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ボーア戦争(1) - ボーア国家の成立と南アの覇権争い

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イギリスの飽くなき野望が生んだ懊悩たる戦争

 ボーア戦争と言えば、イギリスが豊富な金やダイヤモンド鉱脈を持つ南アフリカを自らの領土とすべく、オランダ系住民が建てたトランスヴァール共和国やオレンジ自由国を打ち倒した戦争として、高校の世界史でも学びます。

ですが、世界史的文脈で言うと、ボーア戦争こそ半世紀後に訪れる大英帝国の瓦解を予知する出来事であり、帝国の矛盾が露出し様々な反戦運動が巻き起こった一大事件でした。ボーア戦争にこそ20世紀で起こる様々な悲劇の兆しがあり、なぜこの悲劇を我々人類は見逃してしまったのかという意味で、再び学ぶ価値のある事柄と思います。

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英領ケープの成立とグレート・トレック(大移動)

 1806年、イギリス軍がケープタウンを占領し、約5,000名の植民者が入植しました。

イギリスはケープタウンの支配を進め、人道的観点から「黒人奴隷の解放」を宣言。ボーア人の農業経営は大きく圧迫されます。またオランダ語の使用は禁じられ、英語が話せないボーア人は政治・経済的に不利益を被るようになり、たまりかねたボーア人たちは集団で移動を開始しました。

1835年から始まったボーア人の大移動は「グレート・トレック」と呼ばれます。

この時北方を支配していたのはズールー人のズールー王国。

シャカ王の時代に強大化したズールー王国は強力な常備軍を有し、「牛の角陣」から繰り出される組織的な突撃は白人にも恐れられていました。

ズールー王国の王ディンガネは家族連れで北に移住してくる白人を敵視し、組織的に白人のトレッカーを襲撃。数千人のボーア人がズールー戦士によって虐殺されました。

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ボーア人もやられっぱなしだったわけではなく、1838年12月16日に行われた通称「血の川の戦い」では、牛車で円陣を組んで守りを固めてズールー戦士をおびき出し銃と大砲で一斉に射撃し撃退。ボーア人の死者3名に対し、ズールー人の死者3,000名以上という、まさに完勝でした。

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英領ナタールの成立と、第二次グレート・トレック

ズールー人を撃退したボーア人は、現在の南アフリカ南東部に落ち着き、イギリス当局に対しナタール共和国の成立と独立の承認を求めました。

しかしイギリスはナタールをイギリス領とし、一切の自治を認めませんでした。これに対し、一部のボーア人は1844年から再び大移動を開始(第二次グレート・トレック)。

この結果、1852年に現在の南アフリカの首都プレトリアを中心とするトランスヴァール地域に「トランスヴァール共和国(南アフリカ共和国)」が成立しました。

その2年後、オレンジ川以北の領土にも同様に「オレンジ自由国」が成立しました。

 

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ダイヤモンド鉱山の発見 

1860年代、オレンジ自由国領内のキンバレー周辺で世界有数のダイヤモンド鉱山が発見されました。原住民のグリカ人の首長はイギリスにダイヤモンドの所有権を主張しイギリスに保護を求め、これを口実にイギリスはオレンジ自由国に軍事干渉して占領。

キンバレーを保護領とし、ケープ植民に組み組んでしまいました(上記地図で「Stellaland」と記載のある箇所です)。

このダイヤモンド鉱山の開発で大成功した人物が、イギリス人実業家・政治家のセシル・ローズ。「ケープからカイロへ」のカリカチュアは教科書に載っているので見たことあると思います。

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セシル・ローズは10代でキンバレーにやってきてダイヤモンド研究に打ち込み、ロスチャイルド家の経済力を背景にダイヤモンド鉱業会社を買収。一気にダイヤモンド王にのし上がりました。

このセシル・ローズこそが、南アフリカの歴史を血塗られたものにした張本人。

のちに勃発するボーア戦争も、セシル・ローズを筆頭とする財界が裏で糸を引いていたのです。

 

 

