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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

【恋愛】世界史に残るドラマすぎる6つのラブロマンス

イギリス ロシア フランス ポーランド

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 愛は歴史を変える

歴史に登場する人物を語る上で、男女関係を語らないわけにはいきません。 

結婚や恋愛を機に行動や考えが変わったり、スキャンダルが国家を揺るがすほどの大事件につながったり、結果的に歴史を大きく動かす要因の1つになってきました。

日本史は源頼朝&北条政子とか、浅井長政&お市、坂本龍馬&お龍とかパッと思いつきますが、それでは世界史はどんなカップルがあるでしょう。

今回は第2弾になります。前回紹介したカップルは以下の通り。 

  • ユスティニアヌス1世&テオドラ(ビザンチン)
  • ペリクルス&アスパシア(古代ギリシア)
  • バージ・ラーオ&マスタニ(インド)
  • ウラジミル・レーニン&イネッサ・アルマンド(ロシア)
  • コルテス&マリンチェ(アステカ)
  • フェルディナント&イサベラ(スペイン)

第1弾はこちらよりご覧ください。 

 

 

1. ヴィクトリア女王&アルバート公(イギリス) 

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大英帝国のトップに君臨した「理想のカップル」

60年以上に渡って大英帝国を統治したヴィクトリア女王は、ヴィクトリア朝と称されるイギリスの絶頂期を築いた大人物ですが、彼女が生涯恋い焦がれ続けた男が、従兄弟でドイツ・ザクセン公国出身のアルバート公。

若かりし頃に一度会ったときはお互い、大して良い感情を抱かなかったようですが、1839年10月10日ウィンザー城の城の階段で再会した2人は、お互い一目惚れ。その時の思いをヴィクトリアは日記にこうしたためました。

わたしはじっと見つめた。すてきな……アルバートを

ヴィクトリアのほうが立場が上のため結婚を申し込むのはヴィクトリアからではなくてはならず、アルバートは待つしかありません。

再会から3日後の舞踏会。ヴィクトリアから送られた花束の置き場所がなく、とっさにアルバートはナイフで服に穴をあけて花を飾った。このとっさの判断に会場の人々は大いに心を動かされ、ヴィクトリアも愛の証と感じたのでした。

その夜、ヴィクトリアはアルバートを自室に呼び寄せて結婚を申し込みました。

2人は9人の子にも恵まれ、実際におしどり夫婦で有名。イギリス国民は、王室も自分たちと同じように恋愛をするのだ、と幸せな王室カップルを大いに喜んだそうです。

ところが結婚から21年後、アルバートは42歳の若さで病死。

ヴィクトリアは夫の死後ノイローゼになってしまい、10年間も公務を行えないほどでした。彼女が82歳で高齢でこの世を去る時も、アルバートの肖像画を見つめながら息を引き取ったと言われています。

 

2人の愛の物語は、当然映画化されています。

「ヴィクトリア女王 世紀の愛」

www.youtube.com

 

2. ウィンストン&クレメンタイン・チャーチル(イギリス)

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「反逆児」を影で支えた妻の内助の功

ウィンストン・チャーチルの政治人生は波乱そのもの。

内務大臣になって社会改革に努めるも、ストライキを力づくで取り締まり支持者を失ったり、海軍大臣になった際は、ダーダネルス海峡遠征に失敗したり。

その急進的な政治活動のせいで、チャーチルは国民にもっとも嫌われた政治家で、彼が歩くと腐った果物やレンガなどが飛んできたと言います。

そんな彼は人一倍繊細で、ストレスがたまると慢性的な鬱状態に陥りました。

そんな彼をいつも支えたのは妻クレメンタイン。

失敗して部屋にこもって腐る夫をいつもなぐさめてはげまし、演説の内容に助言したり、ストレス発散のためのヒントを与えたり、外で傷付いて帰って来る夫を常に支えていました。

チャーチルは実際に

わたしがこれまでやってこれたのは、妻の助力があってのことだ

とことあるごとに語っていたと言います。 

2人は手紙でお互いを「ピッグ」と「キャット」と呼び合い、クレメンタインの手紙にはいつも、様々な表情の猫のイラストが描かれていたそうです。

第二次世界大戦が勃発した1940年、チャーチルは首相に就任しその強力なリーダーシップを発揮。イギリスを勝利に導く偉業をやってのけます。

しかしチャーチルは晩年こう言いました。

わたしの最たる偉業は、妻を説得してわたしと結婚させたことだ

 

