不動の人気を誇るミュシャの世界
物憂げな美少女と、背景を彩る花々。
大部分の背景は淡く、微細な部分は極彩色。
要素が大胆な構図で配置され、文字は絵と一体化し美しい要素の1つとなる。
まさに「ミュシャ様式」とでも言える1つの完成された世界がそこにはあります。
日本でもミュシャのファンは非常に多いです。
ぼくもミュシャは大好きで、チェコ・プラハのミュシャ美術館にも2回行ったことがあります。
都会的に洗練されたアンニュイな美少女が花や植物に包まれ自然の中にある様子は、
物質的な豊かさを享受しながらも同時に、日々の生活に疲れ厭世的な逃避を求める、当時のヨーロッパの人びとの矛盾した心情を吐露しているようで、そのような不思議な世界観にどうも心が惹きつけられるのです。
この回ではミュシャの略歴と共に作品を紹介していきながら、その作品から見えるものを辿って行きたいと思います。
1. 一夜にして時代の寵児に
チェコの田舎から大都会へ
アルフォンソ・ミュシャは1860年、チェコ東部モラヴィア地方の小村イヴァンチッツェの生まれ。
子どもの頃から美術が大好きだったミュシャ少年は、ウィーンで舞台装飾の仕事をした後にミュンヘン美術アカデミーに入学。ここでデッサンの基礎を徹底的に叩き込まれました。
当時のミュシャの作品は正統派の絵画で、正直見栄えのするものではありません。
その後パリに出たミュシャは、アカデミー・ジュリアン次いでアカデミー・コラロッシに学びますが、奨学金が絶たれ雑誌の挿絵を書きながら生計を立てていました。
ミュシャの名を世に知らしめた作品「ジスモンダ」
1894年の暮れのこと。パリのルネサンス座から、女優サラ・ベルナールの舞台「ジスモンダ」のポスターを至急作って欲しい、という依頼が舞い込みました。
当時の主担当がクリスマス休暇で不在だったのです。
わずか1週間で完成したそのポスターに、人びとは度肝を抜かれました。
それがこれ。
真ん中に威風堂々と起つベルナールと背景の装飾の見事さは、これが貼りだされた翌日にはパリ中の話題になっていました。
ミュシャはそれこそ、一夜にして大スターになってしまったのでした。
なぜミュシャ作品はヒットしたか
19世紀末は、大衆文化・消費ブームが起きた時代。
これまで貴族などの一部のエリートのものだった、ショッピングやレジャー、ナイトライフを庶民が楽しむようになる端境期でした。
そして当時もっとも影響力のある「メディア」といえば、ポスターや広告グラフィックでした。
ミュシャは「メディア・アート」の先駆け的存在であり、大衆消費ブームの波に乗った、まさに時代の寵児だったわけです。
2. ビザンチンのモチーフ
ミュシャは自分の作品の多くに、ビザンチンのモチーフを多く採用しています。
もともと彼の出身はチェコ東部モラヴィア地方。正教会の影響が強く、子供の頃からそのような環境で育ったミュシャが、作品にビザンチン様式を採用したのも自然な流れだったのかもしれません。
ミュシャが狙っていたかどうかは分かりませんが、このビザンチン・スタイルは時代のニーズに合ったものでした。
19世紀後半から、ジャパニズム・オリエンタリズムの大きなムーブメントが起こっており、その中にビザンチン・リバイバルの動きもあったのです。
ビザンチン・スタイルの特長は、円形のモチーフ。
円形は登場人物の背後にあり、頭部ないし上半身を囲み、画面の端に近接するくらい大きく描かれています。
「黄金十二宮」1896年
東洋の仏教絵画でも後光は描かれますが、同じように伝統的なビザンチン・スタイルではこの円周は聖人像に描かれており、
そのことにより中央の女性がまるで聖女のように、普通の女性とは異なった聖なる存在として描かれます。
その神性は共に描かれるプロダクトにも波及し、信頼あるブランドとして昇華されるのです。
スプレー式香水「ロド」のポスター 1896年
モエ・ド・シャンドンのポスター 1899年
モエ・ド・シャンドンのポスター 1899年
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3. 対象の様式化・シンボリズム
ミュシャは描くモチーフを単純化・抽象化・様式化することで、
パッと見ただけでそれが何かが伝わり、かつ対象物を安定的な美に落としこむテクニックに長けていました。
そういう点では、ミュシャはかなり保守的といえるかもしれません。
例えば、装飾パネルシリーズ「四季」に登場する女性は現実世界の人物ではなく、それぞれの四季の象徴であります。
左:「春」 右:「夏」
左:「秋」 右:「冬」
このような擬人化の手法は手垢が付きまくった手法で、この時代には時代遅れとされていましたが、ミュシャはこれを復活させたのです。