2. ボーア・イギリス・地元部族の南ア支配をめぐる戦い

ボーア国家の輪郭が整い始めた19世紀半ばから、イギリス、ボーアの白人勢力に加えて、ズールーやソト族、スワジ族といった現地黒人勢力も利権の獲得や領土の確保を目指して合従連衡を繰り広げることになりました。

 

土地をめぐるオレンジ自由国とソト族の戦い

ソト族は現在のレソト共和国に住む山岳遊牧民族で、指導者モショエショエはオレンジ自由国と国境線を平和裡に定めていましたが、オレンジ自由国大統領ボショフはボーア人に有利なように国境を引き直そうとしたため、1858年3月にソト族との戦闘が勃発。

ソト族の領地に侵攻したボーア人でしたが、自然の要害に守られたソト族の戦士は手強く、攻め込むどころか逆にオレンジ自由国に攻め込まれる勢い。ボショフは和平を乞い、国境線は据え置かれました。

 

▽ソト族の大酋長モショエショエ

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しかし7年後、モショエショエの甥がボーア人の牛を殺したことを口実に、再び戦闘が開始されました。この時はボーア人の戦闘員は前回の2倍以上、武器も最新のものを用意しソト族の戦士を圧倒。モショエショエは降伏し、王国内のもっとも肥えた土地をオレンジ自由国に割譲させられました。

 

スワジ王国をめぐるイギリスとトランスヴァールの戦い

現在も存在するスワジランドは、当時はトランスヴァール共和国と国境を接していました。2代国王ムスワティは北方のズールー族を牽制する目的で、スワジ王国内へのボーア人の居住を認めました。ボーア人にとっては、イギリス人との戦いにあたってはスワジ王国との友好関係は重要でした。

しかし3代国王ムバンヅェニの時代になると、ボーア人は王国内で牛を略奪したりスワジ人から土地を奪い取ったりしたため、次第に親イギリス・反ボーアの態度を採るようになります。

イギリスとしても、将来的なトランスヴァールの併合を考えた時に、スワジ王国は戦略的に要衝の地にあたり非常に重要だったのです。

 

ズールー戦争

1873年、ズールー王国では親イギリスの国王が死に、ディンガネの甥セチュワヨが国王となりました。セチュワヨは王国を守るため白人に対し毅然とした態度を採るべきと考える男でした。

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1878年7月にナタール総督フレーアがセチュワヨに対し「イギリスの指導の元、ズールーの軍事組織・徴兵制度を全廃すること」を要求。

国を奪われるに等しい要求に激しく反発したセチュワヨは、3万人のズールー戦士を集めました。ズールー戦争の勃発です。

この戦争は近代兵器を有するイギリス軍が、弓や槍といった武器しか持たないズールー族を圧倒したのですが、1879年1月22日に発生したイサンドルワナの戦いでは、イギリス軍2,200がズールー戦士2万の猛攻を受けて壊滅。

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この戦いの勝利は現地部族を勇気付け、自信を取り戻すきっかけになりました。

しかしそれ以外の戦闘ではイギリス軍はズールー戦士を圧倒し、1879年8月にセチュワヨはイギリスに降伏。ズールー王国は消滅し、のちにナタールとトランスヴァールに併合されてしまいました。

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3. 第一次ボーア戦争の勃発

イギリスによるトランスヴァール併合

豊富なダイヤモンド鉱山の独占を狙うイギリスは、トランスヴァールの併合を目論見ます。そのやり方はかなり直球で、トランスヴァールの政治混乱に乗じて「トランスヴァール併合宣言」を布告し軍隊を送り込んで占領するというもの。

1877年4月にケープ総督フリーアが「併合宣言」を出し、混乱するトランスヴァール側を尻目にすぐにイギリス軍が出動し首都プレトリアを占領しました。

トランスヴァール共和国の政府は追放されるも、政府の主だった連中や指導者たちは3年あまり戦争の準備をし、1880年12月に再びプレトリアに結集。人民集会を開きイギリスに対し「政権の引き渡し」を要求。イギリスは当然これを拒否。するとトランスヴァール内のボーア軍が挙兵し、第一次ボーア戦争が勃発しました。

