歴ログ -世界史専門ブログ-

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歴史に名が残る超有名シェフ(前編)

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Photo by Lynn Gilbert

料理の歴史にその名を刻んだ有名な料理人たち 

料理の歴史というのは体系化するのが本当に難しいと思います。

常に進化し続けているので、いつ・どこで・誰が・何をして・どうなったかの記録などほとんど残っちゃいない。 そこいらのおばさんやおっちゃんが考えたレシピが普及することなどザラなので、誰が発案者かといった問いは意味をなさないことが多いです。

そもそもカリスマ・シェフという存在自体が現代に生まれたものなので、料理人の名前を後世に残すということ自体ほとんどなされていないのですが、それでも歴史に名前が残っているシェフが存在します。

 

1. アントナン・カレーム 1784-1833(フランス)

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フランス料理の基礎を築いた男

 アントナン・カレームは現在のフランス料理の基礎を発明した「フランス料理の父」です。

1783〜84年に貧しい労働者の家に生まれたカレームは、10歳の頃に家を追い出され料理店で下働きを始めました。6年間の下働きの後、当時の有名シェフ、ジャン=シルヴァン・バイイに才能を認められ、有名パティシエ店Cabinet des Gravuresで修行を認められました。

カレームを高く評価するバイイは、彼を当時の著名な政治家タレーランが毎日食べるデザートの製作を彼に一任。カレームの作ったデザートをタレーランは絶賛し、カレームは一流シェフの仲間入りを果たしました。タレーランは若き才能をさらに成長させるためにいろいろな課題を与え、例えば色を制限したり季節のものだけを使わせたりなど、カレームはパティシエとしての能力を高めていきました。彼が得意とするのはピエスモンテ(工芸菓子)で、寺院や遺跡、風車、砦、建物など様々な建築を菓子で製作しました。

1814年にはウィーン会議の夕食会の料理を製作。その味とオリジナリティはヨーロッパ各国の出席者の話題をさらい、カレームはヨーロッパ有数の有名料理人となりました。

1815年にタレーランの元を去りイングランドで2年間働いた後にフランスに戻り、自分の知見を若い世代に伝えるために執筆活動を開始。「Le Maitre d'hôtel Français(フランスのメートル・ドテル)」や「Le Cuisinier Parisien(パリの料理人)」「L'Art de la Cuisine Françaisau dix-neavièmesiècle(1790年代フランス料理の芸術)」を出版。これらの本は現在のフランス料理の基礎となるもので、彼の築いたレシピを元にして現在のフランス料理が成立しています。

 

2. オーギュスト・エスコフィエ 1846-1935(フランス)

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フランス料理を体系化・組織化した男

オーギュスト・エスコフィエはアントナン・カレームが作ったフランス料理の基礎を受け継ぎ、フランス料理を体系化しルールを整備した人物です。

1846年、南仏の小さな村の鍛冶屋の生まれ。祖母がとても料理上手な人だったようで、幼い頃から料理に興味を持ち、13歳で叔父が経営するレストランで修行を始めました。その後パリに移り、当時のセレブ御用達レストラン「プティ・ムーラン・ルージュ」を始め、著名なレストランで修行をし1884年、モンンテカルロの「グランドオテル」の料理部長に就任しました。

ここで実業家でホテル王のセザール・リッツと出会い、その後はリッツが手がけたロンドンの「サヴォイ・ホテル」、「カールトン・ホテル」、パリの「オテル・リッツ」など、リッツが立てるラグジュアリ・ホテルの料理責任者として世界中にその名が知られるようになりました。

エスコフィエはフランス料理に「規律」をもたらした人物とされます。カレームは華麗で豪華絢爛なフランス料理を作り上げましたが、エスコフィエは過剰な装飾を削ぎ落とし、フランス料理を「誰でも作れる」ものに体系化しました。

また、エスコフィエは料理にとどまらず、調理の合理化やセットメニューの開発、コースメニューの導入など、現代でも見られるフランス料理のルールも整備しました。

 

3. 忽思慧(元朝)

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中国薬膳料理の始祖

中国では古代から、食べ物は薬と同じであり適切な食事をすることで長寿をもたらすという思想がありましたが、これを体系化し書籍にまとめた人物が忽思慧(こつしけい)です。

