抗いがたい甘い誘惑
ケーキ・チョコレート・アイスクリーム。
特に女性はスイーツが大好きですね。美味しいスイーツの話をしている時のあの、目のトロリン具合は何なんでしょうか。
普段甘いものを食べないぼくでさえ、めちゃくちゃ疲れている時はチョコが食べたくなります。身体が糖分を求めているのだな、と要求を受け入れてレジに向かいます。
子どもが甘いものが大好きなように、甘味は人間が本能的に欲求するもの。当然、甘味や砂糖を巡って、歴史が動かされてきました。
人類を魅惑してやまない「甘さの歴史」について調べてみました。
サトウキビ到達以前の甘味
サトウキビはニューギニア原産ですが、それを砂糖に生成したのはインド人でした。インドでは砂糖が古くから親しまれていましたが、遠く離れた古代地中海世界ではまだ全く知られていない存在でした。
アレクサンダー大王がインドに遠征した際の記録で、「当地には甘い草がある」とありますが、これが故国マケドニアまで持ち帰られることはありませんでした。
古代ギリシア・ローマ人たちの甘味欲を満たしていたのは、蜂蜜。
当時蜂蜜は「史上最高の味」であるとされ、聖書では地上の楽園のことを「乳と蜜の流れる土地」と表現しています。
例えば古代ローマの貴族は、ワインと蜂蜜を割った「ムルスム」という酒を愛飲していましたし、大麦で作ったお粥を蜂蜜やチーズと一緒に食べていました。
当代きっての美食家・アピキウスは古代ローマのレシピ本を残していますが、その3分の1は蜂蜜を使ったレシピだそうです。
イスラム教と砂糖の拡大
イスラム教は613年に興ってわずか100年後にはイベリア半島に到達しますが、その過程でサトウキビ栽培と精製方法も伝播されていきました。
当時砂糖は医薬としての用途が主で、11世紀の大学者イブン・シーナーは「砂糖こそが万能薬である」と断言しています。今でこそ万病の元みたいな扱いですが、当時は砂糖の効能が細かく分類・記載されており、真面目に砂糖と病気との関連性が研究されていました。
カロリー摂取量が低かった当時、単純にエネルギーを与えてあげるだけで自然治癒する患者が多かったからだと思われます。
断食の日に砂糖を食べることは神の教えに反するか?
11世紀に入ると十字軍国家が中東に成立し、ヨーロッパと中東との物資交流が盛んになります。砂糖もこの時に本格的にヨーロッパに流入し、瞬く間に大人気を博しました。
と同時に、当時のヨーロッパの人たちは困惑しました。
この砂糖なる食品を、キリスト教の断食の日に食べることは神の意に反する行為か否か。
おそらくあまりに急速に普及したからどういう食べ物か人々の定義もままならず、断食の日に砂糖を売ったり食べたりする人が続出して、色々問題になっていたのでしょう。
この当時の人たちにとっての重大問題を裁くのは、時の大学者トマス・アクィナス。
生唾を飲み込んで彼の判決を聞く観衆。
「砂糖は消化を助ける"薬"であるからして、これを食べても断食を破ったことにはならない」
おそらく多くの人はホッと息をなで下ろしたことでしょうね。
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紅茶+砂糖
中国で生まれた茶が、最初にヨーロッパに紹介されたのは16世紀ごろと言われています。
最初に茶に砂糖を入れた人物はわかりませんが、その美味しさたるや、すぐにヨーロッパの上流階級を虜にしました。甘い茶を客に供することは、主人のステイタスシンボルとなったのでした。
やがて上流階級だけではなく、中産階級にも紅茶と砂糖の組み合わせは広がり、砂糖の爆発的な需要を生み出します。
新大陸でのサトウキビ栽培
1492年のコロンブスによって新大陸が発見されますが、その新大陸というのはどうも砂糖の栽培に最適だったようで、コロンブス到達の15年後には既に、大規模な砂糖のプランテーションが稼働し始めています。
16世紀半ばにはアメリカ大陸には3万人以上もの奴隷が製糖所で働いており、これらの奴隷を供給していたのはアフリカ西海岸でした。
