歴ログ -世界史専門ブログ-

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異文化社会にすっかり馴染んでしまった異邦人の物語

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スカッとする異邦人のサクセスストーリー

異邦人やマイノリティが異文化社会で活躍する話って何かいいですよね。スカッとしますよね。 

今年の夏の甲子園で活躍した、関東一高のオコエ君なんてまさにそれ。

超高校級の実力の持ち主ってのもありますけど、ナイジェリア人の父を持つという異邦人なところが多くの人を引きつけるのだと思います。日本に生まれて日本で育っているから、本人はきっとそういう認識ないでしょうけど。

こういう感覚は古今東西共通のものらしく、歴史上も異邦人が異文化社会で活躍する事例が多くありました。海外サイトlistverse.comより「大活躍した異邦人」を紹介いたします。

 

 

1.弥助(東アフリカ→日本)

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 信長の最期に居合わせた黒人の側近

戦国時代の日本にやってきたイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリアーノは、東アフリカ出身の黒人奴隷を召し抱えていました。

謁見で黒人を見た信長は興味津々。その肌の色は炭で塗っているのではないかと疑い、目の前で拭いてみせました。当然、黒い色は取れることなく黒々と光り輝く。信長は黒い肌の人間が実在することを理解したのでした。

信長公記現代語訳を引用します。

二月二十三日、切支丹の国から黒人がきた。年齢は二十六か七ぐらいに見えた。この男は全身が牛のように黒く、健康そうで立派な体格であった。しかも力が強く、十人力以上である。伴天連が連れてきて、信長に挨拶させたのである。

信長はヴァリアーノに頼み込んで黒人を譲ってもらい、弥助と名付けて自らの側近としました。信長は弥助を大変気に入り、後々には城主に取り立てるつもりだったと言います。

しかし1582年、明智光秀の謀反により本能寺で信長は自刃。

弥助も本能寺に滞在しており、信長が自刃した後は信忠が籠る二条城に移動し明智光秀の軍勢と戦い抜きました。しかし最後は明智軍に捕えられてしまいます。

光秀は弥助を見て「獣であって日本人ではない」として弥助を殺さずに釈放しました。その後の行方は記録がなく、分かっていません。

 

2. ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー(オランダ→朝鮮)

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Photo by MartinD

朝鮮人になったオランダ人海賊

ヤン・ヤンセ・ウェルテフレーはオランダの私掠船(海賊船)の乗組員で、東シナ海で中国船を襲って捕虜にし、売りさばこうと航海していたところ嵐にあって船が難破。

済州島にたどり着き、捕虜であった中国人に反抗されて取り押さえられ、朝鮮当局に引き渡されてしまいました。当時の朝鮮は鎖国政策を採っていたので、ウェルテフレーら3人のオランダ人海賊は国を離れることを許されず、朝鮮国内に住むことを命令されました。ウェルテフレー以外の2人は軍人になり、満州族の侵攻時に前線で戦って戦死。

ウェルテフレーは火砲の知識があったため、パク・ヨンという名前を与えられて朝鮮政府の役人として採用され、朝鮮人の妻を娶って2人の子どもを儲けました。

1653年、オランダ人ハンドリック・ハメルら36人が乗った難破船がやはり済州島に上陸。ウェルテフレーは通訳としてハメルらの保護に当たりました。やはりこの36人も出国を許されず、多くは朝鮮軍の軍人として働かされましたが、内8人はオランダに帰るべく長崎に脱出しています。

 

3. ウィリアム・バックレー(イギリス→オーストラリア)

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 アボリジニーになったイギリス人

イギリス人ウィリアム・バックレーはオランダでフランス軍相手に戦い負傷。1803年には二足三文の衣服を盗んだ疑いで、当時犯罪人の流刑地として知られていたオーストラリアに送られてしまいます。

ところが、オーストラリアの土地が性に合ったのか、バックレーは活き活きと働き始めました。メルボルンの町を建設するほか、オーストラリアの土地を次々と開拓していきます。

 

