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「海賊の国」スールー王国の歴史

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19世紀に巨大化したフィリピン諸島のイスラム王国

現在のフィリピン共和国を構成する島々は、スペイン植民地統治以前は一つの権力により統治された経験はありません。首長制の小集落やそれから少し発達した小王国がいくつも散在し、人々は交易や農業、自然採集などをしながら暮らしていました。

特に海上交易に従事する人々は流動性が高く、定住せずにビジネスに有利な土地に自由に動き回っており、土着の王権のうち、権威を高めてそのような人々を引きつけて中国との交易に当たらせたものが周囲の島々への支配権を強めるという歩みを見せました。

スペインによるフィリピン諸島の植民地化が強まる中で、19世紀前半にこの地で巨大化したのがスールー王国です。

 

1. スールー諸島とは

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スールー諸島はフィリピンの南部にあり、ミンダナオ島とカリマンタン島の間に横たわっています。南シナ海からモルッカ諸島に船で向かう際の交通の要衝にあたります。

ミンダナオ島と同じく人々はイスラム教を信仰し、経済発展が続くフィリピンの中でも産業に乏しく発展が遅れ貧しい地域の一つです。

ミンダナオ島〜スールー諸島〜カリマンタン島北部の人々の中には海洋民が多く、定住せずに自由に船で各地を行き交う伝統がありました。現在は定住化させられていますが、そのような伝統があるためかこの周辺の海域では現在も海賊が出現します。

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ミンダナオ島でも貧しさやキリスト教徒への反発から、イスラム過激派アブ・サヤフ・グループが力をつけてきていますが、スールー諸島も彼らの本拠地の一つです。

マニラを中心としたスペインの植民地政策によりフィリピン南部は発展から取り残されてしまうのですが、一時はイスラムの大義の元に周辺海域を支配し、対中国貿易で大いに栄え、スペインやイギリスなどとも渡り合った歴史があります。

 

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2. イスラム化したスールー王国

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スールー諸島が中国の文献に初めて登場するのは14世紀のこと。1417年〜24年には「東王」「西王」「峒王」が明朝に初めて朝貢したとあります。

この頃のスールー諸島は首長社会がやや発達した程度で、真珠の産地として知られました。本格的に王国として発展するのは16世紀ごろにイスラムを受容してからで、同じくイスラムを受容したカリマンタン島のブルネイ王国と王族同士婚姻関係を結びました

イスラムを受容して以降、ブルネイはフィリピン諸島へのイスラム普及の本拠地となり、ポルトガル商人がムラカからマルク諸島へ向かう際の港として栄えました。ブルネイはマニラにも勢力を持ちますが、マニラの保有を目論むスペインに敗れ16世紀後半にはフィリピンから締め出されてしまいます。

この時スールーもスペインの攻撃を受けますが壊滅はせず、ブルネイ勢力の衰えと共にこの海域で強い勢力を持つようになっていきました。

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3. マギンダナオ王国の台頭

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ミンダナオ島南部のマギンダナオ王国

17世紀に強大化したのは、ミンダナオ島南部のコトバトを拠点とするマギンダナオ王国。

この地もスールーやブルネイと同じく16世紀初頭にイスラム化しました。

王統系譜によると、王族はマレー半島南部のジョホール出身のカブンスアンという男で、現地のサマル人を引き連れてイリャナ湾岸に定住。ここで地元のイラヌン人にイスラム教を伝え、次いでプラギ川流域に住むマギンダナオ人にも布教しました。

コトバトを中心とするマギンダナオ王国は河口近くにあり貿易に有利な場所にあり、南部の穀倉地帯を抱えるブアヤン王国を内包し、ミンダナオ島南部に勢力を持つサンギ諸島出身のサンギル人との交流を通じて、モルッカ諸島のテルナテ島との深い関係にありました。

 

マギンダナオ王国の興隆と衰退

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Photo Credit: Cotabato to Balut Island

マギンダナオ王国は王クダラト(在位1616年〜1671年)の治世下で大いに発展。クダラトは1625年にサランガニ諸島を攻撃してミンダナオ南部から東部のサンギル人の勢力圏を抑え、蜜蝋などの貿易を支配し、また海洋民イヌランやバジャオを統制し、オランダや中国との貿易を有利に進めました。

クダラトは1645年頃にスルタンを名乗り、スールーやブルネイ、テルナテなど近隣のムスリム地域にスペインへのジハードを呼びかけました。1677年にはマギンダナオはサンギヘ諸島へ遠征しスペイン勢力を一掃しました。

また、ヨーロッパの七年戦争の影響でイギリスがスペインに攻撃を加えてマニラを占領。イギリス船が海域を支配するようになり、伝統的にこの地域に強い影響力を持っていたオランダは排除され、バタヴィア(ジャカルタ)に拠点を移すことになります。

また、中国人による農園や錫鉱山の開発が始まり、労働者(奴隷)の需要が高まったため、イラヌン人による海賊行為が横行し、マギンダナオは海賊王国としてオランダ人から恐れられました。

しかし、1780年代頃からイギリス人が貿易の拠点をスールー諸島に移し、それに応じる形でイラヌン人が活動の拠点をスールー諸島やカリマンタン島北部に移すとマギンダナオは急速に衰退していきました。

