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近代イタリア軍の戦績について調べてみた【後編】

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 いよいよ第二次世界大戦

たまに失敗しながらも何とか大国に登り詰めたイタリア。

しかし第一次世界大戦で当初の約束の領土が獲得できず、世界恐慌も相まって国民の不満が高まり、ナチ党のムッソリーニの台頭を許してしまいます。

ムッソリーニは積極的な拡張政策と民族主義で国民の不満を吸収しようとしますが、エチオピア侵攻が原因で国際的な孤立を招きます。

そこで手を結んだのがヒトラー率いるナチス・ドイツと日本。 イタリアは結果的に、アメリカ・イギリス・ソ連を始めとする世界中の国を敵に回して戦う羽目に。

その貧弱な工業力で世界を相手に戦うことは「自殺行為だ!」と将軍パドリオはムッソリーニに詰め寄ったとか。

しかしファシスト党とムッソリーニと、「かつてのローマ帝国の領土を取り戻す」べく、主に地中海とバルカン半島で戦いに打って出ます。

前編はこちらから

中編はこちらからご覧ください。

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 8. フランス侵攻作戦 1940年6月

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概要

ナチス・ドイツは1939年9月のポーランド制圧に続いて、翌1940年5月からフランスへ侵攻。戦力を上回っていたものの、戦術面で劣ったフランス軍はことごとく敗北。

6月10日にパリが陥落しフランス政府が南部ボルドーに政府を移すや、ムッソリーニは、フランスに宣戦布告しアルプスを超えてフランス領内に侵攻を開始。

まさに火事場泥棒ですね。

結果:本格展開をする前に停戦 

ムッソリーニはドイツの電撃戦を真似て、サヴォワ、ニース、コルシカ、そして植民地の北アフリカ・チュニジア、アルジェリアの占領を目標にしていました。 

「ドイツが到達する前に」ニースを占領すべく、陸軍はアルプスラインを超えてフランス軍と戦闘。

海では逆に連合軍がマルタ島へのシーレーンを確保すべく積極的な攻勢に出ます。

しかし戦闘開始から12日後の6月22日にヴィシー政権とドイツが休戦協定を結んだのに続き、3日後の25日にイタリアもヴィシー政権と「仏伊休戦協定」を締結。

この結果、イタリアは東南フランスとコルシカ島の割譲、チュニジアへの軍隊の駐屯の権利を獲得します。

なおこの作戦での死傷者は以下の通り。

フランス:戦死 37名 負傷者 42~62名

イタリア:戦死 631名 負傷者 2,631名

主にフランス側が要塞や防御拠点にこもって防衛に務めたこととイタリア軍が機械化されておらず、歩兵の突撃攻撃が主だったことがこの数字に現れています。

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9. エジプト侵攻作戦 1940年9月

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概要

主にスエズ運河の通交路を確保するために、リビア東部からイタリア軍機甲部隊がエジプトに侵入。

攻め入るイタリア軍は約24万。一方のイギリス軍は3万6千ほど。 まともにぶつかったらイギリス軍はひとたまりもありません。

結果:イギリス軍の勝利

勢い良くエジプトに侵入したはいいものの、105キロほど入ったシディ・バラニで補給の問題から守備体制に入ることに。

イギリス軍の掃海部隊と散発的な戦闘になった程度で、イギリス軍の主力部隊に遭遇するまでもなく、戦闘らしい戦闘もないグダグダっぷり。守備体制に入ってからは東には進めず、スエズ運河から遠く離れた砂漠のど真ん中で動けなくなってしまいました

イギリス軍は1940年12月、第7機甲師団・第4インド師団の合計3万を投入し大規模な反抗作戦を実施。英地中海艦隊の艦砲射撃を加えた上で攻撃を開始。

歩兵主体のイタリア軍は、機械化されたイギリス軍の前に各個撃破され、最終的に3万8000人が捕虜になりシディ・バラニの陣地は崩壊しました。

 

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10. 北アフリカ戦線 1940年9月〜1943年5月

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概要

北アフリカ戦線が窮地に陥ったイタリア軍はドイツに救援を要請。そこに派遣されてきたのが、有名な"砂漠の狐"ことロンメル将軍

もともとイタリア軍が主体の北アフリカ戦線だったのですが、この頃からドイツ軍が主力になってきます。ドイツ軍は北アフリカなんぞに構っている余裕はなかったはずなのですが、南欧の防衛ラインが崩れたら困りますから多くの戦力を北アフリカ戦線に派遣することになります。

