もしこの計画が実行されていたら、果たして…
もし日本がハルノートを受け入れていたら。
もし英首相チェンバレンがナチスに毅然とした対応をしていたら。
もし独ソ不可侵条約が守られていたら。
また歴史は違った展開をみせていたかもしれません。
しかしヒト1人の判断や選択は歴史の大きなうねりの中ではほんのさざ波をたてる程度のことで、結局結果は変わらないかもしれません。
歴史を学んでいると、そういう運命論みたいなものを感じる時があります。
今回は海外サイトで紹介されていた、「もし実行に移されていたら果たしてどうなっていたか」を考えさせられる第二次世界大戦の未遂の作戦を紹介します。
1. 日本軍のオーストラリア侵攻作戦(1942年)
1942年の早い段階で、日本軍はシンガポールやジャカルタなどの戦略拠点を制圧。
陸海軍の首脳は次の作戦を練っていましたが、オーストラリア侵攻も選択肢に含まれていました。海軍は、今後米英軍の戦略基地となるであろうオーストラリア北部への侵攻を提案しました。
しかし陸軍は直ちにこれを却下。
オーストラリアを掌握するには少なくとも10師団は必要で、多くを中国戦線に割いている以上、そのような大勢力を送ることは到底できないし、補給だってままならない、というのがその理由。
その代わりに実行されたのが、ニューギニア島、ソロモン諸島、ニューカレドニア、フィジーを占領し、オーストラリアを「封鎖」することで降伏せしめようとするもの。
コッチもコッチで相当無理のある計画ですけどね…
結局ニューギニア島の占領すら達成できず、多くの日本兵が玉砕しました。
2. 1年早いD-Day(1943年)
1942年、アイゼンハワー将軍は1943年の早い時期に、フランス北部へ上陸する作戦をイギリス軍に提案しました。東部戦線にかかりっきりになっているドイツ軍を背後から攻撃して混乱を起こさせ、一気に反転攻勢をかけようというもの。
ところが、イギリス軍はこれに難色を示します。
フランス北部のドイツ軍の守備力は高く、仮に上陸したとしても大打撃は免れない。
そこで「与し易い」イタリア軍が主力の北アフリカ戦線に力を入れることに決定。
もくろみ通り、北アフリカから枢軸国軍を一掃しシチリア島に上陸して南からプレッシャーをかけることに成功。
実際のD-Day、ノルマンディー上陸作戦は1年後の1944年6月に実行されました。
3. ドイツ軍のスイス侵攻作戦(1940年)
1940年、電撃的な侵攻でフランスを降伏せしめた後、ヒトラーは配下の将軍たちに中立国スイスへの侵攻計画を準備するように命令しました。
この通称「タンネンバウム作戦」は、当初ドイツ軍21師団で計画されましたが、イタリア軍参戦後に計画が見直され、北からドイツ軍11師団、南からイタリア軍15師団で侵攻する変更が加えられました。
ところが、ヒトラーが「ヨーロッパという顔のニキビ」と蔑んだスイスへの侵攻計画は実行されませんでした。
理由は明確には分かってませんが、ヒトラーの関心はすぐにイギリスとソ連に向かい、余計な戦力をスイスに使う余裕がなくなったのかもしれません。
侵攻を免れたスイスですが、もしドイツが侵攻してきた時には、アンリ・ギザン将軍の指揮の下、平野部の道路を破壊し、武装した40万の屈強なスイス男たちがアルプス山脈に籠ってゲリラ戦を展開。最後の1人になるまで戦う覚悟でいたのです。
ヒトラーの選択は正しかったかもしれません。
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4. ドイツ軍によるイギリス上陸作戦(1942年)
フランスを降伏させたドイツは、次の大規模な作戦をイギリス上陸と考えていました。
通称「アシカ(ゼーレヴェ)作戦」と言われ、16万の大軍が2,000の船舶に乗り込みドーヴァー海峡を渡って上陸するという壮大なもの。
しかしそのための前提条件は極めて高く、制空権の支配、イギリス海軍の無力化、沿岸防衛施設の破壊などを事前に行う必要がありました。