 

4. 強大化するスールー王国

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一大貿易センター・スールー王国

スールー王国は中国への朝貢を1727年に再開し、アモイと通交を開始しました。

するとイギリスが中国への貿易を求めてスールー諸島に貿易の拠点を移したのです。スールーはイギリスと友好通商条約を締結し、イギリスとの貿易によって武器・弾薬、さらにはアヘンを入手。王権を強化し軍事力をつけたスールーはカリマンタン島北部を支配し、スールー海域を手中にし、モルッカ諸島との貿易の主導権を握りました。

 

この原動力となったのが、マギンダナオからスールーに移って来たイラヌン人で、造船・航海技術を持った彼らを統制することで、スールーは海域支配に成功したのです。

さらには、海洋民バジャオ人も統制下に入れることで、ナマコやツバメの巣、フカヒレ、亀甲などの海産物を入手できるようになり、王都ホロはこれら海産物やモルッカ諸島などの林産品を集積。王国を支配したのが王都ホロを中心としたタウスグ人で、バジャオ人は海産物の収集、イラヌン人やサマル人は敵対する国の船への「海賊」行為をそれぞれ行うことで、スールー王国はスールー海域を支配する貿易立国となりました。

 

18世紀後半にはスペイン船・中国船が訪れて、米・砂糖・綿布と海産物を交換して、広東やマニラに運び、ポルトガル船はマカオからやってきて中国産品と真珠を交換しました。19世紀初頭はアメリカ船が訪れるようになり、武器・弾薬と海産物を交換し広東に運びました。スラウェシ島出身のブギス人はシンガポールに拠点を持ち、武器・弾薬、綿布、アヘンを交換しました。

 

海賊の国・スールー

イラヌン人やサマル人の海賊行為は、それまではキリスト教徒に対するジハードの意味がありましたが、中国人が経営する農園や鉱山での労働者が不足し需要が高まるに従って、「奴隷獲得」のための海賊が目的になってきました。

元々はマギンダナオからスールーに移って来たイラヌン人が主体だった海賊も、19世紀初頭にはスールー諸島のバラギギ島のサマル人が主体になっていきます。度重なる遠征で富裕になったサマル人は、次第に王都ホロから脱するようになり、独自の外国貿易や遠征隊を送るようになっていきました。

 

そんな中、フィリピン諸島全域の支配と貿易の独占を狙うスペインは、スールー海賊を撲滅するために次々に遠征軍を派遣。1848年にバラギギ島を占領し、1851年に王都ホロを占領。そしてスールーのスルタンと条約を交わし、スペインの宗主権を認めさせました。

しかし「法的拘束力」などというものの意味があまり分かっていなかったスールーのスルタンは、引き続き他のヨーロッパ諸国との貿易を続け、海賊行為もやみません。

そこでスペインは1871年からホロ周辺の海上封鎖に打って出、一方でヨーロッパ諸国にスールーでの貿易を認める代わりにスペインの宗主権を認めさせました。

サマル人は引き続き海賊行為をやめませんでしたが、当時の新兵器・蒸気船の登場でサマル人の船は太刀打ちできなくなりました。

さらには、シンガポールの発展やイギリスによる香港の獲得もあり、スールー諸島の貿易拠点としての魅力は薄くなり、さらにはそれまで中国を支えてきた旺盛な中国本土の消費がアヘン戦争の敗北によって不安定になり、スールー王国は急速に衰退していきました。

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まとめ

中国が好景気に沸き、その中国や東南アジア島嶼部との交易を望むヨーロッパ諸国が押し寄せるという状況にあって、地の利を得たスールー諸島は一時的に交易を支配する強国にのし上がりました。

しかし、スールー王国は配下のタウスグ人やサマル人を結束させることができず、旧態依然とした制度の中で時代に取り残されて崩壊してしまいました。

また、民族はこの時には非常に曖昧で、居住地と民族名がイコールではありませんでした。というのも、当時「サマル人」「イラヌン人」とはイコール海賊のことを指し、海賊は捕虜を獲得し、その捕虜が海賊化してさらに捕虜を獲得するという構造ができており、主にフィリピン諸島のキリスト教徒が捕虜海賊になって「サマル人」と呼ばれていたり、イラヌン人が海賊の拠点地で定住化してイラヌン人ではなくなるなど、流動性が高く一つの集団としてまとめるのは難しい状況にありました。

そういう、移動する集団の中で形式的にスルタンを中心にした人間関係の中で成立した国だからこそ、崩壊も容易だったし、継続することが困難だったに違いありません。

 

参考文献

岩波講座 東南アジア史<3> 東南アジア近世の成立-15〜17世紀  3.海域東南アジア東部 早瀬晋三

岩波講座 東南アジア史〈3〉東南アジア近世の成立―15〜17世紀

岩波講座 東南アジア史〈3〉東南アジア近世の成立―15〜17世紀

  • 作者: 池端雪浦,石沢良昭,後藤乾一,桜井由躬雄,山本達郎,石井米雄,加納啓良,斎藤照子,末広昭
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