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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

【論争】マケドニア人という民族は存在するのか?

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周辺国の下心が見え隠れする国際論争

マケドニア共和国はバルカン半島の南にある、旧ユーゴスラビア構成国。

周辺をギリシャ・アルバニア・ブルガリア・コソヴォに挟まれた内陸の国です。

様々な民族や宗教が入り乱れたバルカン半島において、

マケドニアは大国に翻弄されたまことに複雑怪奇な歩みをしており、それがゆえ未だに周辺国との摩擦が絶えません。

それが「そもそもマケドニア人は存在するのか」「マケドニアという名称は誰のものか」といった、超スーパーそもそも論

それゆえ、なかなか第三者が深く立ち入ることができない問題でもあります。

 

論争その1. マケドニア人という民族は存在するのか

マケドニア「うん、ぼくたちマケドニア人だよ」

ブルガリア「いやいや、そもそもオメーら、昔はブルガリア人だったじゃねーか」

ギリシャ「ちょっと待って。そもそもマケドニア人とはギリシャ人のことを指すんだよ。勝手に俺たちの名前を名乗るんじゃあない」

国連「まあ、本人たちがマケドニア人だって言ってんだから認めてあげませんか?」

ブルガリア・ギリシャ「認めん!!」

 

論争その2. マケドニアという名前は誰のものだ

マケドニア「我々の土地は昔からマケドニアと呼ばれてきたんですから、我々の土地がマケドニアです」

ギリシャ「もともと中部ギリシアの名前がマケドニアって言うんだ。こっちのほうが本家なんだよ。勝手に人の土地の名前をパクるんじゃねえ」

……

すごく大雑把にまとめると、マケドニア問題の議論は上記のような感じです。

とても冷静な議論ができるとは思えませんが、なぜこのような問題が勃発しているのでしょうか。

それは、「マケドニア」や「マケドニア人」という定義が時代によって複雑に変化をしてきたからです。 

 

1.  古代ギリシアのマケドニア王国

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古代マケドニア王国は紀元前7世紀頃に成立したギリシア人の王国です。

当時ギリシアは、アテナイやテーベ、スパルタなどの都市国家が群雄割拠している状態で、マケドニア王家も伝統あるギリシア国家の一員として認められていました。

紀元前4世紀ごろ、ギリシアの諸都市はアテナイを盟主とするデロスと、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟に別れて血みどろの戦争を戦っていました。マケドニアはこの戦争には中立を維持し国力を蓄積。

紀元前359年に即位したフィリッポス2世のもとで軍事大国となったマケドニアは、アテナイ・テーベ連合軍に勝利して、コリントス同盟を結んでギリシアの盟主となりました。

当時のマケドニアの領土は、現在のギリシア中西部と、一部のアルバニア・マケドニア・ブルガリアにあたるため、一応、ここがオリジナルのマケドニアの地ということになります。

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2. ローマ帝国の時代

その後マケドニアは、アレクサンダー大王のもとで急激に拡大し、東の大国・ペルシアを撃破し、勢いに乗って現在のインドの西端にまで進出します。

しかし大王の死後に帝国は3分割され、マケドニアの地は大王の部下だったカッサンドロスによりアンティゴノス朝が成立。当時の地図は以下の濃い青色の部分です。

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アンティゴノス王朝はその後、進出するローマと3度の戦争を戦った後に、ローマの属州「マケドニア属州」として組み込まれ、マケドニア王国はとうとう滅びます。

スラヴ人の移住

ローマ帝国時代はマケドニアは交通の要衝として栄えました。

コンスタンティノープルからカヴァラ、テッサロニキ、オフリドなどマケドニア諸都市を経由してデュラキラムやアポロニアに至る「エグティアナ街道」が築かれました。

ローマ帝国が東西に分裂して以降は、マケドニアは東ローマ帝国の統治下に置かれます。

そして、現在のマケドニア人の源流となるスラヴ人が移住してきたのが6世紀頃

彼らは遊牧民族ブルガールやアヴァールの支援の元、集団で現在のウクライナ方面から進出し、マケドニアの肥沃な平野に住みつき始めました。

当初はビザンチンは軍隊を率いてこれらの侵入部族たちを追い返そうと試みましたが、雪崩のように押し寄せるスラヴ、ブルガール、アヴァールに抗しきれず、彼らは半ば独立した状態でバルカン半島南部に居住するようになりました。