チャーチルの生涯も、映画化されております(邦訳版はないです)。

「Into The Storm」

www.youtube.com

 

3. ヴィクトル・ユゴー&ジュリエット・ドルーエ(フランス)

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当代きってのプレイボーイが生涯で唯一心から愛した女

ヴィクトル・ユゴーは18世紀フランスを代表するロマン主義の作家で、代表作「レ・ミゼラブル」は永遠に語り継がれるに違いない不滅の名作です。

そんなユゴーは当代きってのプレイボーイで、いたるところに愛人がいたし、晩年も老い衰えぬ精力で人生を楽しみ尽くした男ですが、

そんな彼が生涯で唯一心から愛し、また彼の創作と政治活動を支えつづけた女がジュリエット・ドルーエでした。ジュリエットはもともと低い身分の出で、売春婦から権力者たちの愛人になり、女優として舞台にも上がるようになった女。

ユゴーは彼女の「容姿・つややかな髪・魅力的な微笑み」と、「自分に劣らないベッドテクニック」にたちまち心を奪われました。

ジュリエットはユゴーのために女優を辞め、「楽園」と呼んだアパートにこもってユゴーの帰りをいつも待ち続けたのでした。ジュリエットはユゴーの創作活動もサポートしたし、ユゴーがルイ・ナポレオンを批判して政治犯として逮捕状がかけられると、偽造パスポートを作って彼をチェンネル諸島に逃れさせたりもしました。

身心ともにジュリエットはユゴーに捧げたわけですが、ユゴーの女遊びをとどまること知らず、ある時いい加減愛想を尽かしたジュリエットが姿を消してしまうと、

「わたしの命と魂が消えてしまった!」

と嘆きながらあちこちを探し回ったそうです。

ジュリエットは77歳で死去。打ちひしがれたユゴーは、以降ペンを折ってしまいました。

 

4. ニコライ2世&アレクサンドラ(ロシア)

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革命によって打ち壊された愛ある家庭

 ロマノフ王朝の皇太子ニコライは、イギリス・ヴィクトリア女王の孫にあたるヘッセン・ダルムシュタット公女アリックスに一目惚れした。

ニコライは皇帝に即位するとすぐにアリックスに結婚を申し込み、アリックスはアレクサンドラ・フョードロヴナと改名して皇后の冠を被ったのでした。

2人はお互い熱烈に愛しており手紙では

「あなたの全身にキスをするわ」「愛しているよ。君の愛撫がまちどおしい」と書くほど。…うーむ、情熱的ですね。

2人の間には4人の美しい娘たち、オリガ、タチヤナ、マリア、アナスタシア、そして待望の皇太子アレクセイが生まれた。

ところがアクレセイは血友病を患っており、出血が止まらない。次第にアレクサンドラは宮廷から離れて家庭に引きこもるようになり、ニコライも家庭に引っ張りこむようになります。

ところが時代は日露戦争、血の日曜日事件、第一次世界大戦と、どんどん不穏な空気がロシアを包むようになっていく。

アレクサンドラは夫に対して「ピョートル大帝、イヴァン雷帝のように、人々を足元にひざまずかせなさい」と助言し、ニコライもそれに従い帝政の維持、強い皇帝たるべく振舞う。ところが革命の空気に満ちたロシアでは、そんな皇帝夫妻はまったく時代遅れの産物で、敵以外の何物でもなくなった。

1918年7月29日、皇帝夫妻とその子ども達は、エカテリンブルグの監禁先の地下室で革命軍兵士の銃撃を受けて殺されました。

 

2人のラブロマンスも、1971年に「ニコライとアレクサンドラ」という映画になっています。

www.youtube.com

 

5. マリー・アントワネット&ハンス・アクセル・フォン・フェルセン(フランス)

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 立場と時代が引き裂いた「叶わぬ恋」

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」の発言で有名なマリーアントワネット(本当はルイ14世王妃マリー・テレーズの発言)は、オーストリア女帝マリア・テレジアの第9子。生まれた時からヨーロッパ王家の人質となる運命を持っていました。

14歳で嫁いだフランス皇太子ルイ(後のルイ16世)は、錠前造りばっかりやっている内気な少年で、肉体的欠陥もあるためベッドを共にできませんでした。

それでも誠実で、不器用ながらも愛を与えてくれる夫を、アントワネットは好いたのですが、彼女が生涯唯一恋に落ちた相手は、スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵。

