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中世東南アジアの大国・マジャパヒト王国の歴史

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Work by Gunawan Kartapranata

東南アジア島嶼部分の多くを支配した大帝国

現在のインドネシアは様々な民族や宗教が混在する多民族国家で、ジャワ人・ムスリムが主導する政府に対する反発や独立運動も少なからず存在します。

インドネシアの国土はオランダが支配した「蘭領東インド」が母体になっており、そのオランダを追い出した反帝国主義イデオロギーがになっているのですが、古代には現在のインドネシア国家に匹敵するほどの影響力を持った王国がありました。それがマジャパヒト王国です。

 

1. クディリ王国の崩壊とシンガサリ王国の成立

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クディリ王国の崩壊

マジャパヒト王国を始めジャワ島東部に興った王国は、ブランタス川流域の農業力を基盤として国力を蓄え、ジャワ海を通じて海上交易に乗り出すという特徴を持っています。

9〜13世紀に東ジャワに拠点を持ったクディリ王国は、西ジャワやマラッカ海峡へ進出し沿岸部の港湾都市を凌ぎ、中国との貿易を強化して栄えました。最盛期の王アイルランガは分裂していたジャワの王権を統一し、ブランダスデルタを開発して農業生産力を向上させました。ところが王はせっかく統一した王国をジャンガラ王国とパンジャル王国という二つの王国に分裂させてしまう(正室と側室の子同士の対立が原因と推察される)。兄弟国同士は互いに争いあい、やがてジャンガラ王国が姿を消しパンジャル王がクディリの王位を継ぎますが、13世紀の初め頃から徐々に国力が凋落。

1222年、トゥマプル(現在のシンガサリ)に拠点を置いたケン・アンロク(ラージャサ王)がクルタジャヤ王を倒し、シンガサリ王国を建国しました。

 

「王国再統合」を掲げたシンガサリ王国

シンガサリ王国に関する記述は刻文資料がなく、14〜16世紀にマジャパヒト王国時代にまとめられた歴史記述「デーシャワルナナ」と「パララトン」のみにしか記述がありません。

それによると、初代王ラージャサは「クディリとジャンガラを統一し、一つの支配者のもとに王国を平穏」にしたとされています。既に両王国は統一して長い時間が経っていたのですが、ラージャサ王はクディリを滅ぼす大義名分としてジャワ人の記憶の長い間刻まれた「王国の分裂状態を回復する」という修辞を使ったのでした。

第5代王クルタナガラは、2回の内乱を抑え込むと同時にスマトラ島に遠征しマラッカ海峡周辺の支配力を深化させ、またバリ島にも遠征しバリの女王を捕虜にし、スンダ、マドゥラ、パハン(マレー半島)などの諸島の国々もクルタナガラの権威を認めて庇護を求めるなど、王国の権威は高まりました。

 

2. マジャパヒト王国の成立

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Uncredited, published by Wacana Nusantara

モンゴル軍侵入のどさくさ紛れに成立

この時ユーラシア大陸ではモンゴル帝国が破竹の勢いで領土を拡大しており、豊富な物産の集積地であるジャワ島もモンゴル人の視野に入り始めていました。

1280年以来、元王朝がシンガサリ王国に「宗主権の承認と元朝への来貢」を促しました。クルタナガラ王はこれを拒否し続け、1289年には使者の顔に刺青を彫って帰すなどしたため、怒ったフビライは1292年にジャワ島への遠征を決定しました。

ところが同年、クディリの領主ジャカトワンが反乱を起こし、王都に侵入してクルタナガラ王を殺害してしまいました。

クディリ討伐軍を率いていたクルタナガラ王の娘婿ウィジャヤは、いったんマドゥラ島に逃げ、その後ブランデスデルタに腰を落ち着け、その周辺に生えていたマジャの実が苦かったことから、その地を「マジャパヒト(苦いマジャの実)」と名付けました。

そうこうしているうちにモンゴル軍がブランタス川河口に上陸。

ウィジャヤはモンゴル軍に接触し「共にクディリを倒そう」と申し出ます。そうして共同でクディリを倒した直後、突如としてモンゴル軍に襲いかかり、ジャワ島から追い出してしまったのでした。