ヨーロッパからは武器や繊維品がアフリカに送られ、アフリカからは奴隷がアメリカに送られ、アメリカからヨーロッパには砂糖が送られ、という三角貿易が成立。
砂糖を中心に、大西洋のグローバル経済が作られていったのでした。
日本人と砂糖
日本人も魅了した砂糖
日本には奈良時代に、唐の僧・鑑真の船で持ち込まれたと考えれています。
長らく大変貴重なもので、権力者しか口にできないものでした。
15世紀半ばから茶の湯が流行すると砂糖菓子がお茶うけとして流行。
室町8代将軍足利義政は特に甘党だったらしく、「砂糖羊羹」なるものを禅僧に振る舞ったと記録にあります。
その後南蛮貿易がさかんになり、金平糖やカステラといったポルトガルのお菓子が日本人を魅了します。
このころ明や琉球から日本に輸出される品物の中で砂糖は大きなシェアを占めていました。
明治維新を支えた奄美大島の砂糖
1609年に薩摩藩は琉球に軍事進攻し、首里城を陥落させます。講和条件として奄美大島を割譲させ、薩摩は大規模な砂糖栽培に乗り出します。
薩摩藩は島民に米などの作物を制限しとにかく砂糖を奨励。そのため、ひとたび不作になるとすぐさま飢饉になる過酷な統治でした。
薩摩は奄美大島からの収奪によって軍備や教育、インフラを整備し、それはひいては江戸幕府を倒して維新政府を打ち立てる原動力になっていきます。
革命の味・甜菜糖
新大陸発見以降、砂糖のほとんどはブラジルや西インド諸島、北アメリカ産になり、それらを一手にヨーロッパに卸すイギリスは莫大な富を上げました。
ところが1806年にナポレオン1世が、傘下に収める欧州諸国を巻き込んでイギリスを欧州経済圏からはじき出す「大陸封鎖令」を発令すると、欧州に砂糖がほとんど入ってこなくなりました。
ここで代替品として普及したのが、甜菜から作る甜菜糖。
もともと甜菜は牛や羊に食わせる飼料でした。
しかし1745年にドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフ が甜菜から砂糖を分離することに成功。その弟子であるフランツ・アシャールが砂糖の製造試験に成功しました。
すぐに工場を建設して量産化をしましたが、正直味は良くなく、飼料という偏見もありさっぱり売れませんでした。
ところが大陸封鎖令のおかげで需要が伸び、いっきに甜菜の栽培が欧州各地に普及しました。
ノンカロリー物質の発見
1879年、ジョンズ・ホプキンス大学でコールタールの研究をしていたコンスタンチン・ファールバーグが、自分の合成した物質をたまたま口に入れて、それが異常に甘いことに気がつきました。
その物質は砂糖の300倍も甘く、体内に吸収されないためカロリーもないという夢のような物質。ファールバーグはこの物質をサッカリンという名で売り出し、莫大な利益を上げます。
その後、ズルチンやチクロ、アスパルテームといった物質が生み出されますが、現在ゼロカロリー食品などに主に使われるのは「スクラロース」と呼ばれる化合物で、1976年に偶然発見されました。これは砂糖の600倍も甘く、しかも人体に害はないため多く利用されています。
最近だとさらに、砂糖の1万倍甘いというネオテームや、22万倍甘いというラグドゥネームなど、新しい甘味料が次々と生み出されているのです。
まとめ
現在日本の糖尿病患者は、予備軍も含めると2300万人もいると言われています。6人に1人は糖尿病という計算です。恐ろしい…
藤原道長は糖尿病を患っており、肥満体であった身体が晩年は急速にやせ、やたら水を飲むようになり、体力と視力が急速に衰え、最期は背中のできものが致命傷となって死んだそうです。
糖尿病リスクをなくす方法はシンプル。
1日の糖分摂取量を減らせばよいのです。
なのに、毎年増えていっている糖尿病患者。
いくらノンカロリーの甘味料が発達しているのに、やはり砂糖の魅力には勝てないみたいです。
参考資料:「炭素文明論」佐藤健太郎 新潮社
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