その制空権の支配を巡って行われたのが、かの有名な「バトル・オブ・ブリテン」。
これに敗れたドイツは作戦の見直しを迫られると同時に、ソヴィエトとの戦いに徐々に主力を割いていくことになります。
やっぱり海に囲まれているというのは防衛上メリットがデカいんですね…
5. 英仏空軍によるソヴィエト空爆作戦(1940年)
第二次世界大戦が始まる前イギリス軍とフランス軍は、独ソ不可侵条約のもとドイツに石油を販売するソ連の油田施設の破壊を目論んでいました。
ターゲットは、現在のアゼルバイジャンにあるバクー油田。両国が中東に持つ基地から爆撃機を充分派遣できる距離にありました。
1940年に実際に爆撃機が出撃したことがあり、この時は威嚇行動のみで実際の爆撃までは行わなかったそうです。
結局、1941年6月に独ソ両国が開戦しイギリスはソ連と協調することになったため、今度こそ実行されませんでした。
6. 日本軍のソヴィエト侵攻計画(1941年)
1937年に発生したノモンハン事件で関東軍はソ連軍に敗北を喫していましたが、1941年にもソ連領内への侵攻作戦が検討されていたことがあります。
1941年6月にドイツとソ連が開戦。陸軍内部においてソ連を打倒する「北進論」が勢いを付け、もしドイツが優位に戦いを進める場合、東から日本軍が侵攻し東西からソ連を圧迫すべしとされ、陸軍省も対ソ戦に向けて準備を進めようとしていました。
ところが、同月にアメリカが対日石油輸出の全面禁止を敢行。
いくら北進しても得られる石油はわずか。一気にアメリカを敵とする南進論が勢いを増し、12月の真珠湾攻撃へと展開していきました。
7. スペインの枢軸国での参戦(1940年)
1940年、ドイツは英領ジブラルタルにある空軍基地の掌握を計画します。
通称「フェリックス作戦」と呼ばれたもので、イベリア半島最南端のジブラルタル海峡を抑えることで、スエズ運河とイギリス本土のシーレーンを断ち切ろうとするものでした。
ヒトラーはスペインの独裁者フランコ将軍と会談し、当時中立国だったスペインのドイツ軍の通過を認めてくれるよう申し入れ、同時にドイツ軍への「協力」までも要求。
フランコ将軍は、この申し出を受け入れたらスペインは枢軸国に立って連合国と戦争に突入することになってしまう、として結局首を縦に振りませんでした。
8. チャーチルの第三次世界大戦計画(1945年)
ドイツ降伏後、チャーチルはヨーロッパ東側を圧倒的な戦力で占領するソ連軍に敵意を募らせ、アメリカとイギリスが主導する世界秩序の構築をソ連に認めさせるための、壮大な軍事作戦を計画しました。
作戦名「想像を絶する作戦(Operation Unthinkable)」というマンガみたいな名前。
この作戦は1945年7月から、再武装させたドイツ軍10万を含む、米英独軍で東側に電撃的に攻め入るというもので、場合によっては戦略的核兵器の使用もやむなし、とされていました。
このチャーチルの提案は、一刻も早く戦争を終わらせたいアメリカ大統領トルーマンによって却下されお蔵入りになってしまいました。
後の冷戦構造を考えると一応、先見の明のある考えではあったと言えるのかもしれません。もし実行されたら、もうとにかく無茶苦茶になったでしょうけどね。
まとめ
果たして実行されていたらどうなっていたか、の前に、そもそもできっこなかったよね、という突っ込みが来そうですね。
内部での反対もそうとう大きかったでしょうし、振り切ってやっても成功する可能性も低いものばかりです。
もし時あの時こうなっていれば…と考えるのは歴史好きの楽しみ方ではありますが、やっぱり「なぜ失敗したか」を研究し未来に活かす方が建設的で有意義なことに違いありません。
参考・引用
listverse.com -10 Alternative World War 2 Plans That Would Have Changed History