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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

【お前は誰だ!】歴史を揺るがした「なりすまし事件」

ドイツ ロシア アメリカ インド イギリス フランス

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別人物になりすました稀代のペテン師たち 

小さいころ、母親がまったく別人の顔になっている夢を見たことがあります。

家族や周りの人は普通の対応をしてるけど、明らかに顔が違う。誰だこいつは!子ども心には本当に恐ろしくて、朝起きて母親の顔を確認してホッとしたものです。

これは夢だったからよかったけど、自分の肉親や王様だと名乗る全然違うヤツが現れたら、いったいどうなっちゃうでしょう。

今回は歴史上に実在した 「別人物になりすました詐欺師・ペテン師」を紹介します。

 

 

1.  偽マルタン・ゲール事件(フランス領バスク)

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 「母さん、俺だよ、マルタンだよ!」

1548年、フランス領バスク・アンダイエに住むマルタン・ゲールはささいなことで父親と喧嘩してしまい、妻ベルトランドと子供をおいて出奔してしまいました。

母親と妻は心配でしょうがなく、あちこち行方を捜しますが一向に音沙汰がない。

あきらめかけた8年後、なんと自分のことをマルタンと名乗る男がひょっこり現れた

なんか顔が変わってるけど、8年間の間にさぞかし苦労も多かったでしょうと、母親と妻は大喜びして家に向かい入れました。

それから新しいマルタンは家族とともに幸せに暮らしたのですが、妻ベルトランドに対し以前より随分優しくなったといいます。

しかし、マルタンの叔父は新しいマルタンに疑いを持っていました。

まずマルタンはバスクの方言やイントネーションを忘れていたし、以前はあんなに好きだった運動もパッタリやらなくなった。しかも先祖代々の土地を売ってカネにしようなど、バスク人ならまず考えられないようなことを言い出す。

1560年、とうとう叔父はマルタンを偽物だとして裁判所に訴えました。新しいマルタンは自分が本物のマルタンだと必死に弁護。一時はその主張が認められようとしていた。

そんな時、戦争で足を失い義足をはめた「本物のマルタン」が村に帰郷。過去の記憶や様々な証言の結果、2回目に帰ってきたマルタンが本物だと認められました。

最初に帰ってきてマルタンになりすましていた男は、アルノー・デュ・ティルという人物で、その後詐欺罪で絞首刑に処せられました。

 

2. 偽フリードリヒ2世事件(ドイツ)

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30歳も若い偽皇帝に騙されたケルンの人々 

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、第6回十字軍で戦わずして交渉で聖地を回復してしまったどえらい男で、その聡明さから民衆からは慕われた皇帝でしたが、1250年に53歳で死亡しました。

ところが皇帝の死後、ドイツ西部の町ケルンで自分のことを「フリードリヒ2世」と名乗る男が現れた。そいつの本名はティレ・コルプ。

まるでフリードリヒ2世を彷彿とさせる知識量でケルンの人たちをすっかり言いくるめてしまい、どこで知ったのか皇帝の書類まで偽造して、市の支配層まで騙してしまった。

さらに人々を驚かせたのは、「皇帝」が会ってもない人たちの名前をスラスラ言い当てたこと。ティレ・コルプは頭のいい男で、人の名前と特徴を事前に覚えておき、実際に会った時に名前を言ってみせて人を驚かせる、というトリックをやってみせたのでした。

こうして多くの人が彼を「本物の皇帝だ」と信じ、ドイツ西部の町ノイスに宮廷まで構えてしまった。

この偽フリードリヒ2世の動きに対し、本物の皇帝ルドルフはノイスの宮廷に軍を派遣し包囲しました。正規軍の登場に、偽皇帝の取り巻きはハッとなった。もし我らが皇帝が本物なら95歳のはず。しかしこの若々しさは一体…?

