城を攻める・城を守る
歴史の花形といえばやっぱり「会戦」です。
カリスマ性のある将軍・参謀たち、綿密に練られた戦略、技術の結晶である武器弾薬。
諜報・情報戦略、兵站戦略、経済戦略。
それらが力と力になってぶつかる会戦こそ、歴史の最大の魅力といえると思います。
一方で地味なのが、攻城戦。
城に籠る敵を囲んで、攻め入るチャンスをひたすら待つ。とにかく待つ。
実際、会戦というのはあまり行われず、戦争は大概がこの攻城戦でした。
そのため、戦争のノウハウはこの攻城戦に詰まっていると言えるのです。
今回は中国史に注目して、中国の城の特徴と攻城兵器、そして城攻めの事例をいくつか紹介します。
中国の城はどういったものか
中国の伝統的な城
中国の伝統的な城壁は「版築」と言われる技法で作られました。
まずは2列に並べた柱の間に、縄で固定した2枚の石板を平行に置きます。
その中に土を入れて、上から突き固めます。
これを何万回、何十万回と気の遠くなるほど繰り返し、
縦に伸ばし、横に伸ばし、高く分厚い城壁を作っていきます。
明代以降の城
明代以降は、城壁を磚(せん)と呼ばれる焼煉瓦で構築することが普通になり、
有名な万里の長城もそれで作られています。
城壁の上には弩や大砲を設置して防御力を上げ、
最も弱い城門には「月城」という補助壁を設けたり、吊り橋をかけたりして防御力を上げる場合もありました。
城の規模
城と言うと我々日本人は、大阪城とか姫路城とかを思い出しますが、
中国の城とはスケールが全然違う。
例えば、中国の戦国時代の斉の国の首都・臨淄(りんし)は16キロもの城壁に囲まれ中に70,000戸もの家があり、 それ自体が1つの「城」でした。
後の北宋の首都・開封は20キロ以上の城壁に囲まれ、人口は100万人を数えた世界第1の都市でした。
行政機関だけを防御した日本とは違い、中国は町全体をマルっと壁で覆って防御したのです。
墨家の兵器一覧
春秋戦国時代に活躍した諸子百家の一派・墨家は、侵略戦争を否定し「非攻」を掲げましたが、どこかの国の平和主義者のように平和を念仏のように唱える連中ではなく、平和のために自ら武力を行使する実践主義者の集まり。
当時の中国の最先端の兵器を持った、流浪のハイテク武装集団でした。
その思想をまとめた書物「墨子」には、彼らが用いた兵器の数々が記されているので、ここに一部を紹介します。
衝車
上記図は後代のものです。
外を皮で覆った5層の攻城塔で下部に車輪があり、城壁に接近して防御兵器を破壊した後、橋をかけて兵士を侵入させます。
雲梯
攻城塔と発想は同じで、塔にハシゴをかけて兵士を次々と登らせて、城壁の一部を制圧させます。
轒轀車(ふんおんしゃ)
皮で外側を覆った車の中に兵士が乗り込み、城壁の近くにまで行って壁を物理的に破壊します。この内部に壁を破壊する槌が装備されていることもあります。
その他
その他、穴を掘って地下から城壁を破壊したり、河川を決壊させて水攻めにしたり、
場合によっては集団で兵士を壁に取りつかせ、人力で城壁を壊す、という無茶な人海戦術を取ることもありました。
後代の兵器一覧
投石機
現代の大砲みたいに爆発するものではなく、てこの原理で重量のある石を投げて物理的に城壁や建物を破壊するものです。
元軍が使用した回回砲(フィフィ砲)が有名で、その名の通り西方のイスラム教徒から入手した技術でした。
猛火油機
いわゆる、火炎放射器です。
これは防御兵器で、ハシゴを登ってくる兵士に向かって火炎を浴びせかけました。
震天雷
日本では、元寇の際にモンゴル軍が使用したと言われる「てつはう」の名前で有名ですね。火薬を炸裂させて、中に含ませた陶器の破片を散らせて敵を傷つける手榴弾の一種です。
火箭(ひせん)
引用:hkgalden.com
いわゆる、ロケット弾です。
火薬を用いて、よりたくさん、より遠くに、より重量のある矢を飛ばすことができました。
