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インドネシア共和国からの独立を図った国々(後編)

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複雑にからむ民族と宗教、大国の利害…

インドネシアから独立しようとした国々の後編です。

前編では、主にインドネシア独立戦争の時に、オランダが共和国を封じ込めるべくジャワ島やその周辺に作った傀儡国家群を紹介しました。

  • 西スマトラ国
  • 南スマトラ国
  • 大東国→東インドネシア国
  • 東ジャワ国
  • パスンダン国

まだお読みでない方はこちらをご覧ください。

では後編に参ります。 

 

7. 大ダヤク(1946年〜1950年)

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 アニミズムを崇拝する先住民が反イスラムの立場から建国

大ダヤクがあったのは、現在のカリマンタン島の中部カリマンタン州。この地には伝統的に、ダヤクと呼ばれるプロト・マレー系の先住民が暮らしていました。

ダヤクというのは部族名ではなく、内陸部の狩猟採集民族の「プナン族」、アポ・カヤン高原に起源を持つ焼畑農業民族「カヤン族」、カプアス川周辺に起源を持ち西部に多い焼畑農業民族「イバン族」、バリトー川近辺に居住する「バリトー族」など、いくつかの部族を総称して言います。

ダヤクはイスラム教を受け入れずにアニミズムを信仰し、焼畑や狩猟採集をして暮らし、一説によるとダヤクとは「粗野な人」「野蛮人」を意味するそうです。

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さて、1946年のリンガルジャティ協定でカリマンタン島は共和国の領土から外されたためオランダが地元の有力者を担いで自治地域を設定しました。

カリマンタン西部ではポンティアナックのスルタン・ハミド2世が担がれ西カリマンタン自治地域が、カリマンタン東部ではクタイのアジ・スルタン・パリケシットが担がれ東カリマンタン自治地域が設定されました。

これに対し、ダヤクのリーダー、ダヤク・パカートは「このままではイスラム教を押し付けられる」としてオランダに働きかけ、ダヤクの居住地を東西カリマンタンから分離させて「大ダヤク」という独自の自治地域を設定させました。

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1950年にインドネシア共和国連邦が成立すると、大ダヤクも連邦に参加し自治地域は消滅。しかし現在でも大ダヤクの領域は、そのまま中部カリマンタン州となっています。

 

 

8. バンカ島・ビリトゥン島

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牢屋として使われた反共和国の牙城

バンカ島はスマトラ島最大の都市パレンバンからムシ川を下った沖合にある島。

ビリトゥン島はバンカ島からカリマンタン島に向かう途中にある島。

両島の住民の大半はマレー人。また1/4は中国系移民の客家が暮らしており、島で大量に採れる錫鉱山を実質的に支配しています。

錫鉱山の資源確保を狙ったオランダは、共和国の独立宣言後、反ジャワ・既得権益死守の地元の有力者と利害を共にし、バンカ島とビリトゥン島をそれぞれ自治地域として設定しました。

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バンカ島は反共和国の強力な牙城であったようで、共和国の指導者をぶち込む監獄として利用されました。

1947年、共和国のリーダー、スカルノとハッタはオランダ軍に拘束されバンカ島に連れられ、鉱山会社の牢屋に留置されました。その2年後、3カ国委員会のメンバーであるオーストラリアのクリシュリーが現地を訪れ、共和国の指導者が牢屋に閉じ込められている様を見てオランダ側に抗議。オランダは抵抗しますが、国際的な非難もあってスカルノとハッタは解放されたのでした。しかしその後もバンカ島の牢屋は共和国の有力者をぶち込むのに使われ続けたのでした。

反共和国の牙城だった両島ですが、1949年に連邦共和国が成立し、他の傀儡国家が雪崩を打って共和国に統合されていく中で、南スマトラ州の一部となりました。

2002年、バンカ島とビリトゥン島は南スマトラ州から分離し、バンカ=ビリトゥン州という独自の州となっています。

 