結局ティレ・コルプは捕まって火あぶりの刑に処せられたのでした。

 

3. 偽ピョートル3世事件(ロシア)

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農民指導者になった「偽ピョートル3世」

ドイツ出身のロシア皇帝ピョートル3世は、女帝エリザヴェータの死後に帝位につくと、七年戦争の最中にプロイセンと単独講和し軍隊を引き上げ、賠償金の請求もしませんでした。そのため前皇帝派や軍隊から恨まれ、クーデーターを起こされて、わずか6ヶ月で失脚。最後は軟禁状態に置かれ、公式には「痔の痛さで発狂死」したとされています。

ところがロシアの民衆には「ピョートル3世は実は生きている」という伝説がまことしやかに流布しており、それに乗っかって自らをピョートル3世と偽って反乱を起こしたのが、エメリアン・プガチョフでした。高校の世界史の教科書にも出てくる、プガチョフの乱の首謀者です。

プガチョフはコサックの息子で、筋肉質の体に、浅黒い肌、禿げた頭で、どこからどう見ても皇帝とは似てませんでした

けど、現状の生活に不満を持つ農民たちにとって、そういう細かいことはどうだってよかった。農奴制廃止を掲げ、宗教指導者の支持を得たプガチョフこそが、農民たちにとっては皇帝であり救世主となっていた。

1773年9月、プガチョフはすべてのコサックと皇帝エカチェリーナ2世に「皇帝ピョートル3世の元に集まる」ように呼びかけ、コサックと農民を糾合してロシア政府軍を圧倒。瞬く間にヴォルガ川とウラル山脈にまたがる広大な地域を掌握してしまいます。

ところが、露土戦争が終了しロシア正規軍を自由に動員できるようになると、反乱軍は苦境に陥る。コサックの離反も相次ぎ、結局反乱から2年後にプガチョフは捕らえられ、モスクワで公開処刑されました。

 

4. 偽インディアン「鉄色の目のコーディー」(アメリカ)

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「哀れなインディアン」の正体は… 

1970年代初頭のアメリカで大ヒットしたテレビCM「クライング・インディアン」。

これは、環境問題啓発キャンペーンのCMで、インディアンの男がゴミで荒れてしまった自然を見て涙を流すというもの。

このCMはアメリカ人の心をおおいに動かし、環境問題に対する世論は変わると同時に、CMに登場したインディアン「鉄色の目のコーディー」は一躍時の人に。テレビや映画、広告など出演を重ねて大活躍することになりました。一発屋どころじゃないですね。

そんな彼はクリー族の母親とチェロキー族の父親の元に生まれ、というのが公式プロフィールでしたが、実は彼の本名はエスペラ・オスカー・デ・コルティ。なんと100%イタリア人だった

 彼の故郷ルイジアナ州カプランの人たちは、彼がイタリア人であることを知っていましたが、辺鄙な田舎町から出た地元の英雄に誇りを持っていたため、口をつぐんでいたのでした。

ちなみに「鉄色の目のコーディー」は、1999年に94歳で死去するまで、インディアンの役をやり続けました。

 

5. ベンファイヤド・ムーア・カルー(イギリス)

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 根っからのペテン師が語る波乱万丈の人生

普通のイギリス人家庭に生まれたベンフェイヤド・ムーア・カルーは、エキセントリックというか、奇人というか、普通の人とは違う脳の構造をしていたっぽいです。

若かりし頃、諸国を放浪したカルーは一時期「乞食の王」を名乗っていました。

その後王を辞め、ほぼ毎日違う人間を詐称しながら暮らしていました。時には聖職者

、時には漁師、ネズミ捕り、精神異常者、老女(!)にまで偽装していたそうです。

ある時には貴族に偽装して、彼の家の近くに住んでいた貴族の家に行きカネを借り上げたそうです。絶対知ってたはずなのに、なんで気づかなかったのか…。

詐欺罪で2回もアメリカ行きの船に乗せられてしまいましたが、あわてず騒がず「変装」してイギリスに帰国してきました。

そのあまりの変わった経歴を買われ、1745年「ベンファイヤド・ムーア・カルーの人生と時」を出版したところ、これが大変に売れてカルーは一躍有名人になりました。

ただし公式記録では彼はずっと「塩のセールスマン」をやっていたことになっており、この本に書かれたことがどこまで本当か、まったく分からない。彼の語った人生そのものが、壮大なペテンだったのかもしれません。

