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【女兵士】世界のジャンヌ・ダルクたち(指揮官篇)

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 戦場で部隊の指揮を執った女性指揮官

現代日本では、女性の社会進出が先進国に比べて遅れているとされています。

男が男のために作った社会だから、女性が働きにくいシステムになってるのは当然だと個人的には思います。

歴史的に多くの社会は男性中心の社会が営まれてきましたが、中には女性が重要な役割を果たす国や社会も存在しましたし、

男性が強い社会の中でも多数の女傑が出てきました。

ということで、前回の一般兵士篇に続いて、戦場で活躍した女性指揮官をピックアップしてみました。

女たちの強烈な生き様をとくとご覧ください。

 

 

1. フアナ・アズルディ・デ・パディーリャ(ボリビア)

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ボリビア独立に貢献した女大佐

フアナ・ アズルディ・デ・パディーリャは1780年、現在のボリビア・スクレで、メスチーソ(原住民と白人の混血)の裕福な家庭に生まれました。

1809年から始まったボリビア独立戦争で、アズルディはゲリラ兵としてスペインに抵抗。

1816年11月の戦いで戦闘中にケガをし、庇おうとした夫は身代わりとなって戦死してしまいます。アズルディは怒り狂って反撃に打って出、スペイン兵から夫の遺骸を取り戻したそうです。

戦いは次第にスペインに押し返され、ボリビア人ゲリラ部隊は一時はアルゼンチン北部にまで逃亡しました。ここでアルゼンチン政府の支援を受け、再度ボリビアに侵攻。

アズルディは妊娠中も部隊の指揮を執り、子どもを出産するとすぐに戦線復帰したのだそう。すごすぎでしょ。

アズルディは6,000人もの兵を率いる大隊長にまで出世し、ボリビアが1825年に独立するまで第一線で指揮を執り続けたのでした。

 

2. ヤア・アサンテワー女王(ガーナ)

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イギリスへの最後の抵抗者

ヤア・アサンテワー女王は、19世紀まで現在のガーナに存在したアシャンティ王国の女王。

当時アシャンティ王国の宮廷はイギリスの強い干渉を受けており、国王プレムペ1世はイギリスの軟禁下に置かれていました。

対策のための会議の場で、アサンテワー女王が評議会のメンバーに対し、憤然と立ち上がり言い放った有名な言葉があります。

お前たちは王のために戦うことを恐れているのだな。もし栄光ある昔の王たち、オセイ・トウトウ、オコモフ・アノキェ、オポク・ワレ1世の時代だったら、お前たちは1発も弾を撃たずに平然とここに座っているなどできなかっただろうに。

勇敢なアシャンティ人はもう途絶えたのか?いいや、私は信じない。そうなってたまるものか。お前たちアシャンティの男たちが先に進まないのならば、女たちは率先して敵に向かっていこう。女たちは戦うぞ!最後の1兵が倒れるまで戦う!

そしてとうとう1900年のアシャンティ蜂起のリーダーとして、イギリスの排除の乗り出します。 反乱は数ヶ月感続きますが、とうとうアサンテワー女王はイギリス軍に捕まり、刑務所に収監されてしまいます。

その後1902年にアシャンティ王国はイギリスの保護国となり、事実上の植民地となってしまいました。

 

3. エミリア・プラテル(リトアニア)

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革命に身を投じた「リアル・オスカル 」

エミリア・プラテルはポーランド・リトアニア共和国の町ヴィリニュス(現在のリトアニアの首都)の生まれ。

幼い頃から活発で、女の子らしからぬ馬術や射撃の練習にいそしみ、ジャンヌ・ダルクなどの女性英雄に憧れていたといいます。

1830年、ポーランド本国でロシア帝国に対する11月蜂起が勃発。

しかしリトアニアでは特に抵抗運動が見られなかったため、エミリアはいてもたってもいられなくなり、自らリトアニアでのゲリラ運動を組織。

エミリアの部隊は数百人の騎兵・歩兵・鎌兵から成っていました。

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エミリアの部隊は単独で小規模な包囲戦を戦った後に、フワポフスキ将軍が率いる旧リトアニア大公国の軍隊と合流。

エミリアはポーランド軍リトアニア歩兵連隊の連隊長となり、彼女が率いる部隊は大活躍。

しかし蜂起軍はロシア軍に押し返され、フワポフスキ将軍はプロイセンに亡命。

エミリアは亡命を拒否し、戦い続けようとしますがその途中で病に倒れ25歳で死亡しました。

 

4. チェウ・ティ・チン(ベトナム)

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 漢人に抵抗したベトナムの女傑

チェウ・ティ・チンは、趙氏貞ともチェウ夫人としても知られます。

当時ベトナムは三国時代の呉の支配を受けており、248年にチェウ夫人は漢人の支配に抵抗して反乱を起こしました。

ベトナムの歴史書「大越史記全書」によると

チェウ夫人は九真に駐屯した呉に対して反乱を起こし、戦象の上にまたがって進軍した。呉の将軍・陸胤によって鎮圧されてしまった。チェウ夫人はオッパイが1.2Mもあり、デカすぎて鎧に入らず肩から背に回していたとのこと。