バルカン諸国の攻防

9世紀頃、テッサロニキ出身のギリシア人聖職者キュリロスとメトディオスは、南スラヴ人たちのために、彼らが話す言葉とギリシア文字をミックスして「教会スラヴ語」を作ったと言われています。

10世紀頃になると、強大になりビザンチンと互角に戦うようになったブルガリア帝国に、南スラヴ人たちは支配されるようになります。

ビザンチン皇帝ヨハネス一世チミスケスの時代に、東部ブルガリア地区と首都プレスラブはビザンチンによって征服されてしまいます。

その中で、ブルガリアは首都をマケドニア西部の町オフリドに移しビザンチンに抵抗。オフリドはブルガリア正教会の中心都市として発展しました。

12世紀から13世紀にかけてビザンチン国内の内紛などもあり、バルカン半島におけるビザンチンの覇権が緩み、そのスキを突いて北からスラヴ民族が次々と侵入。

マケドニアは北のセルビア王国の支配を受けます。

ネマニッチ王朝のステファン・ドゥシャンはマケドニアのスコピエで戴冠し、セルビア王国の中心都市として栄えました。

 

3. オスマン帝国支配下のマケドニア

宗教がアイデンティティの時代

バルカン半島がオスマン帝国によって支配されて以降は、マケドニアはルメリ州に組み込まれ1つの共同体となることはありませんでした。

東方からトルコ系イスラム教徒、西方からはアルバニア人が移住し、また港町テッサロニキにはヨーロッパ西部からユダヤ人が住むようになります。

オスマン帝国支配下のもとで人々は、ミッレト制のもと宗教的なアイデンティティを元に統合していました。

例えば、正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒、カトリック教徒など、それぞれ1つのミッレトが形成され、住民はいずれかのミッレトに属していました。

南スラヴ人たちは漠然と「自分たちは正教徒に所属する」という意識でいたようです。

帝国末期のマケドニア

19世紀末の段階で、マケドニアはコソヴァ、セラーニク、マナストゥルの3州に分割されており、スラヴ人、ギリシア人、トルコ人、ヴラフ、ロマ、ユダヤ人、アルバニア人など多種多様な民族が混在。

ユダヤ人は特にマケドニア第一の都市セラーニクで、ギリシア人は一般に都市部に、ヴァルダル川沿いにはトルコ人地主、スラヴ人は村落部に広く居住し、ユスキュプから現在のコソヴォにかけてアルバニア人が居住していました。

当時はオスマン帝国の力が弱まると、ギリシア、ブルガリア、セルビアは独立後の領土の分割を巡って、宗教面、教育面でマケドニアへの影響力を高め将来の領土拡大の土台としようと、水面下で争いを繰り広げていました

1870年にオスマン政府が総主教代理座の設置を認め、ブルガリア正教会の教区が形成されると、「総主教系はギリシア人」「総主教代理系はブルガリア人」と認識されるようになっていきます。

そのため、当時のマケドニアのスラヴ人たちは

自分たちの祖先はギリシア人で、今はブルガリア人だけど、セルビア人になってもさして問題はない

というような、極めて曖昧な所属意識でいたようです。

当然「マケドニア人」といったような確固たる民族意識はこの時には存在しませんでした。

 

