ブルジョワが大衆を取り込んだフランス革命
フランス革命と言えば、みなさんご存知の通り、18世紀にフランスで起きたブルジョワ市民革命。
革命により、ブルボン王朝の絶対王政は倒されて、近代的な共和制国家が誕生します。
革命はブルジョワ階級が中心になって展開していくのですが、
目を引くのがブルジョワが革命を通じて大衆運動を取り込んでいき、あまつ大衆社会・文化を解体していこうとする試みが浮き彫りになっているところです。
フランス革命の全史はまた別の機会にやりたいのですが今回は、
フランス革命中にブルジョワがいかに大衆運動を取り込み、大衆の変革を試みたかについて書いていきます。
1. ブルジョワとは何か
革命を率いた「ブルジョワ」とは?
定義で言うと「ブルジョワ」とは、「都市に暮らす年金生活者」のことを指します。
ここで言う年金とは広い意味を持っており、家や田畑などの不動産収入、国から受け取る報酬、工場や商店の売り上げ収入などが該当します。
要は、汗をかかなくても、座ってるだけで収入が入ってくる立場の人を総じてブルジョワと言います。
一般大衆がブルジョワになる
例えば、ある男が農民から小麦を買い付けて市場に卸す仕事をしていたとします。
彼は長い間せっせと働き、余計な散財もしなかったので、ある程度の金が手元に溜まりました。
そこで男は金を使って家や土地を買い、同時に「官職」を買います。
徴税官、行政官、司法官など、当時のフランスの官職は金で売買されるものでした。そして、買った職は世襲することができました。
この男は一般大衆でしたが、こうして官職を買って国から報酬を貰う立場になることで見事ブルジョワの仲間入りを果たしたわけです。
ブルジョワは日々の暮らしに余裕があるだけでなく、社会的区別も、生活様式も一般大衆とは異なっていました。
例えば、食事をするときも一般大衆とは同じテーブルにつかないし、劇場などでも同じ区画の椅子に座りません。
ちなみに、そうして金をかけて官職を買い求めていけば、最終的にはブルジョワから貴族の仲間入りをすることもできました。
2. 勃興するブルジョワ階級
18世紀は、フランスのみならずヨーロッパ全体で人口が増え、産業がめまぐるしく発達した時代でした。
その中で、先述のような「大衆からブルジョワ」になる人物が増え始め、
また元からブルジョワでも、大規模に事業を多角化することで「年金」を多く受け取る人物が多く出現。
そのようにして多くの人物が社会的な「はしご」を登ろうとしますが、いかんせん限りがある。
資格は充分にあるのに、果実を享受できなかった者たちは元のまま据え置かれます。
そのような「社会的目詰まり」の状態に不満感が高まり、革命へと誘発されていきます。
3. 初期の大衆運動
自然発生的大衆運動
初期の大衆運動の母体は密接な「ご近所関係」にあったようです。
家族はもちろん、父も母も兄弟も従兄弟も近所に住んでいて、仕事終わりに一杯居酒屋にひっかけに行くと、いつもの顔なじみのメンバーがいる。
当時は居酒屋が重要な情報の交換場所であって、市場動向や仕事の工面などあらゆる事柄が話されますが、そこで暴動の相談も行われていました。
ちょっと聞いとくれ!またパンの値段が上がっちまったのよ
昨日油の値段が上がったばかりじゃあねえか!
けしからんな、働き口も少ないのに、お上はどうやってオレたちに生活していけと言うんだ!