大げさに盛ってるんでしょうが、きっと当時の女性としては巨乳なほうだったのでしょう。

後世ベトナムが中国の侵略にたびたび悩まされるようになると、チェウ夫人は反中の民族の英雄と見なされるようになっていき、6世紀の李王朝の国王・李賁はチェウ夫人を"Bật chính anh hùng tài trinh nhất phu nhân"、「最も高貴で英雄的な処女」と賞してチェウ夫人の霊を慰める寺院を建立したそうです。

 

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5. アウグスティーナ・オブ・アラゴン(スペイン)

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 フランス兵を吹っ飛ばしたサラゴサの女性

アウグスティーナ・オブ・アラゴンは1786年にスペイン・カタロニアの生まれ。

1808年、スペイン軍がナポレオンの支配に対して一斉蜂起し、スペイン独立戦争が勃発。当時アウグスティーナはサラゴサの町に住んでおり、町はまだフランス軍の手に落ちていなかったため、戦渦を逃れた避難民でごった返していました。

1808年6月、フランス軍がサラゴサに侵攻を開始。

フランス軍の猛攻の前にスペイン軍兵士は次々と倒れていき、徐々に苦境に陥っていきました。

そんな中、兵士への補給を担っていたアウグスティーナは、にわかに軽砲のそばに近づき、フランス軍兵目がけてぶっ放した!

不意を突かれた隊列は一瞬で吹き飛んだ。あっけにとられるフランス兵。 

それを見たスペイン軍兵士は士気を取り戻し、また数百人の市民が抵抗の意志を燃え上がらせフランス軍に立ち向かっていったそうです。

ひるんだフランス軍は一時撤退を余儀なくされました。

しかし町は後ほどフランス軍に囲まれ降伏を余儀なくされましたが、ジョージ・バイロンの詩に読まれ、その活躍を讃えられ人々に長く記憶されることになりました。

 

6. ジャンヌ・ド・フランダース(フランス)

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 自ら馬をひいて戦う女指揮官

ジャンヌは、ブルターニュ公国貴族ジャン・ド・モンフォールの妻。

ブルターニュ伯の相続権を巡る争いから英仏への争いに発展し、百年戦争の序盤戦と位置づけられるブルターニュ継承戦争にて、夫を支えてモンフォール派の指揮を執りました。

ジャンヌは自ら騎士を率いて包囲された城を突破し、援軍を引き連れて再び包囲網をくぐり抜けて城へ戻るという離れ業をやってのけました。

ジャンヌの活躍のおかげで城は落ちず、敵軍は包囲を解いて撤退しています。

1345年に夫ジャンが死亡したため、跡継ぎは5歳の息子ジャン5世に譲られ、モンフォール派はイギリスの支援の元ジャンヌが統括指示をすることに。

一方、敵対するブロワ派も当主のシャルル・ド・ブロワが捕虜となったため、パンティエーヴル女伯ジャンヌの元で戦いを継続しました。

このためブルターニュ継承戦争は「2人のジャンヌの戦い」と呼ばれることもあります。何と言うか、ドラマですね。

 

7. カヒナ(アルジェリア)

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イスラム帝国に抵抗したユダヤ教徒のベルベル女王

カヒナは7世紀頃の現在のアルジェリア、当時のヌミディアにあったベルベル人の部族の女王。諸説ありますが、彼女はユダヤ教徒だったそうです。

イスラム帝国の征服軍が北アフリカに押し寄せてくると、カヒナはベルベル人を率いて抵抗。イスラム軍を打ち破り、トリポリにまで押し返しています。

カヒナはその後5年間、何度もイスラム軍の侵攻をはね返し、ヌミディアの土地を守りますが、イスラム軍司令官ムーサによって大軍を投下され最終的に敗れてしまいました。 

 

 

まとめ

すごい女傑ばっかですね。

状況も時代も地域も全く異なるのでひとくくりに言えませんが、窮地に陥った時に強い女性が登場してくるような傾向があるような気がします。

みんな不満タラタラだけど、組織はまとまりを欠いて効果的に連携できず指導者も欠いており、このままだったら絶対負ける。

そういう時に、どういうわけか強い女性指導者が現れて、その人の元で集団がまとまり団結して戦うようになる。

逆に、安定した組織や共同体の中からは女性指導者はあまり現れてないんじゃないかな。いや、例外はいっぱいあるでしょうが。

ここらへんの、強い女性が現れる諸条件のようなものを調べてみたら面白そうな気がします。 

 

参考・引用:

Ghana: Yaa Asantewaa Has Landed, all africa

David G. Marr (1984) Vietnamese Tradition on Trial, 1920-1945,University of California Press.

Marvin D'Lugo,Guide to the Cinema of Spain

http://en.wikipedia.org/wiki/Emilia_Plater(2015/5/5時点)

http://en.wikipedia.org/wiki/Juana_Azurduy_de_Padilla(2015/5/5時点)

Zorac歴史サイト - ブルターニュ継承戦争

Dahiya Kahina, jewishvirtuallibrary.org 

Poetic Castles in Spain: British Romanticism and Figurations of Iberia

 

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