読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

なぜ「少年十字軍」の悲劇は起こったか

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/Gustave_dor%C3%A9_crusades_the_childrens_crusade.jpg/473px-Gustave_dor%C3%A9_crusades_the_childrens_crusade.jpg

聖地解放への不満が爆発した民衆運動

少年十字軍は、13世紀のフランスとドイツで起こった特異な民衆運動です。

主に12歳〜15歳の少年少女が聖地奪還を掲げて、集団でエルサレムを目指しました。

武器はおろか、資金も食料もない集団だったので、エルサレムにたどり着くどころか、地中海沿岸の町に着いたところで大部分が諦めて故郷に帰っていきました。

しかし残った者たちの中には何とかエルサレムに行こうと粘るうち、奴隷業者に騙されて売られてしまう悲劇も生まれました。

この運動の特異なところはこの2点です。

  • 主宰者とそれに賛同した者の大部分が、少年少女であったこと
  • 教皇や皇帝が焚き付けることなく、自然発生的に生まれ広がった運動であること

なぜこのような運動が起こったのかと、運動の詳細を追っていきましょう。

 少年十字軍が興った時代背景

聖地奪還どころかキリスト教国同士でケンカ

第1回十字軍(1096〜1099)で占領したエルサレムは、第3回十字軍(1189〜1192)でサラディン率いるイスラム勢力に取り戻されてしまいます。

法王インノケンティウス3世が提唱した第4回十字軍(1202~1204)では、軍資金が足りないため、ヴェネツィア商人の提案を受け入れ、同じキリスト教国のビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルを攻め落とし、略奪で財宝や芸術品を奪い取るなど、本来の目的とはずれた遠征に終始してしまいます。

 

十字軍編成には腰が重い諸侯

インノケンティウス3世は、第5回十字軍の編成を諸侯に命令していましたが、莫大な資金がかかる上に、内政で精一杯。諸侯はなかなか重い腰を上げませんでした。

聖地の「悲劇」に嘆き悲しむ民衆

そのような状況に、信心深い民衆は深く嘆き悲しみ、一刻も早く聖地を異教徒の手から解放しなくてはならない、という鬱屈とした気分に満ちていました。

 

ケルンのニコラス

奇跡は約束されている

1212年、ドイツのラインラントで羊飼いをしていたニコラスという少年が、「約束された奇跡」を主張し始めました。

  • 我々の前に海は裂け、聖地までの道が開けるだろう
  • 我々の聖地到着と同時に、戦うことなく異教徒は改心するであろう

北ドイツの少年少女たちはケルンに集合し、そこから二手に別れてアルプス越えに挑み、7000人が北イタリアのジェノヴァに到達します。

 

法王「お家に帰りなさい」

ジェノヴァに着いた少年達はその足で港まで行進を続けます。

しかしニコラスが言っていたように、海は割れません。ここで多くの少年達は失望し、故郷に帰っていきました。

残った子どもたちは奇跡を待ちジェノヴァに滞在していましたが、信心深さに感銘を受けたジェノヴァ当局が子ども達にジェノヴァ市民権を与えると発表します。

大多数は喜んでこれを受けますが、ニコラスと数人の少年はこれを拒否し、さらにピサ、教皇領まで移動。ここで法王インノケンティウス3世との面会が実現します。

法王はニコラスに対し、やんわりと故郷に帰るよう諭したそうです。

さすがのニコラスもこれであきらめ、故郷のラインラントに帰郷しました。

 

クロイエのステファン

3万人を率いる12歳の少年

1212年、フランスのクロイエ=シュル=ル=ロワールという小さな町出身の12歳のステファン少年が、「少年の力による聖地維持」を説いて回り、子どもたちの熱狂的な支持を受けます。

親の手を振り払ってステファンと少年たちは、異教徒討伐のためまずはフランス南部マルセイユに向かいます。彼につき従った少年の数、なんと3万

 

「海よ、裂けよ!」

マルセイユに到着したステファンたちは、ここから船に乗り、エルサレムを目指そうとします。当然ですが、船なんかありません。

そこで、ステファンは海に身を乗り出し叫びます。

「海よ、裂けよ!」

モーセのように海は裂けたりはしませんでした。大多数の少年たちは失望し、家に帰って行きました。

 

悪徳商人に騙され奴隷として売られる

ステファンと数百人の子供たちは諦めきれず、奇跡が起こるのを待っていました。

そこに2人の船乗りが現れステファンに言いいます。

「君たちを聖地まで送ってあげよう。心配いらない。お代はいらないさ」

願ってもないこの申し出をステファンたちは快く受けます。

ところが船が着いたのはパレスチナではなく、北アフリカ。

船を降ろされた少年たちは、さっそくイスラムの奴隷商人に売り飛ばされ、北アフリカで異教徒の奴隷として働かされる運命となってしまいました。

 

まとめ

現代の我々の感覚では理解できませんが、聖地が異教徒の手にあること自体、到底許させることではなく、神に対しての裏切りである、という感覚を持っていました。

けどお上は動かないし、こうなったら自分たちでやるしかない、という民衆の怒りと焦りの爆発が起こした運動と言えるでしょう。

しかもフランスとドイツで、示し合わせたように同時期に起きていることも興味深いですね。

 

PR
電子書籍を読むなら、Paper WhiteよりFireがオススメです(絶対!)