老いるまで戦場に生きた生粋の軍人たち
歴史にその名を刻んだ老将軍をまとめています。
前回は古代中国を中心に、以下の人物をピックアップしました。
- 廉頗(戦国・趙国)
- 王翦(戦国・秦国)
- 蒙恬(戦国・秦国)
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス(共和制ローマ)
- 黄忠(三国・蜀国)
- アンドレア・ドーリア(ジェノヴァ共和国)
- クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール(フランス)
ご覧になってない方はこちらよりどうぞ。
今回はヨーロッパ史を中心にまとめます。それではどうぞ。
8. サンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサン 1526-1588(スペイン)
「太陽の沈まない国スペイン」絶頂期を支えた老名将
アルバロ・デ・バサンはスペイン・グラナダの生まれで、スペイン軍人の家系。
海軍軍人の父から徹底的に英才教育を叩き込まれ、対フランス、対サラセン海賊の戦いに活躍。1565年にはマルタ騎士団が篭もるマルタ島を包囲するオスマン帝国海軍に対し、スペイン海軍を率いて攻撃をかけて、キリスト教側の勝利に貢献しています。
1571年、キリスト教連合軍とオスマン帝国軍の一大海戦レパントの海戦が勃発。アルバロ・デ・バサンは後衛に陣取り手薄になった前線に援軍を的確に送り込んだため、キリスト教連合軍の戦線は最後まで崩壊せず、歴史的な勝利に貢献しました。
その後、スペインと新興国イギリスの確執が高まり、一大海戦の勃発が避けられなくなります。62歳の将軍アルバロ・デ・バサンはフェリペ2世に対し、イギリスとの対決を主張し、大海戦の準備を進めるもその途上で死去。
偉大な指揮官を失ったスペインは、アルマダの海戦でイギリスに大敗し、覇権国の道から転がり落ちていくのでした。
9.ミハイル・クトゥーゾフ 1745-1813(ロシア)
ナポレオンに黒星を付けた老将軍
ミハイル・クトゥーゾフはサンクトペテルブルクの軍人の家の生まれ。エカチェリーナ2世、パヴェル1世、アレクサンデル1世の3皇帝に仕えた宿老です。
トルストイの小説「戦争と平和」にも主要人物として登場します。
若い頃から対ポーランド戦争や対トルコ戦争に活躍し、1774年の第一次露土戦争で右目を失う。ナポレオン戦争に参戦するも、1805年にアウストルリッツ三帝会戦で敗北し、一時は左遷されてしまいました。
その後、1812年にナポレオンのロシア遠征が始まると、軍と世論の声に押される形で67歳にして総司令官に就任。ボロジノの戦いで7万もの犠牲を出すと、軍を撤退させモスクワをフランス軍に明け渡す決断を下します。
フランス軍は廃墟となったモスクワに駐留するも、ロシア軍からの攻撃に加えて寒波に襲われ撤退。クトゥーゾフはフランス軍の背を撃つ追撃戦を開始し、散々に打ち負かしました。これによりナポレオンをロシアから追い出すことに成功しますが、疲労がたたってか、翌年フランスへの進行中に死亡しました。
10.レヴィン・アウグスト・フォン・ベニグセン 1745-1826(ロシア)
2度の失脚から復活したしぶとい将軍
レヴィン・アウグスト・フォン・ベニグセンはドイツ・ブランズウィックの名門ハノーヴァー家に生まれました。初めはハノーヴァー宮廷に仕えますが、19歳にしてロシア軍に加入し野戦指揮官となりました。
1774年に露土戦争に従軍して中佐となり、オチャーコフ包囲戦で活躍し准尉に昇進。次いで、1794年のロシア・ポーランド戦争と1796年のロシア・ペルシャ戦争でも活躍しトントン拍子に出世していきました。
ロシアは1806年に第四次対仏大同盟の一翼としてフランスに宣戦布告し、ベニグセンはプロトゥスクの戦いやアイラウの戦いを指揮しナポレオン相手に善戦しますが、1807年6月のフリートラントの戦いでフランス軍に大敗を喫し、これがきっかけでロシアはティルジットの和約を結び同盟から撤退。この責任を問われベニグセンは引退を余儀なくされました。
しかし1812年にナポレオンがロシア遠征を始めるとベニグセンは呼び戻されで指揮官の一人となり、タルティノの戦いでフランス軍を破るなど活躍しますが、ロシア軍司令官クトゥーゾフと意見が合わずに再び退けられてしまいました。この時67歳。
クトゥーゾフの死後にロシア軍司令官に就いたベニグセンは、ナポレオン戦争で最大規模の戦い・ライプツィヒの戦いでロシア軍を率いてフランス軍に対し決定的な攻撃を加えて勝利を確実なものとしました。この戦いで革命勢力のドイツ支配は終了し、ナポレオンはフランスに閉じ込められ後にエルバ島に追放されることになります。
