豊かなインド洋を掌握しようとして失敗したポルトガル
現在東アフリカと言えば、無政府状態が続くソマリアに、政治的不安定が続くケニアなど、あまり良いイメージがありません。
ですが、東アフリカは北はエジプト、北東へ行くとインド、東へ進むとインドネシア、さらに中国にも繋がる一大貿易拠点の1つであり、世界史的に見ても大いに国際貿易の恩恵を受けて繁栄した地域の1つです。
かつてポルトガルはこのインド洋経済圏を我が物にしようと画策し、武力を背景に東アフリカ諸都市を支配下に収め交易ネットワークの掌握に乗り出しますが、結局無残な失敗に終わっています。
なぜ失敗したのか、インド洋交易で栄えた東アフリカの歴史の流れから解き明かしていくこととします。
記事三行要約
- 東アフリカでは金や鉄、象牙が産出し、古来から貿易で栄えた
- インドやアラブ商人が行き交い、インド洋交易圏を形成していた
- だがポルトガルは地元の利害や価値観を無視して現地人を奴隷のように扱い、反乱を招いた
1. 古代ギリシア人が記述する東アフリカ
紅海の水先案内書「エリュトゥラー海案内記」
東アフリカは日本が弥生時代の頃から、海上交易を行い繁栄をしていました。
紀元前50年ごろにギリシア人が紅海を渡る水夫のために書いた水先案内書「エリュトゥラー海案内記」には、アフリカ沿岸やインド洋についての記述も存在します。
当時のギリシア人でそれらの地域に渡った水夫たちの証言が元になっているようです。
アザニア国(東アフリカにあった古代の王国)はアラビア、インドと交易を行っている。
アザニア国からは、黄金・べっこう・サイの角・象牙・ヤシ油を輸出。
インドからは、小麦・米・バター・綿布・腰帯・砂糖を輸出。
アラビアからは、槍・手斧・ガラス器・ブドウ酒を輸出。
船を操っていたのはアラビア人で、彼らは大きな船を持っている。アラビア人は海岸の地形のみならず、海岸の人々の文化や風習、言語をよく理解し、住民と極めて親密である。住民と結婚をすることもある。
このアザニア国というのは統一された王国ではなく、いくつかの首長国の集合体だったようです。
住民はアフリカ原住民であるバンツー語系で、土着のローカルな小国がいくつも海岸付近に港を構えて、やってくるアラビア人とそれぞれ交易を行っていた、というのが近いみたいです。
2. イスラム教徒が記述した10世紀以前の東アフリカ
イスラム教が興った8世紀頃になると、 ムハンマドの後継者争いに敗れた人々が東アフリカに逃れてきて、イスラム文化をもたらすようになります。
亡命アラビア人の記述
そんな人々の中に地理学者のアル・マスディもいました。彼は10世紀初頭にアラビア半島から東アフリカに渡り、地理・文化に関する多くの記録を残しました。
彼によると10世紀ごろの東アフリカは以下の通り。
ザンジ人の海は、南はソファらのある南蛮人の国に通じるが、この国は黄金がざくざくと出るし、そのほかいろいろめずらしい品を産する。そこは気候が温暖で土壌が肥沃である
この国の王はワクミリと呼ばれ、30万の軍兵を率いている。馬やらくだがおらず、その代わりに牛が用いられている。
ザンジ人が盛んに象狩りを行い象牙をとっているが、それを自ら利用することはなく、すべて売買目的である。
売られた象牙は、アラビアのオマーン経由で中国ないしインドへ送られる。中国では象牙は高貴な人間が利用する「かつぎ椅子」の材料に用いられる。インドでは、まがった剣の柄やハッリという短剣の取手として用いられた。しかしそれ以上に、チェスその他のゲームの駒をつくる材料として用いられた。
シチリアのイスラム学者アル・イドリシの記述
11世紀シチリアの王ロジャ2世の宮廷の一員だったイスラム学者アル・イドリシは、「諸国を旅せんとする人のための友」という当時の旅行ガイドブックを発刊。それに東アフリカについての記述があります。