  

9. 東ティモール民主共和国(1975年)

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わずか5日で倒されたティモール人の独立共和国

1859年にティモール島は東西に分割され、西をオランダ、東をポルトガルが支配することになりました。

インドネシア共和国が成立後も東ティモールはしばらくポルトガル領として残りますが、ポルトガルの独裁者サラザールが死亡すると1974年に国軍によるクーデターが起こりファシズム体制が崩壊。

雪解けの雰囲気の中で東ティモールも独立の動きが加速し、東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が即時の独立を主張しますが、スハルト政権は「東ティモールのインドネシア帰属」を強く主張し、親インドネシア派政党アポデディを支援し統合を目指す構えを見せました。

フレティリンは1975年11月28日に「東ティモール民主共和国」の独立を宣言しました。しかし翌日インドネシア軍はただちに東ティモールへの軍事侵攻を開始。12月7日には全土の掌握を宣言しました。

国連安全保障理事会はこの侵攻を非難する決議が採択されましたが、アメリカやイギリスを始めとした西側諸国はインドネシアとの関係維持を優先して併合を黙認。

その後、東ティモールでは反インドネシアのゲリラ戦が展開され、インドネシア国軍による容赦ない鎮圧戦が繰り広げられて世界の非難を集めることになりました。

1999年にスハルト政権が崩壊すると、インドネシアは東ティモールの統治を国連の暫定統治に委ね、2002年に正式に独立を果たしました。

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10. 西パプア共和国(1961年〜1963年)

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「大インドネシア主義」から闘争になったニューギニア島西部

ニューギニア島は険しい山と熱帯雨林が連なる島で、20世紀前半までその地理すら分かっていなかった最後のフロンティア。住民は石器時代のような暮らしを最近まで続けていました。

日本軍のニューギニア島攻略失敗以降、オランダ軍は西パプアを占領し学校を設立しエリート行政官吏の養成を行いました。

日本の敗戦後、「大インドネシア主義」を掲げるスカルノは、西パプアも含めた国家を建設しようとしますが、独立宣言以降はオランダにより共和国周辺に傀儡国家を固められ、西パプアを気にする余裕すらない状態でした。

共和国が手を打てない隙に、オランダが設立した学校で教育を受けたパプア人エリートは、パプア民族主義を掲げて支持を伸ばし、オランダの支援もあって、1961年に西パプア共和国の独立を宣言しました

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当然インドネシアは猛反発。また当時の世界的な世論では、第三世界の植民地解放に対する支持は根強く、「インドネシアによる植民地解放」を国際社会は支持。

オランダとインドネシアは協議し、国連による暫定統治を経て1963年にインドネシアに帰属させ、1969年をもって最終的な帰属を決めることで合意しました。

予定通り1963年からインドネシアに行政が移されますが、帰属投票はインドネシア側の息の掛かった連中による「投票」だったため、当然「インドネシア残留」が決定。

パプア民族主義者たちは自由パプア運動を設立し、亡命政府を樹立。現在も独立運動が続いています。

 

 

11. 南マルク共和国(1950年〜1952年)

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反ジャワ・反イスラムのキリスト教徒による独立運動

マルク諸島の人々の多くはキリスト教徒で、オランダ人に対する親近感が強かったため、オランダの植民地統治に積極的に協力し、現地軍である蘭印軍の主力もアンボン人で構成されていました。

それ故、イスラム教徒のジャワ人主体のインドネシア共和国による統治には反対の立場で、また蘭印軍にとって共和国軍は「敵」であったので、東インドネシアが共和国に統合の立場を決めた時、アンボン人はアンボン島、ブル島、セラム島などと組んで「南マルク共和国」の独立を宣言しました。

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インドネシア軍は南マルク諸島を軍事的に制圧しようとするも、アンボン人の抵抗勢力は手強くすぐには制圧できず、膠着状態となります。

