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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

お札に載ってるこの人だれ? - インドネシア篇

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伝統ある海洋王国・インドネシア

21世紀の経済大国として注目を浴びるインドネシア。

広い国土、豊かな資源、優位な人口構成、高い教育水準を誇り、

生産拠点としてまたマーケットとしても有望。日本を始め各国の企業がこぞって進出。首都ジャカルタは近隣の国々への文化の発信地でもあります。

歴史上インドネシアはあまり目立ちませんが、東南アジアではその豊かな物産を背景に強大な勢力を誇りました。

ということで、今回はインドネシアのお札の人を見ていきましょう。

1,000ルピア :パッティムラ

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 オランダに抵抗したモルッカの英雄

パッティムラ(1783-1817)は、モルッカ諸島・アンボン島のサパウラの生まれ。

当時モルッカ諸島は、オランダの植民地からイギリスの手に渡っていました。若きパッティムラはイギリス海軍に入隊し、そこでイギリス式の軍隊訓練を施されます。

ところが、1814年に英蘭条約でモルッカ諸島が再びオランダの手に戻ってきてしまいました。

パッティムラは、オランダが進めるキリスト教会の設立と、キリスト教に基づく住民への教育が伝統的な価値観を破壊していることに憤り、仲間と共に対オランダ抵抗運動を開始。

1817年にはデューレステージ要塞を急襲し、立てこもっていたオランダ人ヴァン・デン・ベルグの5歳の息子を除く全員を殺害。パッティムラはモルッカの人々に熱狂的に歓迎され、モルッカのリーダーとして推挙されます。

しかし同年、モルッカ王ブーイ・パティ・アクーンがオランダと内通し、パッティムラは逮捕され、翌月処刑されてしまいました。

現在でもパッティムラはオランダ抵抗運動の始祖で国民の英雄と見なされています。

 

2,000ルピア:アンタサリ王子

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オランダに抵抗したロイヤルファミリーの過激分子

アンタサリ王子(1809-1862)は、カリマンタン島南部にあったバンジャール王家の王子。

バンジャール王家の王位継承権を巡る争いで力をつけたのが、オランダの力を背景にしたタムジード王子で、アンタサリ王子はこれに反発。南カリマンタン諸侯の力を借りてタムジード王子とオランダ軍に対抗しました。

アンタサリ王子率いる6,000の兵はカリマンタン島中部と南部のオランダ人を攻撃し殺害。またオランダ船を見つけ次第ことごとく沈没させました

アンタサリ王子はオランダからの交渉の申し出を断り戦争を継続しますが、翌年援軍を得たオランダ軍に敗れて捕まり処刑されました。

 

5,000ルピア:チュアク・イマム・ボンジョル

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 対オランダ抵抗の精神的指導者

チュアク・イマム・ボンジョル(1772 - 1864)は、スマトラ島中部にあったボンジョル州のイスラム教指導者。

チュアク・イマム・ボンジョルは、ボンジョル州の設立後にイスラム式改革運動「パデリ運動」の指導者になり、各種改革を断行しました。例えば、飲酒、タバコ、売春、博打、闘鶏などの反イスラム的慣習がやり玉に上がりました。

パデリ運動を断行したボンジョル州は国力を上げて軍事的経済的にオランダとぶつかるようになります。最初オランダ軍はボンジョル州の軍隊の前に敗れましたが、西スマトラの加勢を得てボンジョル州に攻め上げ、ボンジョル州を降伏せしめました。

チュアク・イマム・ボンジョルはオランダ軍に捕まり、ジャワ島、アンボン島、スラウェシ島と転々と移されて客死しました。

 

10,000ルピア:マフムド・バダルッディーン2世

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オランダに抵抗したパレンバン地方の領主 

マフムド・バダルッディーン2世(1767-1862)は、スマトラ島にあったパレンバン・ダルサラーム国のスルタン。

パレンバンは錫(すず)を豊富に算出する地域で、彼の王国は非常に栄えていましたが、18世紀半ばにイギリスとオランダが錫の権益を狙って争うようになります。

イギリスは当初、マフムド・バダルッディーン2世と対立し、一時はパレンバンから追い出しますが、後に妥協し協力してオランダ植民地政府と抗争するようになります。

オランダはイギリスの支援を得たマフムド・バダルッディーン2世の軍勢に苦戦しますが、イスラム教徒の祝日である金曜日のラマダンの日にパレンバンに攻撃をしかけて粉砕

マフムド・バダルッディーン2世はパレンバンから追放され、テルナテ島で客死しました。

 

20,000ルピア:オト・イスカンダル・ディ・ナタ

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 インドネシア独立運動に貢献

オト・イスカンダル・ディ・ナタ(1897 - 1945)は、西ジャワ・バンドン出身の独立運動家。大学卒業後に銀行に勤め、後にオランダ領東インドの人民評議会のメンバーとして参加。またジャワ島のスンダ文化を広めるための活動に従事しました。

日本軍政下では、インドネシア独立の世論を作るべく新聞Tjahajaを主宰。

1945年8月にインドネシア独立宣言がなされた後、ナタは自身で組織した国軍の前身となる組織・人民安全保障局を率いてオランダとの闘争を準備しますが、その途上で暗殺されました。

 

50,000ルピア:グスティ・ングラライ

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 オランダ軍相手に玉砕したバリの軍事指導者

グスティ・ングラライ(1917 - 1946)は、バリ島の生まれ。

独立宣言後に発足したジョグジャカルタ政府は、様々な政治勢力が入り乱れていましたが、ングラライはそれらを人民治安軍として1つにまとめあげることに成功します。

独立戦争中はバリ島で在郷軍を率いてオランダ軍と戦いますが、 パドゥン県マルガの戦闘で降伏勧告を受け入れずに壮絶に玉砕(ププタン・マルガラナ事件)。

ングラライがオランダ軍に送った文書には「ムルデカ・アタウ・マティ(自由か死か)」と書かれていたそうです。

 

100,000ルピア:スカルノ&ハッタ

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 インドネシア共和国建国の父

スカルノとハッタは独立運動家にしてインドネシア共和国の父。

太平洋戦争でインドネシアからオランダを駆逐した日本軍に協力し、共和国建国の準備を進めます。日本降伏後は復権を狙うオランダと対立し、国内の各種政治勢力・在郷勢力と戦いながら、国際社会にオランダの暴挙とインドネシア人による政府の正当性を訴え、多くの支持を得ることに成功。1948年に共和国の独立を成し遂げました。

過去にインドネシアの独立の顛末の記事をまとめていますので、詳しくはこちらをご覧ください。

reki.hatenablog.com

 

 

まとめ

お札に載せる人選として、これ以上に分かりやすい人選はないですね。 

「反オランダ抵抗の志士」という点で全員が統一されています。

スカルノとハッタを除いて全員が、途中まではいい感じだったのに、最後は謀略や物量に負けて敗れた、という点も共通です。

日本人は源義経好きだし、中国人は李自成好きだし、 強いけど負けたっていうのはどの民族も好きなんですね。

 

バックナンバー

第1回:韓国・ウォン篇

第2回:ポーランド・ズウォティ篇

第3回:メキシコ・ペソ篇

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