みたいな感じで、初期の大衆運動は自然発生的に始まったケースが多く、特に指導者もおらず一貫性もないものでした。
モラル・エコノミー
初期の暴動の理念に「モラル・エコノミー」というものがありました。
これは何かと言うと、「お上がなすべきことをしないから、オレたちでやってやる」という社会的・政治的観念に基づいた考えです。
例えば、小麦の価格が高騰してとても庶民の手に届かないものになってしまった。
本当は国王が価格統制をして、庶民が買える値段にすべきのにそれをやらない。
ということで大衆はワッと小麦輸送車を襲います。で、どうするかというと、輸送車を市場に引っ張り込み、役人を連れてきた上で、適正な価格で売買させます。
略奪もあったはあったようなのですがまれでした。
当時は共同体の中にはある種の規範があり、その規範に乗っ取った上での暴力であれば正当化されました。
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4. 地域行政における有力者の変化
革命期のパリ市"セクション"
革命後、パリ市は48のセクション(区)に再編成されます。
それぞれ自立性の強い行政単位で、それぞれが小国家のようなものでした。
独自に革命委員会、警察、治安判事、また衛兵も管轄し、住民集会でセクションの行政を行っていました。
変化するセクションの有力者
1789年の革命当初は、貴族やブルジョワ上流の人物のみがセクションの委員に選定されていましたが、
1792年の国民公会の選挙が実施される頃になると、ブルジョワの中流階級の人物の名前が見え始め、1793年になると、一般大衆に属する人物がセクションの委員に選ばれ始めます。
革命が進むにつれて階層が下がった人物がセクションに登場してくる。これは何を意味するかと言うと、
一般大衆の活動家がブルジョワの政治的枠組みの中に入り込み、これまで自然発生的だった大衆運動がブルジョワのコントロール下に置かれていった、ということです。
5. 大衆運動の操作と弾圧
大衆運動をコントロールしたブルジョワ
ブルジョワは大衆をセクションの枠の中に取り込むことで、自然発生的に起こる運動を押さえ込み、かつ自分たちが主導する組織的な蜂起の力としました。
セクションの総会で蜂起を決定し、お互いのセクションで連絡を取り合い、蜂起を行う。蜂起のリーダーは革命委員会であったりセクションの議長であったりし、それぞれの役割も明確に定められており、高度に組織化されていました。
ブルジョワと大衆の架け橋になったのが、例えば大工組合の親方だったり、工場長だったり、給料を与える側 / 貰う側という階級の違いはあるものの、
普段一緒の場所で働いていて、大きな社会的格差がない低層のブルジョワたちでした。
ロベスピエール率いるジャコバン派の息のかかった革命委員会の指導の元、そのようなブルジョワたちは大衆の取り込みと操作に尽力します。
ジャコバン派の中の左派・過激派
1793年に独裁体制を作ったジャコバン派は、穏健共和主義のジロンド派や、立憲君主主義のフゥイヤン派と比べると左派でしたが、中にさらに3つのグループを内包していました。
ジャコバン右派のダントン派、ジャコバン中道のロベスピエール派、さらにジャコバン左派の過激派というのがありました。
過激派というのは、セクションのように民衆運動を操作するのではなく、民衆のさせるままに暴れさせることで、その力で民主的な政府を作るという考えでした。
過激派ジャック・ルーの逮捕
ジャック・ルーはセーヌ右岸グラヴィリエというセクションで司祭をしていた男。
食料暴動や政治的蜂起など、ブルジョワの指示は受けずに独自に活動を繰り広げました。
ルーの主張はパリの民衆の願望を最も素直に代弁しているもので、一部に熱狂的なルー支持者がいましたが、セクション内では反ルーの声が強くありました。
1794年、ロベスピエールの指示により、ルーは公安委員会に逮捕。その後獄中で自殺します。
ロベスピエールがブルジョワのコントロールにそぐわない、大衆独自の運動を押さえ込みにかかった形でした。
6. 大衆世界の解体
ブルジョワ 対 大衆
ブルジョワはもともと、大衆とは異なる暮らしを送っていたものの、生活は大衆と同じローカルの共同体にいました。
ところが、18世紀後半になるとローカルな共同たちから離脱する傾向が出始めます。
粗野な大衆の祭りや祝祭から離れ、ブルジョワ同士の社会的結合関係を作ろうとします。
例えば、文化サークルや、カフェ談義、社交クラブなどがそれです。
ブルジョワはそれらのコンテクストに立ち、大衆文化を否定し、上からの新たな文化の創生を図ります。
具体的には、カーニバルの否定と国家祭典の策定などがそれに当たります。
中央集権を目指すための大衆文化の破壊
革命では、アンシャン・レジームの領主権、ギルド権、売官制などを廃止し、これまで個々の有力者が保持していた権利を国家に掌握させました。
そんな中央集権的な共和国家を実現するに、最も大きな壁が伝統的な大衆社会でした。
農村の階層化による商品経済の浸透、地方行政・慣習・教育の統一化など、近代国家を作るうえで中世から連綿と続く、先述のモラル・エコノミーのような、大衆のコンテクストの破壊は急務でした。
そこで先述のセクションのように、ブルジョワが大衆の一部を取り込むことで、上からの意識改革と構造改革を目指しました。
セクションはパリ市についての話ですが、フランス全土で似たようなブルジョワと大衆の融解が起きていきました。
まとめ
フランス革命において、大衆運動がブルジョワに取り込まれていった模様を書いてきました。
この上には、革命議会のバチバチの戦いがあるのですが、それはまた別途。
革命に立ち向かったブルジョワと大衆の間にある、階級間の対立と融解、操作と反発。実に興味深いです。
今後の日本でも貧富の二極化と地方分権が進むと、もしかしたら似たような状況になるかもしれませんね。
貧富と地域で社会的文化的差異が発生する。
その頃国家がどうなっているか分かりませんが、今よりずっと国体の変容が難しくなるだろうことは想像がつきます。