4. 周辺国によるマケドニア分割

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バルカンの民族主義 柴宜弘 山川出版社 P60より転載

マケドニア地区の3分割

バルカン諸国がオスマン帝国から独立するきっかけとなったバルカン戦争後、

古来からのマケドニア地区(上記地図でいうところのグレーの部分)は、セルビア、ブルガリア、ギリシアに3分割され、

それぞれ「ヴァルダン・マケドニア」「ピリン・マケドニア」「エーゲ・マケドニア」と呼ばれました。

「エーゲ・マケドニア」ではギリシア人の人口が増え、ムスリムとスラヴ人の人口が減少。

「ヴァルダン・マケドニア」では変化は特にありませんでしたが、セルビア化が進行。

「ピリン・マケドニア」ではブルガリア民族主義の一派が力をつけ、政治的民族的な統合を推進するようになりました。

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5. マケドニア独立、問題勃発

 第二次世界大戦後に汎スラヴ主義のイデオロギーの元、セルビアが中心となってユーゴスラヴィア連邦が成立。

その中で、マケドニアに住むスラヴ人は初めて「マケドニア民族」としてユーゴスラヴィア連邦の構成国の1つであると認識されました。

 当初ブルガリア共産党もこれを認めていたようですが、後に「マケドニアに居住する人々は長らくブルガリアに帰属意識を持つブルガリア人である」として、民族の存在そのものを否定。

ギリシアは「そもそもマケドニア人とはギリシア人のことを指すのであり、スラヴ系のマケドニア人などは存在しない」として、こちらも民族の存在を否定。

1990年代にマケドニアがユーゴスラヴィア連邦から離脱して独立をしようとした時、それは大もめにもめました。

採用しようとしていた国旗が、アレクサンダー大王が用いた「ヴェルギナの星」をモチーフにしたものだったからです。

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ギリシャは「我が国の地名と歴史を盗んでいる」としてマケドニアの国号の変更と旗の変更を要求し、経済制裁を課しました。

ユーゴ崩壊にあって経済的に困窮していたマケドニアは、ギリシャとの経済制裁はかなり威力があったらしく、国旗を太陽のモチーフのものに変更しギリシア領マケドニアへの領土的野心がないことを内外にアピールしました。

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1993年にはマケドニアは国連にも加入しますが、ここでもギリシャは大いに反発。

国連はやむなく「マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国」という過去の名前を引っ張りだした暫定的な名前でギリシャに提示。しぶしぶギリシャも認め、現在でもこの名前で国連へ加入しています。

ちなみに日本の外務省もこれに倣っています。

外務省ウェブサイト・マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国

一方でマケドニアの民族主義者は「古来からの大マケドニアが我々の土地である」として、現在のギリシャ西北部、ブルガリア西部の含む「統一マケドニア」の奪還を主張しており、ギリシャ人の神経を尖らせているようです。

 

 

まとめ

  • 歴史的にマケドニアという名前が指す地域は変化しており、現在のマケドニアの領土はかつてアンティゴノス朝マケドニアの領土であったので、現在のマケドニアがマケドニアと名乗ることは間違いではない
  • ただし、今のマケドニアを構成する民族はスラヴ人であるため、かつてのマケドニアの伝統を受け継いでいるわけではなく、ギリシャが反発するのも分からなくはない
  • また、かつてブルガリアはマケドニアを領土としており、マケドニア住民の多くも自分のことをブルガリア人だと思っていたので、セルビア人にそそのかされたというブルガリア人の主張も理解はできる

民族とか国家って何なんでしょうね。

マケドニアの歴史を見てみると、国家とか民族というのは作られるものなんだなっていうのが分かります。三者三様の主張をしていてそれぞれ理解できるし、きっと間違ってないんだろうけど、

マケドニア人「かつての大帝国にあやかって、南マケドニアもいつかぶん捕りたい」

ギリシャ人「かつて我々の土地だった北マケドニアの領土を取り戻したい!」

ブルガリア人「領土拡張したい!」

というそれぞれの思惑が透けて見えて、汚ねえなとも思います。

 

参考文献:バルカンを知るための65章 柴宜弘 明石書店

     バルカンの民族主義 柴宜弘 山川出版社

     http://en.wikipedia.org/wiki/Macedonia_(region) (2015/05/10時点)

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