さらには、ビールの広告に古代ギリシアの酒の神・バッカスを彷彿とさせるような意匠を用いたり、キャンディーやクッキーのパッケージにアテナやヘレナのようなを女神あしらったりし、その商品がまるで神性なものであるかのような印象を付加していました。
ルフェーヴル=ユティル・ゴーフル バニラ味 パッケージデザイン
ミュシャに見る古典
ミュシャの画の特長は、その線の使い方にあります。
全部ではないものの、外側は太く強い線でグッと描かれ、内側は細くしなやかに描くという使い分けをしています。
JOB 1896年
この線の使い方は、日本の浮世絵や正教会のステンドグラスの影響が指摘されていますが、はっきりとしたことは分かっていません。
ですが、おそらくミュンヘン時代の基礎デッサンにその大元はあると考えられており、そういう点で言うと構図も含めてミュシャの絵は「古典的」であり、見るものに安心感を与えるものなのです。
月桂樹 1901年
「自然へ帰れ」
ミュシャに限らず当時のアール・ヌーヴォーの作家の思想の根底には「自然へ帰れ」とでも言うべき自然回帰的な考えがありました。
当時のヨーロッパには、都市化や社会のシステム化に伴い、失われた田園や自然に対する懐古的思想が蔓延していました。
「もう都市は疲れた。田舎に引っ込んでのんびり暮らしたい」
ってやつです。今でもよく聞きます。20世紀初頭からあったんですね。
そんなわけで、都市化・機械化に対する警鐘から自然への回帰は大きなムーブメントになっており、ミュシャはそんな中で「自然」及び「自然を象徴する美女」を描きました。
左:「花:カーネーション」 右:「花:ユリ」
左:「花:バラ」 右:「花:アイリス」
ひな菊を持つ女性 1990年
4. オカルト神秘主義の影響?
自然回帰という思想を端にしているのか、ミュシャは魔術やオカルティズム、神秘主義への関心を持っていました。
ミュシャ自身もフリーメイソンのメンバーでしたし、アトリエに霊媒師のリナ・フェルクルという女が出入りしていたそうです。
舞台劇「メディア」のポスターに描かれたおぞましい女の顔は、フェルクナルがモチーフらしいです。
メディア 1898年
このように、ミュシャは自身の作品にこっそりとオカルト神秘主義的なシンボルを描き加えていると言われています。
例えば、1927年の「デ・フォレスト・サウンド・フィルム」という作品。
この閉じられた目が催眠的・呪術的な意味があるという説があるのだと。
ミュシャ=オカルト説によると、先述の円光は
オカルティズムでは自己の殻を破るための精神的な高揚を意味する。それは人類をすべての悪から護る円環でもある(ALPHONSE MUCHA: THE SPIRIT OF ART NOUVEAU, Virginia, 1998)
だそうで、何か考え過ぎな気もしますけど…
実際にミュシャがフリーメイソンのモチーフを作品に入れているのは事実なのです。
5. 復古主義への回帰
ミュシャの「我が世の春」は長くは続きませんでした。
1900年に入ると、やがてアヴァンギャルドが芸術界を席捲します。
すなはち、ピカソ、マチス、カンディンスキーらの時代と入れ替わるのです。
ミュシャに代表されるアール・ヌーヴォーは、ここにおいて時代の一線から去っていったのです。
1910年、ミュシャは祖国チェコに帰国。
スラブ・ナショナリズムに共感したミュシャは、民族的・愛国主義的な作品をいくつも手がけるようになっていきます。
左:「モラヴィア教師合唱団」 1911年
右:「南西モラヴィア挙国一致宝くじ」 1912年
さらに晩年になると、これまでの作風とは異なった、スラブ主義的な伝統的作品を描くようになりました。
アメリカでのクリスマス 1919年
娘ヤロスラヴァの肖像 1930年
アール・ヌーヴォーで一世を風靡したミュシャはここにおいては既に消滅し、
あるのはチェコという祖国・民族のためにその筆を捧げた1人の男でありました。
ミュシャは1939年に78歳で、祖国で亡くなっています。
まとめ
我々が大好きな、神秘的で美しいミュシャの世界は、そのほとんどが1896年〜1901年のわずか5年の間に描かれたものです。
その後のミュシャは、あれほどチヤホヤされたコマーシャル業界にさっさと見切りを付けられてしまう。
本人がそれをどう思っていたかは、もはや分かりません。
しかし、彼が古典から昇華させた神秘的な世界観、絵が確かなテクニックに裏打ちされた伝統に則った絵は19世紀末の人びとの心を掴み、それは時代を超えて多くの人を魅了し、インスピレーションを与えるものとなっているのです。
参考文献
ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展 プラハからパリへ 華麗なるアール・ヌーヴォーの誕生