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「気骨」のある世界の平和主義者7人

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平和の必要性を覚悟で示した骨のある平和主義者

現代の日本で平和主義者と言えば、現実を見ずに理想ばっかり言ってるみたいな感じで、ネットでは特に批判されることが多いです。

ぼくもどっちかというと現実主義者なので、平和主義者の考えにはちょっとついて行けないなと思うことはあるのですが、例え現実的じゃなくても、命を賭けて行動で示す平和主義者がいたとするならば、賛同できなくてもその行動自体は賞賛されるべきものであると思います。

今回は平和のために命を捧げた「気骨のある平和主義者」を紹介します。

1. ディートリヒ・ボンヘッファー 1906-1945(ドイツ)

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 ヒトラー暗殺に関わり処刑された天才神学者

ディートリヒ・ボンヘッファーは少年時代から神学に関心を持ち、テュービンゲン大学とベルリン大学で学び神学博士号を取得。アドルフ・フォン・ハルナック、カール・バルトら同時代の神学者の強い影響を受け、またマハトマ・ガンジーからも影響を受けました。

同時代のドイツの神学者たちは、ドイツの民衆の経済的困窮を救うとしたナチ党に期待する向きがありましたが、ボンヘッファーは「戦争は神の掟への敵対であり、戦争は神の啓示から目をそらす」として明確に反対の態度を取り、「平和のために祈りなさい」と訴えました。

1933年、ヒトラーが宰相に就任するとボンヘッファーはラジオで痛烈に批判を繰り広げたため、すぐに閉鎖に追い込まれてしまう。ボンヘッファーは仲間の司祭と共に国家による教会の自由を守る組織を立ち上げたり、秘密裏にユダヤ人を国外に逃がす活動を行いますが、ナチスによる締め出しは厳しくなり、ベルリン大学から追放され、1939年にとうとうニューヨークに亡命。

しかしすぐにドイツに戻り、ドイツ国防軍の中の反ヒトラー派、通称「黒いオーケストラ」によるヒトラー暗殺計画に加担しました。

1943年4月にユダヤ人を助けた罪でボンヘッファーは逮捕される。その後1944年7月20日に黒いオーケストラによる暗殺が決行されますが失敗。1945年7月にメンバーの日記からボンヘッファーの関与が発覚し、翌日に絞首刑されました。

彼が20世紀の神学に残した功績は大きく、39歳の若さで死んだことが惜しまれたのですが、特に戦後に彼の著作は広く読まれ大きな影響を与えました。ボンヘッファーのキリスト教論は詳しくはこちらをご覧ください。

「ディートリヒ・ボンヘッファーのキリスト論」

 

黒いオーケストラによるヒトラー暗殺は、2008年にトム・クルーズ主演で「ワルキューレ」という題名で映画化されています。

www.youtube.com

 

2. アルント・ペクリネン 1905-1941(フィンランド)

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道徳的兵役拒否を実践して死刑になった男

フィンランドのアルント・ペクリネンは20歳になった時に国から兵役の招集がかけられますが、それを「道徳的理由」で拒否しました。

それまで「宗教的理由」で兵役を逃れる者はいましたが、道徳的という理由は初めてのことで、実際ペクリネンは「人が人を殺すのは道徳的観点から間違っている」との信念を持っていました。

1929年にペクリネンは強制的に軍に連行された後、軍の病院に引き渡され、その後3年間刑務所につながれてしまいました。

しかしペクリネンの「道徳的兵役拒否」はフィンランド国内で議論を呼び、議会は最終的にそのような異端的兵役拒否者に対する法律を修正することになりました。

刑務所から出た後は普通に結婚して子どもを儲け、タクシードライバーとして働いていたペクリネンですが、1939年にソ連がフィンランドに侵攻し冬戦争が勃発。

国家総動員の一大決戦で国中の若者がかき集められますが、ペクリネンはやはり道徳的理由から兵役を拒否。以前政府が修正した異端的兵役拒否者の罪を緩和する法律は、「平時のみ適応される」という条件がついたものだったので、今度はペクリネンは容赦なく警察に逮捕され、1941年に処刑されました。