オランダ軍は、蘭印軍に所属していたアンボン人を西パプアに上陸させようと考え、蘭印軍のアンボン人も祖国の独立闘争に参加することを望みますが、インドネシアの反対にあって実現せず、1952年にはマルク諸島はインドネシア軍に占領されてしまいました。

その後、ジャワ島からの移民が送り込まれインドネシア化が進められたものの、アンボン人のキリスト教徒の間では独立への望みが未だに強く、現在も独立問題は解決に至っていません。

 

 

12. インドネシア・イスラム国→アチェ・イスラム国→アチェ・スマトラ国(1953年〜2005年)

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 ジャワ人には屈しない、伝統ある敬虔なイスラム地域

アチェはスマトラ島の西部、インドネシアの最西端にあります。

アチェは中東・インド・中国を結ぶ交易の拠点として古来から栄え、イスラム教をインドネシアで最も早く受け入れました。それ故、アチェには敬虔なムスリムが多く、インドネシアで最も厳格に宗教を守る地域であります。石油などの天然資源も多く、伝統的に豊かな地域でした。

アチェ王国は長い間ジャワ王権からもオランダ勢力からも独立していましたが、1873年のアチェ戦争でオランダの侵攻を受けます。抵抗は激しくオランダ軍もたびたび敗北をし、1904年までウラマー(イスラム法学者)が率いるゲリラ闘争が続きますが、とうとう鎮圧され滅亡。オランダの支配下に入りました。

スカルノによるインドネシア独立宣言後、当初はイスラム国家を目指す共和国に同調的だったのですが、スカルノはアチェを北スマトラ州の一部と設定したことに対し、アチェ人が激怒。アチェ州軍政長官ダウド・ブレエは1953年にインドネシア共和国からの離脱と「インドネシア・イスラム国」の設立を宣言しました。

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その後、国名を「アチェ・イスラム国」として独立闘争を続け、1963年にとうとうスカルノと和平協定が結ばれ、アチェを特別州にしイスラム法を適用させることで合意がなされました。

ところが1965年にスカルノが失脚し軍人スハルトが大統領になると、強力な中央集権体制のもと、スカルノとの合意は反故にされ、石油や天然ガスの開発が政府主導で進むものの地元には全く還元されず、アチェ人は怒り再び独立運動が活発化。「アチェ・スマトラ国」の独立が宣言されました。

スハルトの死後もアチェ自由運動による独立闘争は続きましたが、2004年のスマトラ沖地震による津波でアチェは首都バンダ・アチェを含む全土で壊滅的被害を受けました。

人々は独立どころではなくなり、またインドネシア政府による復興支援もあり、アチェ自由運動は政府と和平協定を結び独立を放棄こととなったのでした。

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まとめ

一般の人にとっては、インドネシアに住むのはインドネシア人という認識しかないと思うのですが、多様な島に多様な民族、宗教、文化の人が住み、それぞれ異なる歴史と価値観を持っています。

ぼくが以前インドネシアに行った時は、子どもたちに対する愛国教育がどこでも凄まじく徹底しているのを肌で感じました。それは、過去に数多く分離独立を図られた歴史があり、もし一つでも独立をされたらドミノ式に分離され、大国の地位から一気に転がり落ちることを最も恐れているからに違いありません。

インドネシアは、経済規模、人口ピラミッド、教育水準、インフラ、いずれの観点から見ても21世紀の大国になるのは間違いないのですが、唯一懸念されるのがこの「地域の分離独立問題」です。

いつ、どのタイミングで火を噴くかも分からず、まったく先が読めません。 

 

 参考文献

 

参考サイト

"GREAT DAYAK STATE – NEGARA DAYAK BESAR" FOLKS OF DAYAK

"Bangka Dalam Kronik Revolusi Indonesia Tahun 1948-1949 (Bagian Pertama)" BABELPOS.CO