忽思慧は1315年ごろにモンゴル帝国8代皇帝アユルバルワダに仕え、皇帝の信頼を得て宮廷の料理責任者となりました。

忽思慧がアユルバルワダの信頼を得た伝説があります。アユルバルワダは度重なる遠征と不規則な生活により腎臓に痛みを感じるようになりました。そこで忽思慧は料理人を指示をし、野菜スープを作らせ皇帝に供しました。すると3ヶ月でウソのように腎臓の痛みが取れ、しかも同じスープを飲んでいた皇后が懐妊。皇帝はこの「二重の歓び」をもたらした忽思慧に位を授け宮廷料理人の責任者となったのでした。

その後忽思慧は健康な体を作るための料理レシピ本「飲膳正要」を執筆しました。

この本は、健康な生活を送るための食生活のあり方や衛生管理方から、妊娠中の女性や子供のためのレシピ、病気にかかったときにどの食品を食べるべきか、また食中毒についてまで、細かに「食べ物がいかに体に効用するか」を書き記しています。

彼の編み出したレシピはモンゴル料理とペルシア料理を基本に、漢族の料理を積極的に取り入れた当時のコスモポリタンなモンゴル帝国の美食が分かる興味深いものとなっています。

興味がお有りの方はぜひお手にとってご覧ください。

薬膳の原典 飲膳正要

薬膳の原典 飲膳正要

 

 

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4.刘娘子(南宋)

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中国初の宮廷料理長に就任した女性

刘娘子(Liu Niangzai)は南宋時代の女料理人。

昔から宮廷の料理人の中に女性の料理人はたくさんいましたが、総料理長である「尚食」の位に就いたのは刘娘子が初めてのことです。

刘娘子についての資料は数が少なく、宋何薳が記した「春渚纪闻」の中の「两刘娘子报应」という章に記述がある程度で、細かいことはあまり良くわかっていません。

それによると、南宋初代皇帝の高宗は刘娘子が作る料理を殊の外気に入っており、毎度の食事を刘娘子が担当し、自らの部屋まで運ばせていたそうです。

 

 

5. ジュリア・チャイルド 1912-2004(アメリカ)

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Photo by Lynn Gilbert

アメリカで最も有名なシェフ

ジュリア・チャイルドは2008年の映画「 ジュリー&ジュリア」に登場するのでご存じの方も多いかもしれません。

ジュリアは1912年カリフォルニア州の生まれで、太平洋戦争が勃発すると志願して戦略的サービス局(OSS)の任務に就き、近東で働いた後にスリランカで働き、そこで詩人のポール・チャイルドと出会います。

ポールはジュリアの10歳年上で完璧なフランス語を話した男で、恋におちた二人は結婚。国務省で働いていたポールは、ジュリアを連れてフランスに移住しました。そこでポールはジュリアをパリの有名レストラン「La Couronne」に連れていきました。ここで古典フランス料理を初めて食べたジュリアは衝撃を受け、フランス料理を学ぶことを決意。料理学校に通いながらフランス語を勉強し、合間には市場や生産者、レストランを回っては学習を続けました。

そんな中で彼女はアメリカ人向けにフランス料理のレシピ本を作っている2人のフランス人女性と知り合い、10年もの研究を重ねて「フランス料理の習得」の完成にこぎつけます。フランス料理をもっとアメリカに広めるべく、マサチューセッツに移住。ここから本格的なメディア露出が始まります。

1963年にボストンのテレビ局の招待でテレビでオムレツを作ってみせ、それが大評判に。当時のアメリカではフランス料理はあまり馴染みがなく、おしゃれで美味しそうな料理がテキパキと作られる様はアメリカの主婦に大人気になりました。ジュリアのハイトーンで軽妙なトークも人気の理由の一つでした。

www.youtube.com

ジュリアは1990年代までテレビに出演し続け、様々な料理本を手がけました。

 ジュリア・チャイルドの自伝があったので興味ありましたらぜひどうぞ。

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6. ジョセフ・ファヴレ 1849-1903(スイス)

