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幻の南北統一政権・朝鮮人民共和国

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1ヶ月しかもたなかった朝鮮統一政権

現在、朝鮮半島と言えば北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と、南の大韓民国(韓国)の2カ国が存在します。

日本からの解放後、ソ連と中国に支援された北と、アメリカを中心とする国連に支援された南に別れ朝鮮戦争が戦われました。

結果2つに分裂したまま、現在も休戦状態が続いています。

ところが、日本敗戦後のわずかな期間、「朝鮮人民共和国」という右派左派が入り交じった統一朝鮮の政権が存在しました。

 1. 大韓民国臨時政府主席・李承晩

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 1910年に大韓帝国は日本に併合されますが、独立運動も盛んに行われていました。

しかし日本当局の弾圧は厳しく、朝鮮人独立運動家は海外に拠点を移して活動を行っていました。

1919年の三・一独立運動が鎮圧されたの機に、上海に「大韓民国臨時政府」を樹立したのが、後の初代韓国大統領でもある李承晩(イ・スンマン)

 臨時政府は中国国民党の蒋介石と共同戦線を張る約束を取りますが、内部は派閥抗争が続き、李承晩もハワイに亡命して活動を行ったりなどのグダグダっぷりでした。

そのような状態だったので大戦中は連合国軍からもあまり相手にされず、

ようやく太平洋戦争末期に米軍の特殊訓練を受けていたところに終戦となりました。

 

2.  抗日パルチザンの英雄・金日成

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 一方、満州やロシア・沿海州を中心に抗日パルチザンを繰り広げていたのが金日成

中国共産党配下の朝鮮人部隊長に過ぎませんでしたが、朝鮮領内の小さな町・普天堡の略奪と焼き討ちに成功して名を馳せます。

1940年3月25日、前田武一が率いる討伐部隊140人のうち120人を壊滅せしめることに成功

※ちなみに死亡した前田隊の大部分は朝鮮人だったそうです

その後、他の朝鮮人部隊が壊滅したり日本軍に投降する中、金日成部隊はソ連に逃亡し、終戦を迎えます。

 

3. 日本、呂運亨(ヨ・ウニョン)に接触

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 1945年8月10日、日本はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をすることを内定。

 そこで、12日に朝鮮人独立運動家の呂運亨(ヨ・ウニョン) と接触します。

呂運亨は大韓民国臨時政府の立ち上げにも携わった独立運動家でしたが日本人にも人気があり、吉野作造が「稀にみる高潔な人物」と誉め称えたほど人徳がある男でした。

共産主義に共鳴して23年に臨時政府を離れ、上海でタス通信(ソ連の国営通信社)で働いた後に朝鮮に戻り、

「民族主義運動の高揚は、まず言論とスポーツから」

として朝鮮中央日報社の社長や朝鮮体育会の会長を務めていました。

朝鮮総督府は呂運亨に行政権の移管を打診

この日が来ることを待ち望んでいた呂運亨は、さっそく独立に向けた準備に取りかかります。

 

4. 呂運亨、建国準備に奔走

8月15日、朝鮮総督府と呂運亨は再度打ち合わせを行い、その日に朝鮮建国準備委員会(建準)を設立。

同時に治安部隊を組織し、既存の警察組織を接収し、全土に建準の支部を作っていきました。

呂運亨は組閣にあたり、右派左派の大団結を呼びかけますが、

右派は「朝鮮総督府と交渉した政権は日帝の傀儡だ」として、

独自に韓国民主党や韓国独立党といった独自政党を樹立してしまいます。

そういった経緯もあり、建準は左派が多くなりますます保守派が逃げ出す、という状態になってしまいます。

 

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5. 朝鮮人民共和国建国

内部のゴタゴタはありつつ、9月6日に建準は全国人民代表大会を開催し、朝鮮人民共和国の建国を宣言。

発表された朝鮮人民共和国の閣僚は以下の通り。

  • 大統領:李承晩(右派)
  • 副大統領:呂運亨(左派)
  • 首相:許憲(左派・弁護士)
  • 内相:金九(右派・独立活動家)
  • 外相:金奎植(左派:独立活動家)
  • 財相:曹晩植(右派:宗教家)

さらに選出された55人の委員には金日成も入っており、当時の著名人たちがキラ星のように名を連ねていました。

朝鮮民族の団結を高らかにアピールするものでしたが、李承晩や金日成など多くはまだ海外におり、本人たちの了承なく勝手にリストに名前を書いただけの代物でした。

 

6. アメリカ軍、共和国を否定

共和国の施策方針として

  1. 朝鮮の自主独立
  2. 反帝反封建の民主主義実現
  3. 民衆の生活向上
  4. 国際平和共存という政綱4原則
  5. 日帝や民族反逆者の土地没収と農民への無償分配
  6. 私企業の没収と国有化 

上記をまとめますが、5や6などかなり左派色が強い内容。

これに韓国民主党などの右派は反発を強めます。

9月8日にアメリカ軍が仁川港に上陸すると、呂運亨はアメリカ駐留軍のロッジ中佐に会おうとしますが、「日本の手先」として面会を拒否されてしまい、

さらに3日後に軍政庁を発足させて、「軍政庁が南朝鮮の唯一の政府である」と布告。

独立を認める政府はあくまで国連の元で決められなければならず、朝鮮総督府とのいかなる協約も無効、という立場でした。

 

7. 李承晩帰国、共和国を無視

建準委員会はそれでもめげずに総選挙の準備を進めていましたが、 

軍政庁に「選挙の実施は我々に対する敵対行為」として非難され、解散を命じられてしまいます。

呂運亨はアメリカとコネを持つ李承晩が建準に合流することを期待しますが、

当李承晩は

「大韓民国臨時政府こそが唯一の正統な組織」

であるとして共和国を無視。 

 

8. 金日成帰国、建準は蚊帳の外に

 朝鮮北部にはソ連軍が進駐し、建準はソ連から行政権を移管されていましたが、

10月に金日成がソ連から朝鮮に帰国すると、完全にイニシアチブを取られてしまいます。

呂運亨は軍政下で政治活動を続けようとしますが、とうとう軍政庁に非合法化され、息の根を止められてしまいます。

 

9. 南北分断

 その後、ヤルタ会談による南北統治案が明るみに出ると、

これを巡って右派左派問わず侃々諤々の議論が勃発。

呂運亨はここでも右派左派の大団結を呼びかけ、一時はとりまとめかけますが、

47年に右派が大量離脱をして頓挫。結局48年に大韓民国として独立します。

 

 

その後

呂運亨はその後、47年7月にテロで暗殺されてしまいます。南北統一に情熱を注いだとして、現在韓国からも北朝鮮からも評価されている数少ない人物の1人だそうです。

呂運亨以外にも、建準に携わった人物たちはことごとく暗殺されたり、殺されたりしています。

「街道をゆく 韓のくに紀行」で司馬遼太郎が書いていましたが、韓国・朝鮮人は、とにかく議論好きな民族だそうです。

100人集まったら100人それぞれが好き勝手を言い、議論は白熱し盛り上がるが結局何も決まらない。 

そんな民族性が悪い方向に出たのが、この一連の顛末な気がします。

その後の悲劇を見たら、呂運亨が求めたような大団結をすべきだったのでしょうね。

団結したところでまた分裂しちゃうのかもしれませんが・・・

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