清末にピークを迎える中国の流通業
中国は明と清の時代の物流の歴史。後編です。
前編では、徽州商人の勃興と、活発な江南デルタ地帯の経済を中心に書きました。
後編では、満州民族の支配下の清王朝でますます発展する中国経済と、国内外の物流について書いていきます。
1. 清王朝の拡大と中国商人の北方進出
清軍の制圧行で荒廃する中国
1630年代、地球は小氷河期に突入。
中国でも飢饉や疫病が蔓延し、食えなくなった農民は盗賊に転じて世直し運動を展開します。
いくつもの盗賊団が生まれましたがそれらを制圧して一大勢力となった盗賊団の首領・李自成は1644年、明王朝の首都北京を平らげ大順国の成立を宣言。
しかしすぐに満州人の清王朝が大順軍を駆逐し、中国全土を制圧していきます。
その制圧行の過程で中国国内は荒廃。
繁栄を極めた江南諸都市も破壊されます。
清朝は残存明勢力・鄭一派の締め上げのため、海岸部を無人化し銀流入がストップ。
一時は深刻なデフレに見舞われます。
北方新市場の拡大
しかし17世紀末になって海外貿易が解禁され、また地球が温暖化すると農業生産力も上がり、再び中国経済は活気を取り戻していくようになります。
明の時代には、満州族・モンゴル族に向き合う漢族駐留軍への商品需要が高かったのですが、満州が版図に入ったことで駐在兵が大幅に減り、対中国北部貿易はシュリンク。
その代わり、清朝の領土拡大政策に伴って満州・チベット・新疆ウイグル・ロシアとの市場が拡大。
これら北方新市場は主に、内陸の山西商人と陝西商人がリードしていくことになります。
2. 揚州の塩商人
長江流域の内需の拡大
最大のお客さまだった北中国の駐屯軍との交易は衰退しましたが、
長江流域の内需が拡大した影響で、徽州商人はさらなる飛躍を遂げることになります。
大きな影響を与えたのが新大陸からもたらされたサツマイモとトウモロコシ。
コメやムギの栽培が難しい山間部や貧しい土壌でもたくましく成長するため、これまで人があまり住むことができなかった四川盆地などの長江上流域にも人が大量に移り住むようになります。
それは塩や綿、茶など、生活必需品のマーケットが長江上流域にまで拡大したことになり、さらには奥地の林産品を長江下流域に運んで売りさばくことにもつながったのでした。
特権商人「総商」
徽州商人の中でも有力な商人は、清朝政府と結びつき特権商人として権勢を振るいました。
その中でも有力な商人は「総商」と称され、政府への専売税を一括で請負い、その上前をはねて莫大な利益を上げました。準国営企業みたいなもんですね。
彼らは塩の値段を自由に操作して転売して「利ざや」を稼いだり、商人団の初期資金を投資したりと、現在の銀行や証券会社のような存在となっていきます。
徽州商人に支えられた清朝の文化
揚州はそのような大資本家となった商人たちの豪華な住宅街が連なり、またオフィス街や歓楽街も作られ大変な賑わいとなりました。
乾隆年間(1736〜1795年)は清朝の文化の最盛期と言われており、この時期には塩商人たちはこぞって文化事業にカネを費やしました。
豪華絢爛な庭園、派手で綺羅びやかな劇団、美食の限りを尽くした揚州料理。
さらに、清朝を代表する学者たちのパトロンも大抵は揚州の塩商人でした。
3. 長江中流域の物流拠点・漢口
最大の物産集積地
長江中流域の物流の拠点となったのが、湖北省漢口。
この地は、四川などの内陸地・江南などの東方沿岸・広東などの南方の中間地帯に位置し、 清代の中国の最大の物産集積地でした。
ここに集まった商品は中国各地に卸される他、山西商人や陝西商人の手でロシアにも大量に輸出されました。
ここに集まる物産は以下のとおり。
華北 :小麦、大豆、石炭
江南 :塩、綿布、生糸
四川 :米、漢方薬、漆、麻