そうしてウィジャヤは1294年、クルタラージャサ王としてマジャパヒト王国初代国王となりました。

 

元朝との国交回復

そのような成立の経緯があるので、フビライ在命中は元との関係は険悪でしたが、フビライが死亡しトク・テムルが皇帝に就くと、マジャパヒト王国は進んで元に朝貢使節を送るようになります。先代のクディリ王国〜シンガサリ王国を受け継ぎ、マジャパヒト王国もマラッカ海峡の支配を拡大し、対中国交易で富を得る政策を推進したのでした。

初代クルタラージャサ王は1309年に死亡し、後継に側室ではない女(妾?)の子をジャヤナーガラという名で2代国王に指名しました。

 

ジャヤナーガラの代ではマジャパヒト王国内では反乱が相次ぎ、東部ラマジャンで起こったナンビ一族の反乱、トゥバンを拠点にしたランガ・ラウエの反乱、ソラの反乱など、初代王の死をきっかけに国内勢力が沸騰。ジャヤナーガラはこれを全て鎮圧し、国内の統一を達成しました。

ジャヤナーガラは子がなかったため、次王はシンガサリ王国最後の国王クルタナガラの娘ラージャパトニーが就くことになります。しかしラージャパトニーは出家していたので、実務は彼女の二人の娘の姉トリブワナー・ウィジョヨートゥンガデーウィーが摂りました。

彼女の代でも反乱が起こるのですが、この反乱を全て鎮圧し、その後積極的に対外遠征に打って出、マジャパヒト王国の最盛期を築くのが宰相ガジャ・マダです。

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3. 豪腕宰相ガジャ・マダの活躍

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Uncredited, published by Wacana Nusantara

下層階級出身の豪腕宰相

ガジャ・マダとは「酔っ払い象」という意味で、粗野な名前のためおそらく下層階級出身と考えられています。

1331年、サデンとクタで反乱が発生しますが、親衛隊隊長ガジャ・マダはこれを鎮圧してみせ女王の信頼を得て、宰相に就任しました。

「パララトン」によると、就任式においてガジャ・マダは「ジャワ島外のすべての島々を制圧するまでは、休暇を楽しまない」と誓ったそうです。

その誓いの通り、ガジャ・マダは馬車馬のように働き、1343年のバリ島遠征、1357年のスンダのパジャジャラン王国制圧、1357年のスンバワ島のドンポ遠征と相次いで軍事遠征を成功させてジャワ海以東の海域広域圏を確保。ここにおいてガジャ・マダは目的を達成し、ようやく休暇を楽しんだと言われています。

この間、1350年にラージャパトニーが死亡し、トリブワナーの長男で16歳のラージャサナガラ王が即位。宰相であるガジャ・マダは若王に代わって政務を担い、1364年に死ぬまで第一線で活躍しました。

ちなみに、現在のバリ島はインドネシアで数少ないヒンドゥー教が色濃く残る島ですが、これはガジャ・マダの征服によってマジャパヒトのヒンドゥー文化が移植されたからで、ジャワがイスラム化した後も現在のバリ島はマジャパヒトの伝統を受け継いでいます。

 

4. マジャパヒト王国の外交・内政

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Work by Gunawan Kartapranata

巨大な海上交易圏

マジャパヒト王国が影響力を持った地域は、現在のインドネシア共和国とマレーシア、一部フィリピンに到るまで広大な範囲です。

「デーシャワルナナ」によると、直接支配はしないものの「保護国」とする国々がいくつも記載されています。スマトラ島の24の町、カリマンタンの23の町、マレー半島の6の町、ジャワ島以東の22の島々が「分をわきまえ従順」とされています。

一方で「友好国」とされる国々が、タイ、アユタヤ、ナコンシータマラート、マルタバン(ビルマ南部)、ラージョプラ、シンハナガリー、チャンパー、カンボジア、ベトナム。

これらを見るに、マジャパヒト王国は中国〜マラッカ海峡〜インド〜マラッカ海峡〜ジャワ海〜バンダ海までの広大な海上交易ネットワークを組み込んでいたことがわかります。

バリ島以東の島々、マルク諸島やスラウェシ島は丁字やナツメグ、メースといった香辛料の産地。ジャワ島はこれらの島々を抑えて二次集積地としての地位を確立し、蘇木、金剛子(数珠の原料となる木の実)、白檀香、丁字、ナツメグ、ニクズク、メース、胡椒、鋼、亀甲、タイマイなどが特産物としてジャワ島から輸出され、中国からは陶磁器、麝香、綿布、ビーズといったものが輸入されました。

