越が呉に送り込んだ最終兵器
西施(せいし)は紀元前500年前後に実在した中国の女性。
とんでもない美貌の持ち主だったそうです。
その美貌は、呉への復讐に燃える越王・勾践の耳にも届き、
西施は呉王夫差をその美貌で骨抜きにする任務を背負わされます。
新年一発目は、「美人の計」の道具とされた西施の生涯を追っていきたいと思います。
1. 宿命のライバル呉・越
越と呉は半世紀近くにも渡る壮絶な戦いを繰り広げていました。
ライバルが同じ場に出くわすことを「呉越同舟」ということわざで残っているほど、後世にまで聞こえ高いライバル関係です。
紀元前496年、越王勾践は攻め込んできた呉の軍を奇策で破り、その戦いのときの流れ矢が原因で呉王闔閭は死去。
憎しみを忘れないため固い薪の上で寝るほど打倒越に燃える呉王夫差は、前494年の戦いで大いに越を打ち破ります。
越は呉に隷属する形となり、越王勾践は呉王夫差に前にひざまずき、ようやく帰国の許しを得て生きながらえます。(会稽の恥)
越王勾践はこの屈辱を忘れないために、部屋に苦い肝を吊るし毎日それを舐めることで呉への復讐を新たにしていました。(臥薪嘗胆)
2. 評判の美女・西施
西施は、越の山中にある施という姓の者が集まる部落の生まれ。
毎日薪を切ったり、薄衣を洗ったり、普通の村の女性として生活をしていました。
ところが彼女は評判高き美貌の持ち主。
「荘子」にこのような逸話があります。
西施は胸を患ってしまった。そのため、苦しげに胸に手を当て痛みに顔をしかめていたが、眉をひそめたその姿が美しく、近所の男連中の評判になった。
それを見た村の醜女が、「西施の仕草を真似れば自分もモテるだろう」と思い、胸に手を当て顔をしかめて村中を歩き回ったが、ますますブサイクに。
そのブサイクっぷりは、「金持ちの家は恐れをなして門を固く閉ざし、門のない貧しい者は妻子を連れて逃げ出す」ほど酷いものだったそうです。
ちょっとこれ言い過ぎな気もしますけど(笑)、いかに西施が美人として聞こえ高い存在だったかが分かるエピソードです。
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3.越王に召還され、密命を受ける
そのような西施の美人っぷりが、越の智者である范蠡(はんれい)や文種(ぶんしょう)の耳に届きます。
彼らは西施を勾践の妾にするのではなく、呉を滅ぼすために「兵器」として西施を使うことを思いつきます。
すなはち、その美貌で呉王を骨抜きにし、内側から呉を解体してしまう、という策です。
早速西施は越の後宮に呼ばれ、王に直々に勅令を受けます。
当初は何のこっちゃ分からなかったかもしれませんが、彼女はその運命を受け入れるのです。家族や村に莫大な恩賞金でもあったのかもしれません。
すぐさま、普通の田舎娘から王の美姫になるためのトレーニングが開始。貴人としての作法、歌舞のたしなみ、そして夜のテクニック等々。
たっぷり数ヶ月の訓練の後、いよいよ越王勾践の愛妾という設定で呉王夫差のもとに渡ることに。
4. 呉王・夫差のもとへ
越の范蠡は首尾よく呉の宰相・伯嚭(はくひ)に賄賂を渡して、 西施を呉王夫差に紹介する段取りを整えていました。
大王様、この者は越王勾践の愛妾の西施という者にござります
西施を見た夫差の目の色が変わります。宰相は続けます。
越王は自らの愛妾を大王様に捧げるほど、服従の意を示している所存です
そうかそうか、とご機嫌の夫差。早速、西施を側に侍らせます。
特訓の結果もあり、西施は夫差のお気に入りの妾に。
次第に夫差は政治をおろそかにし、西施と過ごす時間を増やしていきました。
5. 内部から呉を蝕む西施
おねだり作戦
西施は、あらかじめ教えられていた通り、呉の国力を削ぐために贅沢三昧を夫差に要求します。
夫差は国庫の金をつぎ込んで西施のために次々と庭園や離宮を作ります。越の意図に気づいた部下の伍子胥(ごししょ)が夫差を諌めても、聞く耳を持ちません。
西施の毒は、広く、確実に、呉の国を蝕んでいきます。
西施のための贅沢な庭園・館娃宮
西施のために造園された、館娃宮(かんあいきゅう)。
春には花が咲き乱れ、夏は冷たい井戸水で水浴びをし、秋には紅葉が目を楽しませ、冬は洞で暖を取る。
西施が訪れるたびに大規模な響宴や歌舞が催されます。
西施はキャッキャと喜び、夫差も満足げな笑顔を浮かべる。
…任務に徹した女は恐ろしいですね。
6. 越の進撃、呉滅びる
内部から弱体化する呉
西施に夢中になり、次第に大臣たちの意見を聞かなくなった夫差。
次第に、越と通じている宰相の伯嚭(はくひ)の意見のみを聞くようになります。
伯嚭(はくひ)は心ある臣下を左遷させたり、越以外の国に大規模な軍勢を送ったりなど、積極的に呉の弱体化に加担。
この男も大概ですよね。
越の侵攻、呉の崩壊
越はこの間20年、辛抱強く国力を蓄え、乾坤一擲のチャンスを待っていました。
勾践の越軍は呉の領土に怒濤のごとくなだれ込みます。
前473年、夫差は宮殿のあった姑蘇城で捕われて降伏。自殺して果て、ここに呉は滅びます。
まとめ
呉が越に滅ぼされたのはもちろん西施だけの力ではなく、当然様々な要員や条件があってのことです。
ただ、西施の存在はきっと、呉がさらに強力にのし上がっていくための財政やリソースのポリシーを狂わせてしまったのだろうと思います。
財政の健全化がうまくいかなくなってきて、官僚や軍の人材の硬直が発生し、組織としての柔軟性を欠いたところに、越の軍隊の侵入があり対処しきれずに滅びてしまった。
そもそも、宰相・伯嚭(はくひ)が越に通じて賄賂を受け取っている時点で、組織としてほころびてますよね。
さてその後、西施がどうなったかの資料は存在せず、
呉の滅亡の際にどさくさで殺されたとも、役目を終えたことを悟り自ら命を断ったともいいます。
しかし、どうなんでしょう。
愛する故郷があるとはいえ、20年も敵国の王様の元にいて、心情の変化はないものでしょうか?
もし20年もの間、越王との任務を心に秘めていたとしたら、常人でない意思の強さですよね。