福建 :茶、砂糖、陶磁器、海産物
ロシア:毛皮
バリーション豊かですね。
清末になると、上記に加えて英領インドからアヘンが大量に運び込まれます。
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4. 中国商人の長崎貿易
1630年、徳川幕府は鎖国令を出し外国との貿易を基本的に禁じ、
新規の中国商人が日本市場の拡大を図ることはできなくなってしまいました。
主に日本からは銅、中国からは生糸や陶磁器、絹がもたらされましたが、
1715年から江戸幕府は銅の流出を抑制したため、中国船の来航は徐々に減少していきました。
長崎にもたらされる商品は主に杭州や蘇州で買い付けられたもので、漢方薬や砂糖なども珍重されたし、18世紀になると書籍のニーズが高まりました。
輸入された書籍の中にはおそらく「海国図志」もあったのでしょう。
この本は、清の開化派の思想家・魏源によって書かれた本で、欧米の西洋列強による侵略に警鐘を鳴らし、西洋の文物を学び侵略を防ぐべきであると説きました。
海国図志は、幕末の吉田松陰や佐久間象山に強い危機感を与え、倒幕思想の原点となっていきます。
5. 徽州商人の衰退
繁栄のピークの裏側で
18世紀末に徽州商人は繁栄のピークを迎えます。
内需は引き続き拡大し続けたのに加え、欧米で茶のブームが起き輸出量が急拡大。
広州での欧米との貿易は莫大な銀の流入をもたらし、中国は好景気に沸きました。
一方イギリスでは産業革命により、安価な綿布の製造が可能になっていました。
安価なイギリス産綿布に押されてインドの綿織物産業は壊滅。
次にイギリスは対中国貿易赤字を解消すべく、インドでアヘンを製造し中国に輸出し始めます。
アヘンの毒にはまった中国人の懐から次々と銀が流出。 深刻なデフレに陥ってしまいます。
産業構造の変化・太平天国の乱
インド産の安い綿花の流入や、イギリス製の機械を導入した近代的な紡績・綿布工場が各地に作られ、伝統的な江南デルタの綿布工業は衰退。
さらに塩の独占販売が禁止されたことで、国内物流は一気にシュリンクします。
さらに1851年から発生した太平天国の乱は、主に長江下流域を舞台にしたため、財産や人命に多大な被害が出ます。
これらの影響をモロに受けた徽州商人は、立ち直ることのできないほどのダメージを受け没落していきました。
上海・寧波商人の台頭
徽州商人の没落の後に台頭したのは、上海を拠点とする寧波商人でした。
寧波商人は江南の綿布を船に積んで北方に運び、大豆や雑穀に代えて輸入する貿易をリードするようになります。
その後、南京条約により上海が開港されて外国貿易の拠点となると、江南デルタ地帯と海外を直接リンケージする拠点として上海は重要視され、大いに発展していったのでした。
まとめ
2回に渡って、徽州商人を中心とした明朝と清朝の物流の歴史を見てきました。
海外貿易もそうですが、いかに中国の内需がスゴイかが分かりますね。
日本企業が現在多く中国に進出していますが、きっと日本企業の競合は外国企業ではなくて在郷の中国企業なんでしょう。
膨大な内需に応える中国企業は、我々の想像をはるかに超えて広く深く浸透しているのだと推察します。
そして、清初期の頃に内陸に商人が拡大していったように、現在はチベットや新疆のような内陸部に怒涛のように「中国商人」が押し寄せています。
それは様々な弊害や悲劇を孕みつつも、マクロで見れば経済的発展と政治的安定を成し遂げるのでしょう。
なお今回は、世界史リブレット「徽州商人と明清中国」をかなり抜粋させていただきました。今回紹介できなかったエピソードもいっぱいあり、めっちゃくちゃ面白いので是非ご覧ください。
参考文献:世界史リブレット「徽州商人と明清中国」 中島楽章 山川出版社