 

明朝との関係

1368年に明朝が成立すると、マジャパヒト王国はすぐに朝貢使節団を派遣。引き続き中国との関係維持を目指しました。朝貢貿易がいかにマジャパヒト王国にとって利益が大きかったかを物語っています。

ラージャサナガラ王の時代、王都には東西二つの王宮があり、西には母トリブワナー夫妻と王ラージャサナガラと妻、そしてその娘。東には叔母のラージャデーウィー夫婦、娘インドゥデーウィーと夫ラージャサワルダナが住んでいました。

ところがラージャサナガラ王が死亡すると、東西王宮の抗争が激化するようになり、明朝に東西それぞれが朝貢するといった事態になりました。

1405年に福建を出発した鄭和の遠征隊は翌年ジャワに寄港しますが、一行が滞在中に東王と西王の軍事衝突が起き、東王の元にいた鄭和の部下170名が巻き添えを食って死亡してしまいます。結局西王ウィクラマワルダナが東のダハ侯を捕え、ウィラブーミ侯を殺害することで抗争は決着。

ウィクラマワルダナ王は黄金1万両を明朝に献上し、謝罪し罪を許されたのでした。

 

5. マジャパヒト王国の崩壊

ウィクラマワルダナ王による東西王宮の統一後、15世紀後半まで王国の系譜はウィクラマワルダナ王の直系の子孫が継ぎました。

鄭和の遠征は1433年までの計7回続き、対外交易の拡大に関心を持つ明朝と、朝貢貿易の維持による繁栄を望むマジャパヒト王国との間の関係は良好で、毎年のように朝貢使節団が中国を訪れていました。

しかし、1443 年に明朝は「マジャパヒト王国の朝貢があまりにも多く国庫の負担になっている」として朝貢の回数を減らすように勅命を出しており、1456年には朝貢貿易はストップしてしまいました。

当時明朝は北方の北元による華北侵攻に苦しんでおり、北方への防備を優先する中で財政緊縮・対外消極策が取られることになったのです。

朝貢貿易を廃止され中国との交易がストップしたマジャパヒト王国は、影響下にあるマラッカ海峡の港湾都市の支持を急速に失っていきます。

 そのような中で台頭したのが、朝貢貿易の枠に囚われず私貿易を積極的に行うマラッカ王国で、他の港湾都市はマラッカ王国の影響下に入っていき、マジャパヒト王国はマラッカ海峡から追い出されてしまったのでした。

その後ジャワ島に追い込まれたマジャパヒト王国は、16世紀初頭にドゥマク王国を中心としたイスラム王国によって滅ぼされました。

 

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まとめ

インドネシアの王権の特徴がよく現れ、大変興味深い歴史となっています。

インドネシアは伝統的にジャワ島の王権が強いですが、その基本には農業力があり、大量の人を食わせていけるのが王国拡大の原動力になっています。

そして富へダイレクトにアクセスするのが、インドと中国の海上交易が交差するマラッカ海峡を抑えることで、さらにはバリ島以東のマルク諸島やスラウェシ島などの香辛料の産地を取り込むことで、交易中継地兼二次集積地として膨大な富を得ることに成功したのでした。

しかし中国との太すぎる既得権益は、それが破綻した際に国家が吹き飛ぶだけの破壊的なダメージをもたらしたのでした。

 

 

参考文献

岩波講座 東南アジア史<2> 東南アジア古代国家の成立と展開 シンガサリ=マジャパヒト王国 青山亨 

岩波講座 東南アジア史〈2〉東南アジア古代国家の成立と展開

岩波講座 東南アジア史〈2〉東南アジア古代国家の成立と展開

  • 作者: 池端雪浦,石澤良昭,後藤乾一,桜井由躬雄,山本達郎,石井米雄,加納啓良,斎藤照子,末広昭
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