様々な勢力が入り乱れたインドネシア独立戦争
インドネシア共和国は1949年に、オランダより独立を果たしました。
日本が太平洋戦争に敗れてからの約4ヶ月半の間独立戦争は続き、初代大統領には独立運動家の中心人物であった、スカルノが就任しました。
概要だけ見ればスカルノの指導の元、インドネシア人が一枚岩でオランダと戦ったように見えますが、
その実、様々な勢力が入り乱れ合従連衡しながら、独立闘争を戦い抜きました。
このエントリーではインドネシア独立戦争"前中後"の、各勢力の動きと独立に至る過程を書いていきます。
1. 太平洋戦争勃発、日本軍の進駐
解放軍として迎えられた日本軍
1942年1月11日、日本軍はインドネシアに上陸。全土を掌握するのに当初は4ヶ月程度を予定していましたが、92日という早さでオランダ軍を駆逐します。
これまでのインドネシア人のオランダに対する抵抗はことごとく潰されてきたため、オランダ軍をこうまで簡単に追い落とした日本軍への期待感は高まります。
東京と現地との温度差
日本軍はオランダ官憲に捕えられていたスカルノやハッタといった独立運動家を釈放し協力を依頼。オランダ人官吏を排し、インドネシア人官吏を登用。インドネシア語を公用語とします。
現地の日本軍には、インドネシア人の期待に応えようという意識があり、中には日本の利害を離れてインドネシア独立を支援しようとする者までいました。
ですが、東京はそのような現地の熱狂に対する無理解のために、空気を読まないお役所的な決定を上から落としてくることが多く、インドネシア人の期待を大きく裏切ることになりました。
2. 日本軍政の功績と闇
組織原理の導入
日本軍は、小さな共同体の固まりだったインドネシア社会に、「組織原理」を持ち込みます。
すなはち、村落の再編成や隣組制度の導入など、国家の枠組みの中で各共同体が有機的に働き、中央の意図が末端にまで伝わるように組織の改革を行いました。
また、青年への軍事訓練を重視、史上名高い「祖国防衛義勇軍(PETA)」が組織されます。
PETAの規模は合計66大団、計3万5000人にも達し、現地の日本軍兵の2倍以上でした。訓練は成果を上げ、日本軍は保有する兵器の5分の2をPETAに割いていたと言います。
このようなシステム化・組織化は日本人は得意中の得意ですよね。
ロームシャ
一方、日本軍は資源開発や鉄道敷設のために、成年男子を数多く動員。過酷な労働に当たらせます。
泰緬鉄道の敷設のためにタイに送られたインドネシア人は30万人にも及び、終戦時の生存者は7万人ほどだったと言います。
3. スカルノ主導の独立準備調査会、その他革命勢力
1945年3月、独立運動家のリーダー・スカルノによる独立準備調査会が発足。
政体、国家組織、宗教問題、憲法など独立をめぐる基本問題に対して討論がなされます。
具体的な独立への道筋が見え始めると、各種政治勢力、武装勢力、宗教勢力がざわつきはじめます。
独立後にどのように自分たちが食い込んでいくか、この時点で既に肚の探り合いと宣伝合戦が始まっていました。
ジャカルタ近辺だけでも、
- 軍政管部宣伝部勤務のスカルニを中心とした政治一派
- 日本軍政に抵抗するシャフリルを中心とするゲリラ武装勢力
- ジャカルタ医科大学の学生を中心とする過激派学生
- 海軍武官府に勤務するスバルジョを中心とする海軍一派
などが様々に活動を始め、地方にもたくさんの革命勢力が誕生していました。
4. 日本敗戦、インドネシア独立宣言
スカルノとハッタは日本から1945年8月24日の独立の承認を得ます。
ところが8月14日になって、もうすぐ日本軍が降伏する、という知らせが舞い込んできます。あと数ヶ月は大丈夫と思っていたスカルノとハッタは飛び上がるほど驚いたそうです。
協議の結果、8月17日にジャカルタ市内のスカルノ邸で独立宣言が読み上げられ、ここにスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立します。
われわれインドネシア人民は、ここに、インドネシアの独立を宣言する
権力の委譲その他に関する事柄は、適切な方法によって、可能な限り短期間に解決されるものとする
9月末からイギリス軍、後にオランダ軍が上陸。オランダはインドネシアをまだまだ植民地として維持できると考えておりまた、手放す気もありませんでした。
オランダは上陸後こう宣伝します。
圧政の時代は終わった。私たちは君たちを救いに来たのだ!