当時のフェルセンは遊学中の学生で、仮面舞踏会で会った2人はたちまち恋に落ちてしまった。

3年間の武者修行の後にフランスに戻ったフェルセンとアントワネットは2人きりの時間を増やしていったのですが、これは格好の王室スキャンダル。アントワネットは人々の軽蔑の眼差しを受けることになったのでした。

フェルセンは心を痛め、断腸の思いでフランスを離れてアメリカに渡り、独立戦争を指揮する義勇軍に参加しました。

5年後にフェルセンがフランスに戻ると、国は革命の機運に満ちており、王室は国民の敵意の対象となっており、その矢面に「外国人」であるアントワネットはいたのでした。フェルセンは毎日宮廷に通いアントワネットを支え、なぐさめます。

ルイ16世とアントワネットのパリ脱出事件(ヴァレンヌ事件)を手配したものフェルセンでした。

事件後フェルセンはベルギーに追放されてしまいますが、それでも見えないインクで書いたラブレターを送り続ける。アントワネットはフェルセンに「わたしのことは忘れてください」と指輪を同封した手紙を送りました。フェルセンはその指輪を生涯左手の中指にはめつづけたそうです。

ルイ16世とアントワネットはとうとう、ギロチンで処刑されてしまう。

アントワネットの死を知ったフェルセンは、このような苦悩に満ちた手紙を残しています。

あの方のためなら、何千回でもこの身を捧げたことだろう…これからどうあって生きていけばよいのか…あの方とともに死ぬことができたら、どんなに幸せだっただろう

 

ソフィア・コッポラの映画「マリー・アントワネット」は、賛否両論あるっぽいですが、ぼくは面白いと思いました。

www.youtube.com

 

6. フレデリック・ショパン&ジョルジュ・サンド(ポーランド・フランス)

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 「繊細な男」と「男装女性」の凸凹カップル

 ポーランド生まれのショパンは幼い頃から神童と言われ、両親からピアノ才能を徹底的に伸ばされ、1829年にウィーンでデビューした後にパリに活動の場を移しました。

 ショパンは上品な紳士でしたが、病弱で繊細で女性っぽい。

そんなショパンが熱烈に愛したのが、ロマン派の小説家ジョルジュ・サンド。

サンドは当時、フェミニズムの新進気鋭の作家として名を挙げていました。女性の社会進出を主張し自ら男装してみせ、保守的な社会に喧嘩を売るファイティングスタイルで注目を浴びていました。

初めて彼女を見たときショパンは 

虫のすかない女だ。ほんとうに女なのか?とてもそうは思えない

と嫌悪感を露わにしましたが、2年後にどういうわけか2人は激しい恋に落ちました。

ショパンとサンドが恋人になったニュースはパリ中を駆け巡り、パリっ子たちは華奢なショパンがワイルドなサンドの腕に抱かれる姿を想像してニヤニヤした。

サンドはショパンの音楽創作に積極的に手助けをし、病弱なショパンのために体に悪い都会を離れてたびたび田舎のノアンに引っ込んで共に時間を過ごしました。

傑作「幻想曲ヘ長調作品四十九」は、ノアンで作曲されたもの。その他にも、数多くの作品がノアンで作られました。

しかし2人はお互いのことをよく知りすぎ、その違いに消耗して疲れてしまった。

ショパンは相手より弱い存在でい続けることに我慢ができず、サンドは徐々に弱いショパンを見下すようになっていった。

結局大げんかをして別れてしまい、1849年にショパンが亡くなった際、サンドは葬儀にも出席しなかったそうです。

 

この話もまた「ショパン 愛と哀しみの旋律」という映画になっています。

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まとめ

なんかもう、ドラマチックすぎてやばいです。

今回出てきたは逸話、ほとんど映画化されてますからね。

時代を動かした人物たちの物語は、そのスケールもさることながら、様々な喜劇と悲劇を織り交ぜ、時代を問わず人々の心を打つのでしょう。

ショパンやヴィクトリア女王の映画はまだ見てないので、借りてきてみようと思います。皆様も是非、興味がありましたらいかがでしょうか。

 

過去記事

reki.hatenablog.com

 

参考文献

Love Affairs ミーガン・グレッサー, ケリー・クック ポプラ社

Love Affairs―歴史に残る、世界の恋人たち

Love Affairs―歴史に残る、世界の恋人たち

  • 作者: ミーガングレッサー,ケリークック,Megan Gressor,Kerry Cook,代田亜香子,中田香
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