それによると、ザンジは黄金・鉄・べっこう・奴隷を輸出していたが、とりわけ鉄が重要で利益の源泉であったようです。当時はどの町も独自に鉄鉱山を持っており、鉄を作る機能を有していました。当時最も栄えたのは現在のケニアにあるマリンディという町で、鉄の品質もよく、また安定供給が可能だったためインド人が最もよく訪れたようです。
ザンジ人は鉄の代わりにインド人から布やビーズ、中国の陶磁器などの贅沢品を買っていました。この記述だけでも、鉄の安定供給を可能にする社会機構と、奢侈な品を消費する支配層の存在が透けてみえますね。
続けてイドリシは
住民は貧しくみじめであり、製鉄以外に生計の道がない
とも書いており、ひたすら鉄を作ったり象牙をとったりする圧倒的多数の一般層と、交易を牛耳って富を独り占めする支配層に別れ、その格差は激しかったようです。
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3. 繁栄する沿岸諸都市の様子
13世紀から15世紀にかけて、東アフリカの交易都市の繁栄は最高潮を迎えました。
アラビア半島、インド、中国、東南アジアと大規模な交易を行い、交易商人と一緒にやってくる多種多様な人々から様々な文化を受容して豊かな文化が花開きました。
アラブの大旅行家イブン・バットゥータの記述
1331年、現在のタンザニアにあり、当時最も栄えた貿易都市の1つであるキルワを訪れたイブン・バットゥータはこのように記しています。
世界でいちばん美しい整然と建てられた町の1つである。町全体が上品に作られている。
キルワ以外の貿易都市であるザンジバル(現タンザニア)、モンバサ(現ケニア)、マリンディ(現ケニア)、ペンバ(現モザンビーク)といった町も同じように非常に整った美しい町並みで、街路沿いに高い石とモルタルで作った平屋根の建物が並び、その1つ1つに美しい彫刻が掘られていました。
ポルトガル人商人バルボサの記述
ポルトガルの海商人で、東方諸国の見聞をまとめた書物を記したデュアルテ・バルボサによると、
人々は金や絹や木綿でつくった豪華な衣装を着飾っていた。脚や腕には金と銀をふんだんに使った鎖や腕輪をつけていた。耳にはやはり宝石をふんだんに使ったイヤリングをつけていた
まるでユートピアのように記されています。
なぜ東アフリカはここまで繁栄したか
1つには金の存在です。
キルワは蓄積した富によって強力な軍隊を組織し、アフリカ南部の金採掘地帯を支配。ほぼ独占的に金の貿易を行っていました。また、象牙やべっこうなどその他の利益率の高い珍品も同じように王による独占的な貿易を行っていました。
もう1つは交易にかける膨大な税金です。
他国からやってきてキルワの領内で貿易を行う商人は、必ずキルワに立ち寄って膨大な税金を支払ってから貿易を行わなければなりませんでした。
以下が、ある貿易商人がキルワ王に支払った税金の一覧です。
彼は、キルワに入国して税金を支払った後、貿易地ソファラに立ち寄って売買を行った後、出国手続きをして帰国しました。
入国税:黄金1ミトカル(布500個ごとに)
持ち込んだ商品の 2/3
売却税:残った商品1/3を売って得た利益の3%
取引税:持ち込んだ布1/7
出国税:全ての持ち金の2%
鬼のように収奪されてますよね…
多額の税金を支払い航海の緒経費も差し引いた上で、さらに手元に莫大な利益が残ったのだから、当時いかに交易がオイシイ商売だったのかが分かりますね。
4. ポルトガルの進出
ポルトガル人による貿易権の略奪
1497年、ヴァスコ・ダ・ガマ率いる艦隊がインド洋に出現。
このポルトガル人の進出により、伝統的な東アフリカの秩序は崩れていくことになります。
「キルワ年代記」が記述する当時の様子。
マリンディの人たちは、その船体を見たとき、これは戦争と堕落の疫病神だと気づき、おおいにおそれ悩んだ。マリンディは彼らが要求する物をすべて与えた。すると彼らは水先案内人を1人出してインドまで案内誌、さらに彼ら自身の国までも水先案内せよといった — くそいまいましい!