結果:連合軍の勝利

北アフリカ戦線は一進一退の攻防を続けて足掛け3年半も続きました。

ロンメル将軍が駆けつけて1942年6月まではドイツ・イタリア軍は有利な戦いを続けますが、有名なエル・アラメインの戦いで敗北。

その後、東西から連合軍の挟み撃ちにあったドイツ・イタリア軍は守勢に転じ、徐々に消耗して壊滅しました。

イタリア軍の戦い1:ガザラの戦い

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 リビアのトブルク陥落を目指したドイツ・イタリア軍は、イギリス軍への正面突撃と見せかけて南に回った主力部隊が奇襲攻撃をかけるという、大規模な陽動作戦を実施。

途中、自由フランス軍の頑強な抵抗にあい、一時は枢軸国軍は連合軍に包囲されて補給が欠乏。

しかしイタリア軍のトリエステ、アリエテ両師団に守られた補給部隊が到着し、さらに

イタリア第10軍団がイギリス第150歩兵旅団を撃破し、連合国軍の戦線を破ることに成功。

その後後方から駆けつけたドイツ軍によってイギリス軍は各個撃破され、トブルクは陥落。しかし予想よりも多くの戦車が破壊され、機甲部隊も消耗したため西方に逃れたイギリス軍を追撃できずに戦線が膠着してしまいます。

イタリア軍の戦い2:エル・アラメインの戦い

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枢軸国軍が北アフリカの主要な軍港のエル・アラメインの占領を目指した戦い。枢軸国軍からすると、ここを占領して補給路を確保した上で、本格的なエジプト侵攻を目指したいところでした。

しかし実際は、機甲部隊の消耗に加えて、イタリアからの補給船の多くはマルタ島を拠点とするイギリス軍によって撃沈されて充分でなく、しかも当時ドイツはソ連との戦いにほぼ全力を費やしていたため、貧弱なイタリア製が主要な武器でした。

一方イギリス軍は、アメリカ軍の支援を受けかつエジプトからの補給も充分な状態。

そんな中でも勝利を確実なものにするべく、ドイツお得意の陽動作戦を敢行。ハリボテ戦車を大量に作ったりして南に機甲部隊を集めているように見せかけその実、北に主力を集めました。

これに騙された枢軸国軍は圧倒的な戦力の前に徐々に後退。

そんな中、イタリア軍の第185空挺師団は、ほぼ歩兵だけでほとんど機械化されてない圧倒的な不利な状況で獅子奮迅の活躍を見せ、イギリス軍機甲部隊に多大な被害を与えます。

しかし戦力の差は如何ともしがたくロンメルは撤退を決定。

その後、ドイツ・イタリア軍は連合軍の西からの攻撃にもあって壊滅します。

 

11. バルカン半島侵攻作戦 1940年10月〜1941年5月

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概要

 かねてアルバニアに傀儡政権を樹立させていたイタリア。

ムッソリーニは南の親英国ギリシャが攻めてくることを恐れ、先んじて侵攻を決意

また、ドイツはハンガリー・ユーゴスラヴィア・ブルガリア・ルーマニアを影響下において枢軸国軍に組み入れます。それに反発するパルチザンとの戦いも激しさを増し、戦線はバルカン半島全体に広がっていきました。

結果:ドイツに助けられかろうじて勝利

1940年10月に7個師団10万の軍勢でギリシャに侵攻を開始。しかし山岳地帯のギリシャでは機甲部隊が思ったように活躍できず、進軍が遅々として進まない。

そんな中、ギリシャのゲリラ部隊が山岳地帯ならではの戦法でイタリア軍を苦しめ、友軍のアルバニア軍は士気が低く、逃走や寝返りが相次ぐ。

ムッソリーニは援軍10万を追加派兵するも、イギリス軍がギリシャの支援に回ったことでアルバニア・ギリシャ国境付近まで押し戻されてしまいます。ここでムッソリーニはヒトラーに支援を要求。ドイツ軍3個師団が投入されて反転攻勢に転じたことでギリシャ軍は総崩れになり降伏しました。

イタリア軍の戦い1:ピンドゥスの戦い

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交通の要衝メツォボを占領すべく、ユリア・アルピーニ師団2万3000は冬の冷たい雨の中40キロのピンドゥス山の行軍を敢行。ボボウサにまで到着しますが、補給が不足して足止め状態に陥り、さらにギリシャのゲリラ部隊に包囲され孤立してしまいます。

