリス人の庭園熱

17世紀後半から北米植民地からイギリスに北米産植物が大量に流入するようになりました。

人びとは珍しい北米産の植物をこぞって買い求め、貧しいイギリスの森林に植えて楽しむようになります。貴族やジェントルマン階級にとっては、広大な森を切り開き豪華な邸宅を建て、その周辺を色鮮やかな人工森に作り変えることが「たしなみ」であるとされました。

彼らはこぞって北米大陸産の針葉樹・灌木・花木を植えて外部の田園と一体化するような庭園デザインを行って、優雅に馬や徒歩で散策し、色とりどりの植物が織りなす風景を楽しむようになりました。

  • 植民地帝国を支える「産業としての植物栽培」
  • 貧しい本国の風景を彩る「鑑賞のための植物栽培」

がイギリス人の植物熱の根本にあるもので、2つが統合したイギリス植物文化の結晶といえるものがロンドンの「キュー植物園」であります。

 

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4. イギリス植物文化の結晶「キュー植物園」

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4-1. 世界一の植物園を作れ!

テムズ川のほとりに立つ世界遺産キュー植物園は、公式には1841年の公開ですが、もともと は王室のための極めてクローズな施設で、国王や王妃が草花を愛でるためだけにしか使われていませんでした。

この植物園の運営を任されたのが、当時クック船長の世界周航に同行し、様々な植物をイギリスに持ち帰り時代の寵児となっていた植物学者ジョゼフ・バンクスでした。

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国王ジョージ三世は、バンクスに命じてキュー植物園を世界最高の植物園にするよう命令。

さっそくバンクスは、スコットランド出身のプラントハンター、フランシス・マッソンを南アフリカ、大西洋のマディラ、カナリア諸島、アゾレス諸島、西インド諸島、北米大陸に派遣して植物の収集を行わせました。

マッソン以外にも、アラン・カニンガムがオーストラリアに、ウィリアム・カーが中国に、デヴィッド・ロックハートがコンゴに、世界中のあらゆる植物がキュー植物園に集まり、1813年にはその数は1万1000種を数えるほど。イギリスの固有種が200種ですから、その数の多さが分かります。

キュー植物園は1841年に王立から国立に移管され、帝国の科学政策の立案機関として大きな権限を与えられ、帝国内の植物の情報を収集し、それらの研究などの指示を与える中枢として機能しました。

帝国各地に作られた植民地植物園の親玉だったわけです。

 

4-2. 植物園の拡大と開放

キュー植物園の次に出来たロンドン植物園は、「農業・工業に益する植物の有用知識の普及」という高尚な目的のための設立された施設です。

この植物園では、貴族やジェントルマンたちが閲覧するための「植物目録」を発行したり、植物園で栽培される外国産の希少な種子や苗の配布を受けることができ、その収益で運営されていました。

貴族やジェントルマンたちは、苗を地元の農民に配布して栽培を奨励するという目的でも植物園に通いましたが、自分でそれを育てて楽しむ「園芸趣味」の者も数多くいました。

このような植物園は、19世紀以降イギリス各地の都市に作られていきます。

1802年にリヴァプール、1812年にハル、1817年にグラスゴー、1829年にマンチェスター、1832年にバーミンガム、1840年にリーズなどなど。

都市生活者を中心に園芸を楽しむ人が多くなってきたことが理由でしたが、その背景には急速な都市化に伴い「自然への回帰」を人びとが求めた結果でもありました。

 

5. 追憶の「古き良き農村」

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5-1. 庶民の余暇としてのガーデニング

産業革命で工業化が急速に進み、それまで田舎で農業を営んでいった者が都市に流れ込むわけですが、その生活環境は劣悪を極めました。

汚い空気。濁った水。狭く暗い家。貧しい食事。

労働者たちはかつて住んだ田舎を思いだしたのか、競って花の栽培に励むようになったそうです。

中産階級は庭だけでなく、部屋の中にも観賞用の植物を持ち込みました。

そのきっかけとなったのがウォーディアン・ケースというガラス箱。

わずかな通気を通すのみでほぼ密閉されたその箱は、最初に水を与えておけば中のシダ植物がいつまでも枯れずに生命を保つ

瞬く間にウォーディアン・ケースは人気となり、家の中に作られた「小さな世界」は、見るものを自然のノスタルジーに誘うのでした。

ウォーディアン・ケースの人気もあり、1850年代のイギリスでは「シダ」が一大ブームとなり、庭園に植えることはもちろん、家具や絨毯、食器、窓、天井など、室内の意匠のあらゆる箇所にシダがあしらえられました。

 

5-2. イギリスらしさとは何か?

シダはイギリスでそこら中で生えている植物で、畑の周辺や森林をその生命力で覆い尽くす。遺棄された家屋などはあっとういう間にシダに飲み込まれてしまう。

実利の面では、洗濯の際に焼いたシダの灰を持ちいるし、極めて生活に密着した植物でありました。

19世紀イギリスは、帝国の外に拡張して様々な植物をかき集めて帝国の経済をさらに外に膨らませる一方、内側には外国からもたらされる珍しい植物よりかつて身近だった地味な植物に心を動かされる人びとがいました。

我々は外に拡張して富を追い求めたわけだが、結局何を得られたのだ?

イギリスらしさとは何なのだろうか?

それが短絡的に、かつての「古き良き農村」への回帰と結び付けられ、ガーデニングにも「イギリスの原風景」を再現する試みが見られるようになります。

ですが、そこに使われる植物は当然のごとく純イギリス産などではなく、海外からやってきた品種か、交配によって生み出された品種でありました。

 

 

まとめ

いかに力を保持して外に威光を轟かせようと、自らのルーツを保持して、そこに立脚しないと生きられない。しかし「古きよき昔の姿」は幻想で、それは過去の一状態であり、常に状態は変わり続けている。そこに悩み、苦しみながらも歩みを続け、時には戦い傷つきあうのがヒトの歴史なのだ、ということでしょうか。

人と植物の歴史からも、葛藤の歩みが垣間見えて興味深いです。なぜかラピュタやナウシカをもう一度見たくなりました。 

 

参考文献:

植物と市民の文化 川島昭夫 山川出版

世界史への問い2 生活の技術 生産の技術 柴田三千雄,板垣雄三,二宮宏之,川北稔,後藤明,小谷汪之,濱下武志 岩波書店

植物と市民の文化 (世界史リブレット)

植物と市民の文化 (世界史リブレット)

 

 

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