 

6. 偽バワル皇太子事件(インド)

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田舎からやってきた「半裸の皇太子」

 1911年、虎ハンターとして有名だった、インド北部のバワル皇太子ラメンドラ・ナラヤン・ロイが不可思議な方法で死んでしまった。

ほぼ同時に、彼は実は田舎のほうで生きている、という噂がまことしやかに流れはじめました。ただ、確たる情報がないまま9年間が過ぎた。

そんな1920年のある日、バワルに謎の半裸男がフラリとやってきた。神秘主義者のような風貌で、見た目はまぁ怪しい。

最初の1ヶ月は特に何も言わなかったが、ある時から「自分は実はラメンドラ・ナラヤン・ロイだ」と語り始めました。

びっくりするロイの家族に対して続けてこう語った。

梅毒患者だからという理由で、私のいとこが私を殺そうと毒を盛った。しかし私は運良く生き延びた。しかも葬儀は突然降ってきた雹で中止になった。その後も続く暗殺から逃れて私は田舎に逃げたが、過去の記憶を完全に忘れてしまった。しかし私はここバワルに戻ってきて、全てを思い出したのだ!おお、我が家族よ!

このスーパー怪しすぎる物語を、ロイの家族たちは信じ込んでしまった。何でだよ!

親族の中でいくつか反対はあり、法廷で20年にも渡り領主権が争われた結果、1945年に正式に「新しいロイ」はバワルの領主と認められました。

ところがその時には既に「新しいロイ」は死んでいました。

インド、やべーわ。

 

7. 偽ロシア皇女アナスタシア事件(ロシア)

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「 はっ、そうだった、私はロシア皇女だった」

ロシア・ロマノフ王朝の最後の皇帝ニコライ2世とその家族は、1918年7月17日に革命ソ連の兵士の手によって銃殺されました。

皇帝一家の美しい娘達、オルガ、マリア、アナスタシアも殺害され、遺体はソ連によって秘密裏に埋葬されました。革命後は情報がなかなか表に出てこなく、皇帝一家が突然消えたことは確かだが、本当に殺害されたかまでしばらく裏が取れませんでした。

そのため、各地で自らのことをアナスタシアだと名乗る女が続出したのですが、その中で最も有名なのがポーランド系アメリカ人のアンナ・アンダーソン。

彼女は自殺未遂で記憶喪失しており、1920年にベルリンの精神病院に入院していました。

ある時、病院の患者や関係者らが「実はアンナはアナスタシアではないのか?」と言い出しました。そう言われたアンナは、確かに自分はロシア皇帝の娘だったということを「思い出した」

周囲の者いわく、アナスタシアとアンナは見た目が「似ている」し、どういうわけかロシア王室の諸々の知識を持ち合わせていた。

特に旧ロシア王室関係者の中には、アンナがアナスタシアだということを信じる者が多数おり、本人も自分がアナスタシアだということを死ぬまで主張し続けていました。

アンナは1968年にアメリカ国籍を取得し、アメリカ人ジャック・マナハンと結婚(彼はロシア皇女と結婚したオレはロシア皇帝だと主張していた)。

1984年に死亡するまで、アナスタシアとして支持者に昔の思い出を語ったりして、カネを受け取り暮らしていました。

1989年、ロシアで皇帝一家の遺骨が発見されて、やっぱりアンナは偽物だったことが発覚。しかし数奇の運命を辿ったロシア皇女になりきった稀代のペテン師の人生も、また数奇なものです。

 

まとめ

こうやって振り返ってみると、なんで騙されちゃうんだろうと思いますけど、

「生きていてほしい。いや、絶対に生きているに違いない!」

という人びとの強い願望が、そのようなペテン師の登場を許容してしまい、多少怪しいところでも「苦労したに違いないから…」と謎の哀れみをかけてしまう。

"Imposter"とは、それを信じる人だけに見える、「生きた亡霊」なのかもしれません。

 

参考・引用

listverse,  10 Imposters No One Should Have Believed

Anna Anderson - Wikipedia, the free encyclopedia

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