ポルトガルは当初、東アフリカ諸都市を単なる「補給地」とみなしていました。
ところが、東アフリカ諸都市で算出される象牙や金などの豊かな産物を目の当たりにし方針を転換。もともと香辛料貿易のために輸出できる物産が少ないポルトガルは、香辛料の入手のためにこれら東アフリカの物産を奪ってその代金に充てよう、と考え始めました。
ポルトガルの既存ネットワーク掌握
1505年にポルトガルは艦隊を率いて、スファーラ、キルワ、モンバサの町を略奪・破壊。武力を背景にした脅しにより、東アフリカ諸都市は次々とポルトガルの支配下に入っていきました。
各都市はポルトガル王への貢ぎ物を要求され、香辛料・金・象牙の貿易をポルトガル船に独占されてしまいます。
その他の商品であれば、現地商人も取り扱いが可能でしたが、ポルトガルが発行する「カルタス」と呼ばれる通行手形を所持する船舶のみに限定。その上でポルトガル支配下の港のみで取引が許可し、現地人の商船には各種の関税を課す。
このようなシステム自体はかつて東アフリカの交易で伝統的に行われていた行為でポルトガルはその伝統を乗っ取ったにすぎず、新しい制度を取り入れたわけではありませんでした。それなのに、ポルトガルの交易支配は長く続かなかったのです。
総スカンを喰らうポルトガル
その理由は、ポルトガル商人が現地住民にとった対応にありました。
ヨーロッパ優越意識や偏見、現地文化に対する無理解などから、ポルトガル人による現地住民への差別や侮辱行為、残虐行為は日常茶飯事に起きていたと言われています。
現地人のニーズを全く汲み取らずに自分たちの利益だけ考え、しかもまるで奴隷のように扱う。
そのようなポルトガル人の対応に、上は国王から下は船乗りまで現地住民は反発し、次々とポルトガル人が支配する交易システムから離脱してしまう。
末端の船乗りたちは、カルタス制度や関税をすり抜け、上の国王たちは反ポルトガルへと舵を切っていく。最終的に起こったことが、オマーン王国によるポルトガルの駆逐でした。
オマーンがポルトガルを駆逐する
1698年、オマーンはマスカット港からポルトガルを駆逐。
同年ポルトガルに抵抗を続けていたキルワも、オマーン艦隊の援軍を借りてポルトガルを駆逐します。
オマーンはその勢いに乗じて東アフリカ諸都市を傘下に収め、アラビア半島と東アフリカ沿岸を政治統合させたオマーン海洋帝国を建設。
サイード王は「近い将来、東アフリカに欧米列強が進出してくるに違いない」と考え、東アフリカ沿岸と内陸の政治的統合を急ぎました。
同時に内陸から奴隷を大量に集め、イギリスやフランスに売りさばいて莫大な富を得ます。しかし、サイード王死後に帝国はアラビア半島と東アフリカとに分割され、間もなく両方ともイギリスの支配下に入ってしまいました。
この辺りの話、詳しくは以前の記事「 知られざる貿易立国・オマーン海洋帝国の興亡」をご覧ください。
まとめ
東アフリカの支配者たちは金や鉄、象牙など豊かな産物をアラブ商人に売り、しかもいくつもの関税を設けてその商人からも収奪することで多額の利益を得ました。
アフリカとインド・中国という、一大消費地&算出地があって、何もないけど航海術だけはあるアラブ人がそれを繋ぐ。循環型のインド洋経済圏が成立しており、非常に興味深いです。
そしてポルトガルは、偏見や無知から現地住民を馬鹿にした態度を取り、信頼を損ねてシステムの破綻を招いています。
これはシステムと言うよりはもっとそれ以前の感情の問題で、それゆえヒトが歴史で何度も何度も繰り返してきた過ちであって、未だに克服できていないものなのでしょう。
参考文献:世界の歴史6 黒い大陸の栄光と悲惨 講談社 山口昌男
スワヒリ都市の盛衰 富永智津子 山川出版社