大半のインドネシア人は冷淡でした。
日本軍政下で独立への意欲が末端にまで行き渡っており、インドネシア人の意識は以前のそれとは全く違ったものになっていました。
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5.独立宣言を受けた各勢力の動き
独立宣言を受け、各地の勢力は大きく3つのグループに分かれます。
- スカルノが主導する共和国に協力するグループ(交渉派・武装派)
- 反スカルノの過激派グループ
- 反ジャワ人・反共和国グループ
5-1. スカルノが主導する共和国に協力するグループ
対オランダ交渉派
オランダ政府は、対日協力者である大統領スカルノとの協議を拒み、社会党の指導者で首相のシャフリルを交渉窓口に指定してきます。シャフリルは日本軍政下では日本軍への協力を拒否した経歴の持ち主。
首相シャフリルは武装闘争を主張する世論を無視し、外交交渉でオランダと妥協する道を探ります。
スカルノとハッタは首都のジョグジャカルタにて、シャフリルの交渉の行方を見守ります。
対オランダ武力行使派
祖国防衛義勇軍(PETA)は、連合軍の上陸とともに解散させられます。
しかし、故郷に戻った元PETAの兵隊たちは地方でそれぞれ若者を組織し人民軍を結成。
来るべきオランダとの戦いのために、彼らは旧日本軍に武器の横流しを頼んできました。日本兵たちは先日までの仲間の頼みを断りきれず、かといって国際法には従う必要もあるしで、かなり苦慮したようです。中には武器供与を拒否して衝突に発展したケースもありましたが、インドネシア人に襲われ奪われた体裁にして、武器庫を開けっぱなしにして武器を横流ししたケースもありました。
彼ら在郷の人民軍をとりまとめたのが、旧オランダ植民地軍のインドネシア人部隊に所属していた者を中心に発足した人民治安軍。
総司令官には、PETAの大団長を勤めたスディルマンが就任します。
5-2. 反スカルノ過激派グループ
過激派組織である闘争同盟を率いたのが、戦前のインドネシア共産党の指導者タン・マラカ。
このグループはシャフリルの融和策を非難し、一時シャフリルを誘拐する事件を起こします。この事件はスカルノによってすぐに鎮圧され、タン・マラカは投獄されてしまいます。
この後も、共産党は反スカルノの立場を貫き、急進左派を糾合してイニシアチブを取ろうと画策します。
5-3. 反ジャワ人・反共和国グループ
多民族国家のインドネシアでは、歴史的にジャワ人と仲が悪い民族や、キリスト教・ヒンドゥー教の民族など、様々に存在します。
ジャワ人主導の共和国に対して反発し、オランダの傀儡政権に参加する地域もありました。
バリ人、アンボン人、メナド人など
太平洋戦争中、インドネシア西部は日本陸軍が軍政を敷いていましたが、東部は日本海軍の占領下にありました。それを踏襲し、オランダは東部の諸侯や王侯を集め、傀儡国の大東国の結成を宣言。(3日後に東インドネシア国に命名変更)
バリ人は比較的インドネシア共和国寄りの態度を取りますが、アンボン人やメナド人は積極的にオランダ人に協力します。
マレー人
東スマトラのマレー人の間では、反ジャワ人・反共和国の感情が高まり、オランダ人主導で東スマトラ国の樹立が宣言されます。
マドゥラ人
ジャワ人と歴史的に対立していたマドゥラ島のマドゥラ人は、反ジャワの立場からオランダの支援のもと、マドゥラ国を樹立します。
6. オランダの強硬策
交渉の決裂
首相シャフリルはオランダと交渉を続けていましたが、交渉は決裂。
オランダが提案した内容が、
- インドネシアは連邦国とし、オランダ王国の一部とする