戦後にベニグセンは引退し、10年後に死亡しました。
11. ウィンフィールド・スコット 1786-1866(アメリカ)
「アメリカ陸軍の偉大な老人」
ウィンフィールド・スコットは19世紀アメリカを代表する軍人で、歴代の軍人で最も長く現役を勤めた将軍。ジョージ・ワシントンに次いで2番めに「名誉大将」の地位を授かった人物です。1852年に大統領候補にもなっています。
スコットはアメリカ軍の規則化や規律化を進め、ヨーロッパの軍隊に負けないプロ意識をアメリカ兵に植え付けようとしました。
1812年に米英戦争に従軍した際は、志願兵があまりにも素人丸出しだったため、プロ意識を叩き込もうと服装や規律についてガミガミ言っていたので、兵士たちから「年取った空騒ぎ」などと陰口を叩かれました。戦後の1821年にスコットは、兵士が一般的にあるべき姿や日々の生活における心構えなどをまとめた「軍隊の一般規則(General Regulations for the Army)」を記しました。軍事史にも明るかったスコットは戦術の教科書もまとめ、アメリカ軍のプロ軍隊化に大きく貢献したのでした。
1847年の米墨戦争では南軍を指揮してメキシコに攻め入り、チャプルテペクの戦いでメキシコ軍を撃破し首都メキシコシティを陥落させ、戦後はメキシコシティ知事も務めました。
1861年の南北戦争にも北軍の指揮官として従軍。南軍の重要な補給路であるミシシッピ川と、大西洋岸・メキシコ湾の港を制圧して大陸に南軍を閉じ込めた上でアトランタに侵攻するという「アナコンダ計画」を立案。病気と老齢で同年に引退しますが、彼の描いた作戦は実際に実行され、北軍を勝利に導いたのでした。
1866年に北軍を勝利を見届けた後に死去しました。
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12. ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ 1800-1891(ドイツ)
統一ドイツ建国の功労者
モルトケというと「大モルトケ」と「小モルトケ」の2人が知られており、プロイセンの参謀でドイツ帝国成立に大きく貢献したのは親父の大モルトケのほうです。
父親がデンマーク軍人だったことから、モルトケはデンマークで学び1818年にデンマーク軍少尉に任官したが、後にプロイセン軍へ移籍。4年間のオスマン帝国への軍事顧問派遣の任務に就いた後、鉄道理事や皇族の侍従武官を経て、プロイセン参謀本部の参謀総長となりました。
ここでモルトケは「鉄道と電信の活用」を進言。敵主力の殲滅のためには「分散進撃・敵の包囲・一斉射撃」を徹底すべきとし、これを可能にするために予備役も含めた兵の大量動員と、命令系統の統一と正確な情報の伝達のための電信の活用を進めるべきとしました。
1863年、北ドイツの邦国シュレースヴィヒ公国の帰属を巡りデンマークとの対立が強まりシュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争が勃発。元デンマーク軍人のモルトケは、デンマークの軍事や地理を熟知しており、戦争の後半から参謀として作戦を立案・実行しプロイセンの勝利に大きく貢献。既に64歳になっていたモルトケは、ようやくここにおいてプロイセン陸軍の中で大きな地位を占めるようになりました。
その3年後に起きた普墺戦争と1870年の普仏戦争においては、持論である「分散進撃・敵の包囲・一斉射撃」を徹底した作戦を実行。対フランス戦では、多くの人の予想を裏切ってプロイセンがフランスを圧倒。セダンの戦いでは皇帝ナポレオン3世を捕虜にすることに成功し世界中が度肝を抜きました。これによりフランスは第二帝政が崩壊し共和制が成立。
フランスの驚異が去りプロイセンが文字通り世界最強と目されるに至り、南ドイツ諸国など独自路線を貫いていた諸邦が次々と帝国に参加。プロイセン国王をドイツ皇帝とするドイツ帝国が成立しました。
79歳になったモルトケは皇帝ヴィルヘルム1世に引退を申し出ますが「帝国成立の立役者であるお前が引退してはならない」として拒否されてしまいました。
1888年にヴィルヘルム1世が死去したことで、88歳にしてようやく参謀総長を辞任。その2年後の90歳で死去しました。
13. パウル・フォン・ヒンデンブルク 1847-1934(ドイツ)
最期まで利用され続けた 「タンネンベルクの英雄」