 師団を助けようとして送られたアルバニアの援軍もギリシャ軍を突破できず。

占領したサマリナとボボウサをギリシャ軍に奪回され、ユリア・アルピーニ師団は1674名の死傷者を出して何とか前線から撤退。

ギリシャ軍はこの勝利に勢いづき、一時はアルバニアに攻め入るまでになりました。

イタリア軍の戦い2:マタパン岬沖海戦

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イギリス軍のギリシャへの補給路を断つ目的で、イタリア海軍の戦艦ヴィットリオ・ヴェネトを始めとして巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦17隻を派遣。

イギリス軍は暗号解読でイタリア軍の手の内を全て把握しており、空母フォーミダブルを含む戦艦3隻、軽巡洋艦7隻、駆逐艦17隻で迎え撃ちます。

イギリス軍は空母からの航空機攻撃を始めとして終始戦いを優位に進め、戦艦同士の戦いでも巡洋艦フィウメ、ザラ、ポーラ、ヴィットリーオ・アルフィエーリが相次いで沈没。一方、イギリス軍はほとんど無傷

この結果、地中海の制海権はイギリスに握られイタリア海軍は本国沿岸を防御するのが手一杯の状態に。

シーレーンを握られ、北アフリカ戦線への補給に多大な影響を与えることになりました。

 

12. シチリア防衛戦 1943年7月〜8月

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概要

北アフリカの枢軸国軍が壊滅し、またシーパワーを完全に握った連合軍は、北アフリカの目と鼻の先にあるシチリア島への上陸作戦を敢行(ハスキー作戦)。

いよいよ国土防衛戦となったイタリア軍は、グッツォーニ将軍のイタリア第6軍を主力し、20万のイタリア兵と7万のドイツ兵で防衛を固めました。

ドイツ軍は精鋭部隊のヘルマン・ゲーリング装甲師団と第15パンツァーグレネーダー師団が派遣されました。

結果:連合軍の勝利

モンゴメリー大将のイギリス軍は東南部に上陸し、北東部の町メッシーナを目指す。

パットン中将のアメリカ軍は南西部に上陸し、北西部のシチリアの中心都市パレルモを目指す。

上陸当初はヘルマン・ゲーリング装甲師団やイタリア・リヴォルノ歩兵師団の善戦もありましたが、戦線全体で見ると厭戦気分の高かったイタリア軍は戦意が低く、担当の西部戦線は完全に崩壊。雪崩をうったように連合軍に降参します。

ドイツ軍のフーベ大将はまだ戦う意志のある残存イタリア軍を配下に吸収し、北西部に防御陣地を構えるも、メッシーナ海峡の制海権を連合軍に奪われそうになったため、イタリア本土に撤退を決意しました。

 

その後 

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連合軍のシチリア奪取がきっかけでムッソリーニは逮捕され、パドリオ将軍を元首とする政権が発足。パドリオは連合軍がイタリア南部に上陸した際に連合軍に降伏します。

イタリア王国はその後ドイツに宣戦布告するも相変わらずぱっとしませんでした。

ムッソリーニはその後ドイツ軍によって奪還されて北イタリアにイタリア社会共和国を樹立し戦争を続行。

 イタリア半島防衛戦は1945年5月まで続きました。

 

 

まとめ

イタリア王国の戦争を全3回に渡って見てきました。

 超スーパーサマリですし、概要をざっと舐めただけなのでここから何か結論を得ようと言うのはあまりにも早計な話なのですが。

いわゆる「イタリア軍が弱い」と言われるのは、今回の第二次世界大戦のグダグダっぷりや、エチオピア軍に敗れたアドワの戦いのイメージが強いためだと思います。

全体で眺めると、イタリア軍の苦戦の原因は主に以下に尽きる気がします。

  • 貧弱な工業力・物資生産能力
  • 有能な指揮官の不足
  • 指導層の見通しの甘さ

悲劇なのは、これを「兵士の質」でカバーしようとした点。

劣った装備でオーストリア軍相手に暴れ回った第52アルピーニ師団や、

火炎瓶だけでイギリス機甲部隊に立ち向かった第185空挺師団など、

ほとんど気合いだけで活躍した部隊はたくさんいますが、そんな芸当ができるのはほんの一部。ほとんどの部隊は貧弱な武器・弾薬・補給品。まともに戦えるわけがない。

「イタリア軍は弱いのか」という疑問の回答は「確かに弱い」。

ただそれは、組織的な構造に依るものが大きく、「イタリア人は戦争が弱い」ということには直結しないはずです。