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料理人の労働組合を設立したマスターシェフ

1849年にスイスのヴェクスという町で生まれ、幼くして孤児となり地元の司祭に育てられた後に、14歳でシオンの町の貴族の家に料理人見習いとして働き始めました。

3年後にジュネーブに移住してレストランで修行を積んだ後にパリに移り、「ラ・ミラネーゼ」「メゾン・チェベット」といった有名レストランやホテルで働き腕を磨きました。

1870年に普仏戦争に従軍した後にジュネーブに戻り、そこで社会主義者やアナキストと知り合いになり大きな影響を受けます。ファブレは国際労働者協会に加入し、社会主義者やアナキストらと社会改革についての活発な議論に参加。彼自身は進化論的社会改革を支持し、アナキストが主張する暴力的革命には反対の立場でありました。

その後1879年に国際労働組合「料理の進歩のための国際組合(the Union Universelle pour le Progrès de l'Art Culinaire)」を設立。組合員のための雑誌「 L'Art Culinaire」を発刊したりしますが、その中でプロの秘伝の技やレシピを公にしたことで同僚たちからひんしゅくを買い、1883年にファヴレは組合を追放されてしまいます。

ファヴレはより多くの人に正しい料理を食べてもらうことを理想としており、その思いから全四巻の料理辞書を編集し発表しました。ファヴレはまた、専門のシェフのスキルを紹介する料理展を開いたり、料理コンクールのアイデアを最初に提案した人物でもあります。

 

7. チャールズ・ランフォーファー 1833-1896(フランス)

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派手で豪華な元祖セレブ・シェフ

チャールズ・ランフォーファーはフランス生まれのシェフで、アメリカでド派手なフランス料理で大成功を治めた人物です。

南北戦争後のニューヨークは全米の富が流れ込み、カネを持て余した富裕層がヨット、競馬、馬車など様々なラグジュアリな消費を楽しんでおり、食べる楽しみについても巨大な需要が拡がっていました。

フランスのレストランや王室のキッチンで修行したチャールズ・ランフォーハーは26歳にしてニューヨークに進出し、レストラン「Delmonico」をオープンし直ちに大評判となりニューヨークのセレブたち御用達の店となりました。

ランフォーハーはアメリカのVIPの夕食会を数多く任され、1860年代には英国の鉄道王モートン・ペト卿、アンドリュー・ジョンソン大統領、チャールズ・ディケンズのための夕食会を担当。モートン・ペト卿の夕食会では、一晩で30,000ドル(現在は4,400万円以上)が使われ人々の度肝を抜き、全米にレストラン「Delmonico」とランフォーハーの名声が広がりました。ランホーファーが企画したもう1つの夕食会では、食事を供すテーブルを30フィートの池の中に設置し、生きた4匹の白鳥を泳がせて水しぶきが客にかからないように巨大なフラワーデコレーションをあしらえるというド派手な演出を行いました。

ランフォーファーは1894年にレシピ本「The Epicurean」を出版しましたが、これが非常に装飾された派手なフランス料理の数々だそうです。

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例えば、「サーモンステーキ」は、焼いたサーモンの側面にバター・ペーストが塗られダイヤモンド型にカットしたトリュフがついています。また外側には卵白でコーティングされたトリュフもあしらえられています。さらにサーモンの両側には、エビを槍で刺した装飾があり、中央には丸ごとのエビがデコレーションされています。これどうやって食うんですかね…?

彼は日給は80万円ほどもあり、当時からすると破格の給与でまさにセレブ・シェフの走りのような男でした。

 

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つなぎ

有名シェフといってもその業績は様々です。

料理の基礎的な部分を作ったり、料理の世界に規律や平等をもたらしたりなど、単に「繁盛した有名レストランシェフ」だけではなく、後の料理や料理の世界のあり方を変えた人物がこうして名が残っているのでしょう。

 次は後編です。お楽しみに。

reki.hatenablog.com

 

 

参考サイト

"CULINARY INFO Careme" Callyland's "Cullinary Fare"

エスコフィエ料理博物館

"Food and Environment in Early and Medieval China" E. N. Anderson

"南宋御厨刘娘子的头颅是怎么掉的?" 王明军的博客

"Biography of Julia Child - AMERICAN MASTERS" PBS

Joseph Favre - Wikipedia

"A chef’s life: Charles Ranhöfer" Restaurant-ing through history