ヒンデンブルグは普仏戦争と普墺戦争従軍後、長年戦争のない軍務キャリアを積み、64歳で引退。悠々自適の暮らしを送ろうとしていたところ、第一次世界大戦の勃発で「東部戦線から家が近い」という理由だけで第8軍の司令官に担ぎ出されました。第8軍の参謀はエーリヒ・ルーデンドルフ少将。ヒンデンブルグは正直お飾りにすぎず、作戦の立案や実行はほぼルーデンドルフが行っていました。ヒンデンブルグもルーデンドルフに作戦は一任しており、その結果東部戦線の一大決戦「タンネンベルクの戦い」でドイツ軍はロシア軍に圧勝。
ヒンデンブルグは「タンネベルクの英雄」として瞬く間に国民の英雄となり、東部方面軍司令官に就任。1917年8月には参謀総長に就任し、西部戦線も含む全ての作戦の責任者となりました。
ロシア革命の勃発で東部戦線は終了しますが西部戦線では苦戦が続き、ヒンデンブルグはアメリカ大統領ウィルソンの求めに応じて停戦の可能性を探っていたところ、キール軍港の水平反乱に端を発する「ドイツ革命」が勃発。カイザーの退位を求める声は大きくなり、帝政主義者であったヒンデンブルグはヴィルヘルム2世を説得してオランダに亡命させました。共和政体が樹立され、和平交渉の後、第一次世界大戦は終了しました。
戦後、帝政主義者のヒンデンブルグは右派・ブルジョワ・保守に担がれ大統領に立候補し、当選。1925年2月に大統領に就任しました。しかし彼らの期待とは異なりヒンデンブルグは穏健・共和政体維持の政策・人事を行ったため右派からの支持を失い、帝政主義者にも関わらず左派・共和派から支持を受けるという皮肉な状態となりました。
1930年の選挙で台頭したヒトラーのナチ党を、ヒンデンブルグは始めは嫌っていましたが、84歳を超えてから老化が激しく1日数時間しか政務を執れなくなってきて、実務は側近たちにより行われていくようになりました。低迷する経済の中でナチ党の支持は高まり、ヒンデンブルグ政権もナチ党との妥協を迫れるようになり、1933年1月にヒンデンブルグはヒトラーを首相に就任させました。以降、ヒンデンブルグはヒトラーの要望を受け入れるようになり、後のヒトラー独裁の道を開いていったのでした。
ヒンデンブルグは1934年8月に老衰で死去しました。
14.ジョージ・パットン 1885-1945(アメリカ)
粗暴で大胆不敵・軍人らしい軍人
映画「パットン大戦車団」をご覧になった方も多いと思います。
この映画ではパットンを、口が悪く乱暴で人の気持ちなど一切顧みないものの、命がけて戦った部下は最大限賞賛するという一面も見せる、とにかく戦争が好きでたまらない軍人として描きました。
パットンは1915年のメキシコのパンチョ・ビリャ討伐戦と第一次世界大戦で活躍し、特にアメリカ初の戦車隊の指揮官となり、その功績から大佐にまで昇進しました。
しかし戦間期には少佐にまで降格になり、根っからの戦争好きな性格から平和な次期は耐えられずに家庭でも粗暴極まりない男だったと言います。
しかし、第2次世界大戦が勃発すると、配下の戦車団を率いて北アフリカ〜イタリア戦線〜ノルマンディー戦役と転戦。バルジの戦いでは反転攻勢に出ようとするドイツ軍を打ち破りアメリカ第101空挺師団の窮地を救うという大きな功績を上げました。
シチリア戦線では、野戦病院を訪れたパットンが、外傷はないが精神を病んだ兵士を見て「この臆病者め!」となじり殴りつける事件を起こしています。戦場をこよなく愛する自分の感覚を他人にも強要するもんだから、部下たちは大変扱いづらい上官だったでしょう。
1945年12月、戦後のドイツで交通事故で突然死しました。60歳でした。
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まとめ
第一線で活躍し続けた老将もいれば、運命に誘われるように祭り上げられていった悲しい老将もいます。年老いて引退を本人が望んでも、国王をはじめ国民が許してくれないケースも多く、人々は絶対的な信頼がおける「みんなの父親」のような存在を望み、本人の意思とは関わりなく気づいたらそのような存在になっていく。
「老将」という存在は国や軍など特定の集団の人々によって望まれて造り上げられた、統合や安定の象徴的存在だったのかもしれません。
参考サイト
"GEORGE S. PATTON" HISTORY.COM
1911 Encyclopædia Britannica/Kutusov, Mikhail Larionovich - Wikisource, the free online library
"1911 Encyclopædia Britannica/Bennigsen, Levin August"