それでは次に、これらの攻城兵器を用いてどのように攻城作戦を実行したか、事例を3つほど見ていきましょう。
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戦例1:陳倉の戦い 229年
229年、蜀の諸葛孔明は魏が主力を呉方面に展開している情報を掴むと、第二次北伐を開始。魏の将軍・邦昭が立てこもる陳倉を包囲します。
攻撃1:城壁に梯子をかける
蜀軍は、雲梯と衝車を出動し、城壁を登ろうとします。
しかし魏軍は上から火矢を浴びせかけて雲梯を焼き払い、
縄をつけた石臼を上から落として衝車を潰してしまいました。
攻撃2:土を城壁と同じ高さにまで盛る
次に蜀軍は高楼を立てて内部を攻撃する一方で、土を盛って城壁と同じ高さにまでして城壁を超えようとします。
しかし魏軍は城壁にさらに柵を築いて防御を強化したため、この攻撃も失敗に終わります。
攻撃3:地下トンネルから侵入する
最後に蜀軍は地下道を掘り、下から城壁内に侵入しようとしますが、
魏軍もこれに対抗して城内から地下道を掘り反撃したため、またまた失敗します。
結局戦線は膠着し、魏の援軍が来たため、諸葛孔明は軍を撤収しています。
戦例2:玉壁の戦い 546年
6世紀に北魏は東魏と西魏に分裂し抗争していました。
546年、東魏の高勧は40万の大軍で西魏に侵攻。交通の要衝である玉壁を攻めます。
攻撃1:人口の山から内部に攻撃を加える
高勧はまず南に人口の山を作り、高低差を利用して攻撃を加えます。
それに対し、玉壁を守る韋孝寛は南壁にある高楼に木をしばってさらに高くし、防御力を上げて対抗します。
攻撃2:地下トンネルから侵入する
次に高勧は地下道を掘り、城の内部に兵を侵入させようとします。
これを察した韋孝寛は、壁に沿って塹壕を掘ります。東魏の工兵が塹壕に出てきたところで捕獲・殺害。地下道に残った兵はふいごを使って焼き殺します。
攻撃3:攻城兵器で壁を破壊する
高勧は攻城戦車を作って壁の破壊を試みます。
これに対し韋孝寛は、丈夫な布を張って戦車の侵入を阻止。
東魏は竿に松明をつけて布を燃やそうとしますが、西魏は長い柄のついた鉤で竿をチョン切ったので、これまた作戦は失敗。
攻撃4:多方面から地下トンネルを掘る
高勧は再び地下からの攻撃に切り替えます。
東西南北からいっせいに掘り進め、多くは発見されて潰されるも、
いくつかの穴が発見されずに壁の下に到達。下から城壁を崩落させることに成功します。
しかし韋孝寛はただちに崩落した箇所に木で柵を作ったため、侵入が阻止されます。
ここに置いて戦線は膠着。60日に渡って続いた包囲戦は東魏軍の撤退という形で幕を閉じます。
戦例3:平江の戦い 1366〜1367年
1366年、朱元璋は将軍徐達に命令して、張士誠の本拠地・平江に侵攻。
主城である蘇州城は分厚い城壁、深い水壕に囲まれた難攻不落の名城。
まともあたったら大損害は免れないと考えた徐達は、「兵糧攻め」を実施。
城を厳重に包囲した上で、別働隊に張士誠軍の付城を落とさせます。
蘇州城を孤立させた上で、大砲100門以上で城内へ連日砲撃。
徹底的に城側の士気を落とさせる戦略です。
数ヶ月もたつと城の食料は底を尽き、ネズミ1匹が百銭で取引されるほど飢えるまでに。
頃合いを見て徐達は蘇州城に総攻撃を加え、張士誠軍は皆殺しにされ、城は陥落しました。
まとめ
古今東西、攻城戦で重要なのは臨機応変さと機動力だったのだろうなあと思います。
オスマン帝国のコンスタンティノープル陥落みたいに、力でねじ伏せた例もありますが。
特に中国の場合は、兵士も兵器の質もほぼ同じで打ち手なんてほとんど決まっていたでしょうから、いかに相手の意図を読み取り先んじた行動が取れたかが重要だったに違いない。
そしてその臨機応変さを可能にするのが、統率力、そして兵と物資の動員力を可能にする経済力と人脈。
当たり前ですが、指導者の質が国力に直結していったのでしょうね。