ある時バックレーは土饅頭の上に刺さったアボリジニーの槍を発見。

「何だコレは」と引き抜くバックレー。

それを見たアボリジニーの女

「ああ!あなたムラングルクね?帰ってきてくれたのね!」

と感激することしきり。

実はその槍は墓に供えられたもので、それを偶然引き抜いて見せたバックレーはその墓の持ち主の生まれ変わりだと思われ、アボリジニーの村で大歓迎を受けたのでした。

実際バックレーは背が高い男でしたが、その墓に眠っているムラングルクも背が高い男で、以降32年もの間バックレーはムラングルクという名前でアボリジニーの村で暮らしたのです。彼はアボリジニーの習慣を学び、妻を娶って1人の娘すら儲けました。

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ある日白人のグループがアボリジニーの中に異常に肌の白い男を見つけ、接触してみた。バックレーは英語をほとんど忘れかけていましたが、白人たちが持っていたパンを見て"bread"という単語を思い出し、徐々に英語の記憶を蘇らせていきました。

バックレーはその後、アボリジニーと白人の通訳として活躍しました。

 

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4. エドワード・デイ・コホタ(中国→アメリカ)

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 アメリカ南北戦争で活躍した中国人

1845年アメリカ船コホタ号の船長スリアス・デイは、上海で二人の栄養失調の子どもを見かけました。デイ船長は二人を船に連れ帰りますが、間もなく年上の子が死亡。生き残った「モイ」と名乗る年下の子は、デイ船長の元ですくすくと成長し、やがて船を一人前に操るまでになりました。

1864年、南北戦争が始まるとコホタは連邦軍第23マサチューセッツ連隊に入隊。

16ヶ月もの間南軍相手に戦い、コールドハーバーの戦いでコホタは獅子奮迅の活躍をし、一躍名を馳せました。

その後20年間、コホタはインディアン掃討作戦に従事し、テキサス、ニューメキシコ、イリノイ、サウスダコタに展開。かの有名なラコタ・スー族の戦士シッティング・ブルの捕獲作戦に参加しました。

 引退後は、ノルウェー移民の女性と結婚して6人の子どもを持ち、レストランをオープン。フリーメイソンのメンバーとなりました。

写真の顔、めっちゃイケメンっすね。

 

5. アブラム・ペトロビッチ・ガンニバル(カメルーン→ロシア)

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ロシア軍人になった黒人奴隷 

1705年付近、ロシア皇帝ピョートル1世の元に1人の黒人奴隷の少年が進上されました。少年は現在のカメルーン付近で生まれ、ライバルの部族によって捕えられて売られ、アラブ人に買われてロシアまでたどり着いたのでした。

 ピョートル1世はこの黒人少年にロシアの貴族たるべく熱心に教育を施した。元々少年は頭が良かったらしく、ツァーの軍隊でめきめき頭角を現し、フランスに留学して数学と工学をマスター。帰国後は400冊の本を所有し、当時としては大知識人にまで成長しました。

ピョートル1世の死後、ガンニバルはアレクサンドル・メンシコフとの政争に敗れてシベリアに流刑に。辺境の地セレンギンスクで要塞を建設する任にあたりました。

メンシコフ失脚後はモスクワに戻り、1回目の結婚をしましたが喧嘩が絶えずに離婚。2回目にスウェーデン軍の将軍の娘クリスティーナと結婚し7人の子どもを儲けました。

エカテリーナ1世の時代に、ガンニバルは将軍にまで出世。1781年の死亡時には、ガンニバルはロシア帝国で最も重要な人物の1人にまでなっていました。

 

6. 支倉常長(日本→スペイン)

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 ローマ貴族になった日本人

1613年、日本の大名・伊達政宗はスペインとバチカンに、スペイン領メキシコとの貿易を求める外交使節を派遣しました。

いわゆる慶長遣欧使節で、日本で建造されたヨーロッパ式船に乗った一行は、メキシコ〜キューバを経てスペインのコリア・デル・リオに到着しました。

その使節の代表が支倉常長。ミッションは、スペイン領メキシコとの通商を開くこと。

使節の本当の目的は、伊達政宗がヨーロッパの軍勢の力を借りて徳川幕府を倒そうとするための助力を求めるためだった、と欧米では言われてるらしいのですが、本当のところは分かりません。