 

ボーア軍に押されるイギリス軍

開戦直後、シュミット大佐率いるボーア軍は、ブロンクホルスト川にてイギリス軍第94連隊を簡単に撃破。イギリス軍はボーア軍に包囲され、窮地に陥ります。

そこでイギリス軍はコリー少佐率いる1200の部隊を救援に向かいました。それを阻むのはボーア軍の将軍ジュベールで、率いるのは主に農民からなるボーア民兵。トランスヴァールとナタールの国境地帯ライングス・ネックの守備についたボーア民兵の武器は、明らかにイギリス軍より劣っており、軍服もなくバラバラでした。

にも関わらず、ボーア民兵たちは地の利を生かしイギリス軍の一斉砲撃を無効化。1人1人が優れたハンターであったボーア民兵は確実にイギリス兵を撃ち倒していく。結果、イギリス軍の死傷者200名、ボーア軍の死傷者41名という一方的な展開となりました。

▽ライングス・ネックの戦い

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復讐を誓うコリー少佐は、ライングス・ネックを東に見下ろせるマジュバ・ヒルに陣取って、ここからボーア側を迎え撃とうと考えました。2月20日に400名の軍勢で闇夜に紛れて丘の占拠に成功します。

これを知ったボーア側は、山岳地帯での戦闘に慣れた手練れを60名選抜し、丘を急襲し奪還する作戦を決行

三手に別れ物陰に隠れながら移動し、合図をもとに一斉に突撃。完全に虚をつかれたイギリス軍は大混乱に陥り、コリー少佐を含む86名が死亡、133名が負傷しました。

▽マジュバ・ヒルの戦い

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プレトリア講和会議・ロンドン協定締結

コリー少佐の死はイギリス政府を動揺させ、トランスヴァールとの講和に傾きました。

当時はロシア皇帝アレクサンデル2世の暗殺、アメリカ大統領ガーフィールド暗殺事件、アイルランド独立運動家パーネルの投獄、フランスのチュニジア占領、エジプト・アレクサンドリアの民衆蜂起、スーダン・マフディー運動の開始など、イギリス政府はあまりにも多く対応すべき事柄があり、ぶっちゃけ南アフリカどころではなかった。

オレンジ自由国のブラント大統領の仲介で、プレトリア講和会議が締結されました。

 

ボーア側は戦闘ではイギリス側を圧倒したにも関わらず、戦闘が終結し民兵が皆帰宅し軍事的脅威が消滅しまったため、講和は終始イギリス側優位に進むことになりました。

この講和の条項でトランスヴァールは「イギリスの宗主権の元に自治政府を回復する」「トランスヴァールは外交権を持つが、第三国と条約を結ぶ際はイギリスの許可が必要」などとあり、イギリスがトランスヴァールを完全に支配下に置く内容でした。

これを不服とするトランスヴァール側は、イギリスと粘り強く交渉を行い、ロンドン協定にて「イギリスの宗主権の元に」という事項を削除させ、「第三国と条約を結ぶ際はイギリスの許可が必要だが、6ヶ月以内に返答がなければ承諾されたとみなすことができる」と変更させることに成功しました。

しかし、トランスヴァールの宗主権蜂起といった文言は一切なく、このロンドン協定は塩漬けにされ、10年後に第二次ボーア戦争が勃発するに至ります。

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つなぎ

オランダ系を中心とする白人移住者は、ボーア人という独自のアイデンティティを育み自分たちの国家を作るべく戦いを繰り広げました。

このボーア人の国家の併合を狙うイギリスは、資本家と結託し南アフリカ全土の制圧と地下資源の独占を狙います。

ボーア人が被害者のようにも思えますが、彼らの自由国家は、原住民を奴隷にしたり人権を全く顧みないものであり、ボーア人の黒人に対する人種差別の意識が、後に発生するアパルトヘイト政策を支えたという事実も、認識しておく必要があります。

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参考文献

 ボーア戦争 岡倉登志 山川出版社

ボーア戦争

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