 

 

3. アーチボルト・バクスター 1881-1970(ニュージーランド)

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 ニュージーランドの平和主義の先駆者

大英帝国の一翼のニュージーランドは、第一次世界大戦中に多くの若者を最前線に送り込んだのですが、宗教的理由で兵役を拒否する者が17人現れました。

その中の1人で後に有名になる人物が農夫のアーチボルト・バクスター。14人は逮捕され刑務所に収監されていました。

ニュージーランド政府は「良心的兵役拒否は罪であるが、最前線に立つことで罪は軽減されよう」と言って、バクスターと兄弟2人を含む4人をフランスの最前線に送り込んだのでした。

最前線の塹壕に入ったバクスターでしたが、やはり銃を持つことを拒否し、激怒した指揮官によって十字架に括り付けられ、殴る蹴るの制裁を受けたのです。その上でさらに戦闘が激しい地区への移動を命じられました。バクスターはここでもやはり戦いを拒否し、食べることも拒否し自死をしようとしていました

ここにおいてバクスターに同情的なイギリス軍の軍医が「バクスターは狂っている」と過剰な診断書を報告したことで、ニュージーランドに帰国が許されたのでした。

帰国後、バクスターは平和団体「No More War Movement」を立ち上げたり、著作や講演活動を行いニュージーランドの平和主義活動の先駆者として活躍しました。

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4. ジャネット・ランキン 1880-1973(アメリカ)

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20世紀のアメリカの戦争に一貫して反対した女性議員

 ジャネット・ランキンはアメリカの伝説的な議員で、連邦議事堂内に銅像があるほど尊敬されています。アメリカ史上初の女性議員の1人であると同時に、第一次世界大戦、第二次大戦、ベトナム戦争と、アメリカが20世紀戦ったほぼ全ての戦争に反対の立場を鮮明にした気骨の塊のような人です。

1916年に下院議会選に出馬して当選。1917年にアメリカ議会は第一次世界大戦に参戦する議決をとったのですが、ランキンは他の女性議員を含む50名と共に「参戦の反対」の票を投じました。

当時の世論は圧倒的な「ドイツ征伐すべし」の声に満ちており、そのような流れに逆らうようなランキンの行動は国民の反感を呼び、次の選挙でランキンは落選しました。その後20年以上ランキンは政界に復帰できず、平和団体「平和と自由のための女性国際連盟」で活動。

第二次大戦が勃発しドイツが欧州を席巻中の1940年に、平和を訴えて再び当選。1941年12月に日本が真珠湾を攻撃すると「日本征伐すべし」の世論が沸き立ちますが、ここでもランキンは「反対」を表明。参戦可否を問う投票で唯一の反対票でした。

この時も世論の反発は凄まじく、怒り狂った暴徒によって虐殺されかねない状況だったため、警察の護衛に付きで移動しなくてはいけませんでした。

ランキンはその後選挙には出馬することはなく、その後は平和団体を率いながら反戦活動を行い、ベトナム反戦運動でも活躍しました。

 

 

5. フランツ・イーガーシュテーター 1907-1943(オーストリア)

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「私はヒトラーと神の両方に仕えることができない」

フランツ・イーガーシュテーターは若い頃は不良で村の少女に手を出して妊娠させるなどして大人たちの眉を潜めさせるような男でしたが、正式に結婚すると信心深くなり真面目に農業に勤しみました。

1938年、ヒトラーがオーストリア併合を図り、イーガーシュテーターの村長も「100%の支持」を表明していましたが、彼は村の青年で唯一反対を表明。

その理由は「私はヒトラーと神の両方に仕えることができない」という理由。ナチスは支配領域の青年を集めて勤労奉仕を求めますが、イーガーシュテーターはこれも拒否。村で孤立し、半ば村八分状態で彼の家族は貧困状態に陥り、それでも勤労奉仕を拒否したため危険思想分子として最終的に刑務所に入れられ、後にベルリンの刑務所に移されました。