スペインでは国王フェリペ3世に謁見し、その後ローマに移って法王パウロ5世と面会しました。ただ、支倉常長が交渉に当たっていたそのとき既に、徳川幕府によるキリスト教禁止令が施行されており、結局スペインと通商を開くと言う仙台藩の目的は叶うことはありませんでした。ただ支倉は現地で熱狂的に歓迎され、ローマでは貴族の称号すら与えられています

一行が滞在したコリア・デル・リオは、帰国せずに現地に留まった日本人の末裔が住んでいて、現在でも「ハポン」という名字の人が多く存在します。

ちなみに、1996年にミス・スペインとなったマリア・ホセ・スアレスさんは日本人の末裔だそうです。

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画像転載元:fashionbombdaily.com, Splurge: Maria Jose Suarez’s Emporio Armani Madrid Boutique Opening Emilio Pucci Silk Ruffle Dress, Escada Clutch, and Jimmy Choo Malika Booties

 

7. ラナルド・マクドナルド(アメリカ→日本)

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 日本を心から愛したネイティブ・アメリカン

ラナルド・マクドナルドは日本ではあまり知られていませんが、アメリカでは非常に有名で、日米関係を作ったパイオニアとして知られています。

彼はネイティブ・アメリカンの出身で、日本で最初の英語の教師になった人物。1824年にオレゴン州に生まれたマクドナルドは、父親の意向でポートランドにある多文化主義の学校で学び、フランス語、英語、ゲール語、中国語、イロコイ(インディアン)語が身近にある環境で育ちました。

1832年、日本漁船・宝神丸が米ケープ・フラテリー付近に漂着。3人の生存した乗組員は現地で奴隷として働かされていました。その内の1人音吉と接触したマクドナルドは、未知の国・日本に対する憧れを募らせていきます。

父親はマクドナルドに銀行員になることを望みましたが、彼はそれに反抗してクジラ船プリマス号に乗り込んで日本を目指しました。ハワイ沖まで到達しそこから小舟に乗って一路西へ。36日後に到達したのは、北海道の利尻島。現地のアイヌはマクドナルドを歓迎しますが、当の本人は「清潔で上品で農耕民の日本人ではない」と思って、ガッカリしてしまう。アイヌはそれを見て、マクドナルドを日本人に引き合わせるようセッティングしてくれました。

松前藩経由で長崎に移送されたマクドナルドは、当時の江戸幕府からすると密入国をした犯罪人。長崎では独房に入れられてしまいますが、見た目が日本人に似ていたことと、カバンに入っていた教科書が日本人に良い印象を与え、待遇は悪くなかったそうです。

幕府はオランダ語通訳たちにマクドナルドの話す英語を覚えさせ、14人の日本人通訳たちはホンモノの英語をみるみる覚えていった。というのも、当時英語はオランダ経由で入ってきていたため、オランダ訛りがキツかったのです。

一方、マクドナルドも詳細な日本に関する記録を取り、7ヶ月後にアメリカ船に乗せられて帰国しますが、本国に日本の文化や社会に関する報告をし、日本は野蛮国ではなく秩序ある文明国だとアメリカ人に伝えました。

マクドナルドは終生日本を愛していたようで、彼の最後の言葉は「Sayonara, my dear, sayonara」でした。

 

 

まとめ

マイノリティが異文化社会で差別や偏見に負けずに活躍している姿って、やっぱり何か心を打たれるものがありますね。

 苦労して異文化を理解して溶け込もうとするから、きっとその社会に所属する人以上にその社会の事を知ってるし、ことのほか愛してしまう。日本のことをメチャクチャ良く言ってくれる外国人とかいますけど、この感覚に近いんじゃないかと思ったりします。

 

 参考・引用:

listverse.com, 10 Astounding Fish-Out-Of-Water Stories From History

 

Military history of Asian Americans - Wikipedia, the free encyclopedia

Ranald MacDonald - Wikipedia, the free encyclopedia

現代語訳信長公記 太田牛一, 中川太古 角川書店

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

 

 

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