- インドネシア共和国の支配領域は、ジャワとマドゥラの一部のみ
というもので、対オランダ融和派のシャフリルも協定を受け入れることはできませんでした。
オランダ軍侵攻
1947年7月オランダは、共和国が協定を履行しないことを理由に15万の軍を上陸させ、共和国の領土に攻撃を仕掛けてきます。
対応策で共和国政府はもめ、シャフリル内閣は崩壊。共和国の支配地域の多くはオランダ軍によって占拠されます。共和国軍はゲリラ的な抵抗を試みますが、決定的な打撃を与えるまでには至りませんでした。
戦線が膠着し始めたところで、国連が介入。安全保障理事会・議長国アメリカの圧力によって停戦協定が結ばれます。しかし、オランダ軍が占領した地域はそのまま維持され、さらに共和国にとって不利な状況となってしまいます。
7. 共和国内乱、そしてオランダ軍再侵攻
反スカルノ派ムソの反乱
1948年8月、インドネシア共産党の幹部でソ連に亡命していたムソが帰国。反スカルノ派が多い、首相シャリフディンの左派連合を共産党に吸収し党勢を拡大。ついには東部ジャワのマディウンで反スカルノの反乱を起こします。
スカルノとスディルマンは1ヶ月かけてこれを鎮圧。ムソは戦闘中に死亡します。
オランダ軍再侵攻
共和国が内部でゴタゴタしている中、オランダが再び軍事侵攻を開始。
協定で定めた国境を超えて、共和国の首都ジョグジャカルタを占領。さらに全土の掌握を狙います。
これまでスカルノ派と反スカルノ派とで仲違いをしていた共和国は、事ここに至って一致団結。反ジャワの立場だったマレー人やマドゥラ人も、雪崩をうって共和国側につきます。
スディルマン率いる共和国軍は山間部に入ってゲリラ戦を続け、
スカルノ、ハッタ率いる政府は外交ルートでオランダの暴挙を国連に訴えました。
国際社会がインドネシアを擁護
ここにおいて、アメリカ、ヨーロッパ、アジア各国でオランダ非難の大合唱がわき起こります。アメリカはオランダに対し、停戦しない場合マーシャルプランによる経済援助を中断すると通告。
ここにおいてついにオランダは諦め、ジョグジャカルタから撤退。
スカルノ、ハッタ、スディルマンなど共和国の主立った幹部がジョグジャカルタに凱旋した際、人々は熱狂的に迎い入れました。
8. インドネシア連邦共和国の成立
1948年8月23日、オランダのハーグで円卓会議が開かれ、インドネシア共和国への正式な主権の委譲がなされます。
結局、最初にシャフリルが交渉して拒否した「連邦案」が採用され、共和国の領土はジョグジャカルタ周辺に限られ、
残る旧植民地のオランダ傀儡政権と合わせて、インドネシア連邦共和国を構成することで合意。
インドネシア独立戦争は、ここにおいて一応の決着がつきました。
9. 連邦制から共和国制へ
統一インドネシア共和国の成立
共和国政府にとって、この連邦制というものはオランダ植民地支配の残滓であって、
いずれは全ての構成国が共和国に合併することを望み、実際そのように働きかけました。
反オランダ感情の高まりもあって、マレー人、マドゥラ人など非ジャワ人勢力も共和国への合流を後押し。
一部、マルク諸島のマルク人や西ジャワのスンダ人など、共和国の合併に抵抗もありましたが結局、1950年8月17日には連邦制は事実上解体し単一共和国が発足しました。
インドネシア分離独立を求める動き
ただ、未だにインドネシア共和国からの分離独立を求める地域は多くあり、
実際にティモール島東部の東ティモールは独立を果たし、ニューギニア島西部のイリアンジャヤ州やスマトラ島北部のアチェ特別州は武装闘争を続けています。