イーガーシュテーターは妥協し、医療であれば勤労が可能と申し出ますがそれも拒否され、1943年にブランデンブルク刑務所で処刑されました。

 

 

6. マックス・ジョセフ・メッツガー 1887-1944(オーストリア)

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 宗教的観点からヒトラーに抵抗した活動家

マックス・ジョゼフ・メッツガーはオーストリア出身の活動家で、1920年代を代表する平和活動家です。彼はドイツ・カトリック教会やホワイトクロス十字軍協議会など、いくつかの団体のトップを歴任しており、ヨーロッパ中を巡りながら「宗教的寛容」や「アルコール乱用の禁止」「禁欲的生活」などを訴えていました。

ヒトラー台頭後、彼は「彼のために死ぬ何千人もの人々のことを考えれば、私はヒトラーを撃つことをためらわない」と述べ物議をかもし、ゲシュタポによって捕らえられてしまいました。

刑務所からはすぐに保釈されますが以降政治的な発言や活動は禁止され、宗教的な活動に従事していましたが、1943年に密告により再びゲシュタポによって逮捕され処刑されました。

 

 

7. カール・フォン・オシエツキー 1889-1938(ドイツ)

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Credit: Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183)

初めて刑務所にいながらノーベル平和賞を受賞した人物

ドイツとポーランドの国境にある小さな村で生まれたオシエツキーは、第一次世界大戦が始まる前まではジャーナリストとして働き、反戦の立場からドイツの軍縮に関する記事を発表していました。

ナチスが政権を獲得した後はワイマール憲法擁護と平和主義の立場からナチスを痛烈に批判する記事を書き懲役刑となるも、ヴェルサイユ条約に違反し軍備を拡張していることを告発する記事を書き国際的に発表したことで、反逆罪で有罪判決を受け収監されました。

1932年に一旦解放されるも翌年再び収監され、ソンネンブルクの強制収容所に移されました。ここは非常に過酷な環境で毎日強制労働を課せられ、心臓発作や結核の症状を患っていたため身体が急速に弱っていました。

1935年、彼は反戦ジャーナリストとしての活動が評価され、ノーベル平和賞を授賞。受刑者の身でノーベル平和賞を受賞したのは初めてのことで、史上アウンサンスーチー(1991年)・劉暁波(2010年)の3人だけです。ナチスはオシエツキーの平和賞受賞を事前に察知し阻止しようとしますが、結局妨害することはできませんでした。

ちなみにオシエツキーは当然式には出席できなかったので、弁護士の代理人がノルウェーに赴き賞金を受け取ったのですが、この男はオシエツキーのために保管せずに自分でカネを使い果たしてしまったそうです。

翌年に病気を理由に釈放され民間の病院に入院しますが、1938年に死亡しました。

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まとめ

 個人的には教条的な「平和主義」には与しないのですが、理念と行動が伴う平和主義者の言葉は重いものがあり耳を傾けなくてはいけないと思いますし、彼らのような存在がいたからこそ、人類は殺し合いをなくすためのシステムや道徳を構築していけるのだと思います。一見突飛で現実から乖離しているようなアイデアでも、時代がいつか彼らに追いつく時、その先駆者として時代のタイムラインに符合していくのでしょう。

ますます悪いことが起こる予感しかしない昨今ですが、年末年始に今一度、彼らの考えや生き様を学んでみるのはいかがでしょうか?

 

 ・ボンヘッファーの思想について

ボンヘッファー (Century Books―人と思想)

ボンヘッファー (Century Books―人と思想)

 

 

・ジャネット・ランキンの生涯

一票の反対―ジャネット・ランキンの生涯

一票の反対―ジャネット・ランキンの生涯

 

 

 

参考サイト

"劉暁波とカール・フォン カール・フォン・オシエツキー"

"自由と暴力" 同志社大学 キリスト教文化センター

 "10 Incredible Acts Of Bravery In The Name Of Pacifism" LISTVERSE