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【5選】世界の日本人町の歴史

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日本人移民の歴史

日本人は他の民族と比べて、歴史的に移民の数が少ないと言われています。

それでも、明治時代から第二次世界大戦までは多くの日本人が移民として、北米、南米、南洋諸島、満州、東南アジアなどに渡っています

多くは農業要員としてプランテーションで働き、あるいは原野や密林の開拓に当たりました。満足に食べるものもなく、ボロ屋に住み、環境は劣悪でもちろん医療環境もない。

特に移民の一世は、我々が想像できないくらいの苦労をなさっています。

苦労して働き、徐々に豊かになり、後に実業家として成功したり、大統領になった人もいます。

そんな日系移民が多く住む世界の町を集めてみました。

1. スペイン “コリア・デル・リオ”

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慶長遣欧使節の末裔が住む町

スペイン南部アンダルシア州にあるコリア・デル・リオは、支倉常長の慶長遣欧使節が滞在した町として有名です。 

一行は約9ヶ月滞在しますが、同行した日本人のうち数十人が現地に留まっています。

現在でも「ハポン(日本)」という姓を持った人が数百人おり、1996年にミス・スペインとなったマリア・ホセ・スアレスさんは日系人で、現地に留まった日本人の末裔だそうです。 

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そう言われてもピンときませんね・・・

2. ブラジル “サンパウロ”

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深刻な労働不足の切り札

サンパウロに日本人がやってきたのは1906年。 

労働者不足に苦しむブラジルと、日露戦争後に賠償金を得られずに困窮する日本の農民の問題を解決するという目的で、日本全国に募集をかけ集まった781人がブラジルに渡します。

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独立して成功を収める

「高給・高待遇」という触れ込みでしたが、その扱いは奴隷と変わらず、多くの日系人はプランテーションから夜逃げします。

彼らは団結し自作農として独立。日系人の農場を設立し、コーヒー以外の作物の栽培を始めます。

野菜、果物、紅茶など、現在ブラジルで育てられている作物の中で日系人が日本から持ち込んだものは多く、持ち前の勤勉さで成功を収めます。

サンパウロなどの都市に流れた日系人は、医師や商人としてブラジル社会に根を張ります。現在もサンパウロには日本人町があり、日本語新聞が発刊され、ブラジルに進出した日本企業の本拠地となっているケースも多いようです。

3. フィリピン “ダバオ”

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日系人が支えたダバオ経済

現在フィリピン第3の都市であるダバオの経済発展を支えたのは、日系人が経営するマニラ麻の大農場でした。

実業家 太田恭三郎は、広大なダバオの土地に目をつけ1903年、沖縄出身者を中心とする移民をダバオに送り込んで大規模な農場経営を開始します。

マニラ麻からは丈夫な繊維がとれ、これを元に船舶のロープなどが作られました。第一次世界の勃発で需要が高まり、太田の経営する農場は莫大な利益を上げ、それに伴い移民もどんどん増えていきます。

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日本人に学ぶフィリピン人

大戦後の不況で多くの日本人が町を去りますが、沖縄出身者だけは留まり、ダバオにミンタル(民多留)という日本人町を形成します。

日本人の価値観や生活スタイルを現地に持ち込み、さらにダバオ経済の大半を日系人が牛耳ったことでフィリピン人との軋轢も生じますが、日本人のもとで学んだフィリピン人が事業を興すなどして、ダバオは大きな発展を遂げました。

近年はリゾート地として、またリタイアした人の定住先として人気の土地で、日本とのつながりはこれからも続きそうです。

4.ペルー “カヤオ”

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 ペルーに住んだ江戸時代の日本人

カヤオはペルーの首都リマの近くにあり、リマ経済圏を形成しているペルー最大の港町。

町自体は1537年に設立されましたが、日本人が初めて住んだのは1842年。

太平洋を漂流していた尾張出身の長吉、十作、亀吉、伊助の4人が救助され、カヤオを訪れます。長吉はその後帰国しますが、残りの3人はカヤオに留まります

その経緯もあってか、移民斡旋業者である森岡商会はカヤオにオフィスを構え、ペルーへの日本人移民事業を始めます。

過酷な労働の中、成功する者も

始め、日本人たちは異なる言語、習慣、働き方に戸惑い、また賃金の未払いや過酷な労働、さらには風土病にも悩まされます。

移民たちは日本外務省に助けを求める書簡を出すほど環境に苦しみますが、徐々に成功を収め、金を貯めてリマやカヤオに商店などを出し始めます。

当時日本人は信用がなかったため、銀行から金を貸してもらえませんでした。

そのため相互扶助の組織を作りますが、そのため日本人社会はさらに閉鎖的なものになってしまい、ペルー人にさらに信頼されなくなる、という負の連鎖に繋がります。

太平洋戦争では日系人は強制収容所に連行され、財産は凍結されます。

1990年に登場したアルベルト・フジモリは、そのような日系人の歴史からして、既存勢力とはつながりのないイメージで大統領に当選。

経済改革やテロ組織撲滅に辣腕をふるい、日系人の立場や評価も上がりますが、その後逮捕され日本に亡命したことで、日系人のイメージも下がってしまったようです。

5. パラグアイ “エンカルナシオン”

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ブラジル移民の代替地

エンカルナシオンはアルゼンチンとの国境にある町で、1632年にイエズス教会によって築かれました。 

ここに日本人が移民を始めたのは、ブラジルとの移民協定が禁止された1930年代。 

第二次世界大戦後も移民は続き、1959年に日本政府とパラグアイ政府によって締結された移民条約によって、8万5000人の移民が移住可能になりました(現在も有効)。

日本人は他の移民と比べて農業に従事する割合が高く、都市住民は少なく、

また他の民族との婚姻の割合が低いため、日本の習慣や言語を強く保った日系人社会を形成しているようです。

 

 

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