部族社会を強大な軍事国家に育て上げたカリスマ
ズールー族のシャカ王(1787-1828)は、現在の南アフリカ東部に住んでいた諸部族を統合し、ズールー王国を作り上げた男。
これまでのアフリカの伝統的な生活様式を守りつつ、革新的な軍事運用方を開発、またヨーロッパ人との交易を押し進め、自身をトップに据えた社会機構の構築を進めました。
その麒麟児っぷりは、例えたら「ズールー族の織田信長」とでも言えるかもしれません。
1. ディンギスワヨ、ムテトゥワの王となる
18世紀、南アフリカ東部のズールーランドには、ングワネ、ンドゥワンドウェ、ムテトゥワという3つの有力部族があり、互いに抗争を続けていました。
ムテトゥワの酋長の息子ディンギスワヨは、父の統治に反発し村を出奔。各地を流浪し、ある時出会ったヨーロッパ人を殺害し、銃と馬を奪います。
銃と馬を持って故郷に戻ったディンギスワヨは、たちまち箔がつきムテトゥワの王となります。
ディンギスワヨは、部族同士が争いを続けるズールーランドの将来を危惧し、軍団を編成し、周辺の小王国を武力で統一しようと思い始めます。有能な者であれば若くとも登用し、自身の側近としました。
ンドゥワンドウェの王ズワイドは、ングワネとの戦いを制し、勢力をつけはじめたムテトゥワを警戒し始めました。
2. シャカ、ズールー族の王に
シャカの父はズールー族の王センザンガコナ。
彼はある時、隣村の女ナンディに魅せられ関係を持ってしまいます。しばらくしてナンディが妊娠したことが分かり大問題に。しょうがなくセンザンガコナはナンディを妻として迎い入れますが、ナンディは気性が激しく、センザンガコナの家で疎まれるようになります。
とうとう、ナンディとシャカは家を追い出され実家に引き戻されます。
シャカは父なし子として育ちますが、父の大胆さと母の気性の荒さを受け継いだ、サディストな男に成長します。
シャカは若くしてディンギスワヨの軍団に所属。向こう見ずな性格はディンギスワヨの目に止まります。
やがて父であるセンザンガコナが死去。シャカは王位を要求できる条件にありませんでしたが、ディンギスワヨの力を借りて王位を簒奪。
無理矢理ズールー族の王に登り詰めます。
3. シャカの軍事改革
ズールー族の戦い方は、投げ槍で相手をしとめるというやり方が主流で、一旦投げてしまうと後は逃げるしかありませんでした。
シャカは今後は、陣形を駆使しした大集団同士の戦闘スタイルになると考え、いくつかの軍事改革を敢行しました。
武器改革
- 槍を短くして、投げずに剣のように常に手に持って刺殺する武器にする
- あごから足までを保護する従来より小さめの盾にして機動力を上げる
陣形構築(「牛の角」陣形)
- 中央に強力な数軍団を配置
- 左右に1軍団ずつ鉤のように曲げて配置
この陣形により、左右の軍が突進してくる敵を取り囲んだ上で、中央軍が敵を粉砕することが可能になりました。
これは日本の戦国時代で言えば、「鶴翼の陣」に当たりますね。
常備軍の設立
シャカは軍役を目的とした戦士を集め、兵舎で寝起きさせ毎日戦闘訓練をさせます。
つまり常備軍の設立です。これまで戦闘は都度かき集めるのが常だったズールーランドにおいて、常備軍は全く新しいものでした。
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4. ズールー王国の建国
ムテトゥワ、ンドゥワンドウェを撃破
1817年から、ムテトゥワとンドゥワンドウェとの間で大規模な戦闘が発生。
ディンギスワヨはシャカに軍事援助を求めますが、シャカはこれを拒否。あろうことか、ディンギスワヨを攻めて首を切りンドゥワンドウェの王ズワイドの元に送りつけます。
ズワイドは次にシャカを攻めますが、先述の新しい戦法にやられて大敗。次の軍勢も、小編成のズールー軍団のゲリラ戦法により次第に疲弊し、とうとう全滅。
シャカはこの後、たちまちズールーランド全土を掌握し、ズールー王国を建国します。
シャカは征服地については、これまでの社会統治機構をそのまま活かす政策を採ります。そのため、住民はこれまでと変わらない生活が続きました。
ただし、意にそぐわない首長については簡単に首をすげ替え、自身のシンパを送り込みました。表面上は何も変わっていないように見えて、徐々に既得権益層を解体していったのです。
5. シャカによる独裁政治
シャカの構築した王国はまさに軍事国家でした。
軍団は王指名のリーダーによって統率され、方面軍を形成。その下には複数のサブリーダーがおり、小隊を編成していました。
リーダーは自身の優秀さを部下に見せつける必要があり、また部下ものし上がるために武功を立てる必要があります。
そのため、ズールー王国は敵なしに存続することはできず、常に新たな敵を相手に領土を獲得し続ける運命にありました。
ここのところ、まさに戦国期の日本と被りますね。
また、シャカは不意の襲撃や暗殺に備えて何十人ものボディーガードをつけていました。謁見時も相手と一定の距離を保ち、他人が後ろに回ろうものなら即座に殺されました。
6. ケープ植民地の白人と交易を開始
1828年、シャカは南進を始め、ケープ植民地の白人と接触を始めます。いずれ、彼らがズールーランドに侵攻を始めることを予期していたのでしょう。
白人と交流をし、積極的な交易を計ることで支持を取り付けようとしました。
しかしケープ植民地の白人は、これらズールーの使者はケープ植民地へのスパイではないか?と疑い、話し合いを断ってしまいます。それどころか、
「ズールー族による周辺部族への侵略をやめなさい。さもなくば武力で解決がなされるであろう」
と脅しさえされてしまいます。
力を注ぎ込んだケープ植民地との関係構築の失敗に、シャカは落胆します。
7. 部下の裏切り、暗殺
1828年9月、シャカの兄弟であるディンガネとムランガナ、有力部族の1人であるムボパがシャカを暗殺。
最後の瞬間、シャカは以下のように語ったと言います。
おお私の父の子どもたちよ。いったい私がお前たちに何をしたというのだ。この国を支配したいのか。私が死んでしまったら、とても支配できやしない。もう「つばめ(白人)」はそこまで来ているのだよ
ときにシャカ、41歳でした。
8. シャカの死後
シャカの死後、ズールー王国は予言通り、混乱状態に陥ります。
王権を巡る内紛が続き国力が衰退。さらにはイギリスとブーア人がズールーランドに侵入。1879年より発生したズールー戦争でズールー王国は敗退し、イギリスの植民地となってしまいます。
まとめ
ぼくが冒頭に、「ズールー族の織田信長」と言った意味がなんとなく分かっていただけるかと思います。
例えば、軍事改革は「長槍」を採用したエピソード、大量の鉄砲を用いた軍の運用、信長馬廻部隊の創設、などと被ります。
また、自身のカリスマ性を用いた既得権益層の解体、そして独裁体制。
南蛮貿易を重視したところや、最後に部下に裏切られて殺されるところまで似ています。
信長は49歳で死亡しますが、シャカ王はもっと若く41歳で死亡。
日本と南アフリカと、全く異なる時代と国に、似たような英雄がいるところに、歴史の面白さがあると感じます。