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羽地朝秀・琉球王国を大改革した男

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琉球王国の政治改革を成し遂げた傑出した政治家

羽地朝秀(はねじ ちょうしゅう 1617-1675)は琉球王国の政治家・歴史家。

1666年から7年間、国王を補佐する最高位である摂政に就き、琉球王国の行き詰った構造を打破し変革を成し遂げた人物です。

羽地が摂政に就く半世紀前、琉球王国は薩摩藩の支配下に置かれ、経済的に困窮すると共に、人心は乱れ勤労意欲は薄れ、どこもかしこも問題だらけの社会でした。

羽地は薩摩藩の支配下に置かれた現実を直視した上で、琉球王国の政治・財政・法制度の改革を行い、中世以来の琉球を脱し近代化に着手をしたのでした。

1. 王国を取り巻く厳しい環境

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Photo by 663highland

薩摩藩による軍事侵攻

 1609年、薩摩藩による琉球への軍事侵攻が行われました。

琉球王国も抵抗するも薩摩軍の圧倒的な軍事力の前に為す術なく敗れ、尚寧王や重臣たちは薩摩へ連行され、薩摩藩に忠誠を誓う起請文を書き、後に江戸にも渡り将軍徳川秀忠にも謁見し、帰国を許されました。

その後琉球王国は奄美諸島を割譲させられ、毎年の貢租の支払いを義務付けられ、また那覇に薩摩の在番奉行が駐留するなど、薩摩藩の実質的な支配下に置かれることになりました。

琉球国王の地位は薩摩藩主の下位に置かれるとされ、また琉球が起こした不祥事や事件は薩摩によって裁定されるなど、主体性を大きく奪われることとなったのです。

 

対中国関係

また、対中国関係も微妙なものがありました。

琉球王国は明王朝へ冊封を行っており、活発な明交易を行っていた国でしたが、1644年に明王朝は満州民族である清王朝に取って代わられました。琉球は始めは対清抵抗勢力である南明政権に従っていたものの、南明も駆逐され清の覇権が確定的なものになってから清の冊封を受け入れる方針に転換しました。

台湾を拠点に抵抗していた鄭成功の一派は琉球王国の変節を非難し、琉球の交易船を拿捕するなどの海賊行為を行ったため、南シナ海の治安は大いに悪化しました。

羽地が摂政の時代はまだ清への冊封を認めず、かつ南明も滅び抵抗勢力の拠点が台湾に移っていた微妙な時期で、対中国関係も難しい時代でした。

 

社会に漂う閉塞感

このように琉球王国を取り巻く環境は厳しく、その中で琉球の人々はすっかり自信を失い、社会は閉塞感に満ちていました。

国王はやる気を失い、首里王府は女官が幅を効かせ、役人は癒着や汚職まみれ。地方役人も酒に溺れたり遊女を囲ったりして、末期的でデカダンスな雰囲気が漂っていました。農村では腐った役人が農民に無理な取り立てを行ったり、接待を強要したりなど、まったく統制が行き届いておらず、勤労意欲を失った農民たちは田畑を棄てて都市に流れ込みました。おそらく都市の治安も悪化していたと思われます。

財政も相当悪化しており、「首里王府の財政は過分の借金体質になり、その額は年々増加して手のうちようもない程」であったらしく、危機的状態にありました。

1660年に首里城は全焼の憂き目にあってますが、通常3〜4年で完了する再建に約10年を要しており、財政が相当苦しかったことが分かります。

 

 

2. 羽地が改革しようとしたもの 

厳しい環境にあたって、羽地が変えようとしたのは「薩摩の軛から脱し元の独立王国に戻ること」でも「対中国関係を改善し清王朝の強力な庇護を受けること」でもありませんでした。

彼が変えようとしたのは「琉球王国内に巣食う悪癖や悪習を排すること」であり、動脈硬化を起こしかけていた王国の制度に大なたを振るって内部崩壊を防ぐことであったのでした。

 

そのために不可欠だったのが「首里王府の強化」「王府のスタッフの意識改革」でした。

当時は薩摩藩の支配下にあるとはいえ、薩摩藩は首里王府を抑えているだけで琉球王国の領土全般を握っているわけではなく、王国の地方支配は首里王府に頼らざるをえない状況でした。羽地は江戸・薩摩権力に従属しつつ、琉球王国内の経営改革によって王国の健全化を実現しようとしたわけです。

そのためには首里王府のスタッフのレベルアップを図り、かつ権限を強化して、無駄の排除やスリム化など上からの大改革を行いました。具体的には、古琉球以来の伝統行事の廃止、王府からの神女・女官の追放、地主・役人の不法行為の徹底取締り、地方役人の制度改革など

また羽地の改革を実行したスタッフからは後に有能な政務官が次々と生まれて、恩納安治(おんなあんち)や具志頭文若(ぐしちやんぶんじゃく)など、羽地の死後も羽地改革路線を継続し、琉球王国の近代化を実現していきました。

 

羽地は1673年に引退し、3年後の1675年に死去しています。

摂政としての7年間は激務に次ぐ激務だったようで、羽地の政治改革が編纂された「羽地仕置」には

昼となく夜となく、全精力を投入して勤めてきたので、改革の大枠は整った。末端の百姓に至るまで豊かになったのは、憚りながらも私の功績である。私の根気は今や疲れ果て、しかも老衰してこれ以上の仕事は無理なので引退したい。もしニ、三年生きながらえることがあるならば、のんびり休養したい。10年、20年奮闘した人がいたとしても、私の7年間の実績には遠く及ばないだろう

と述べられており、精も根も尽き果てた様子で、ただし自分の功績には心からの自信を持っているようです。

 

▽沖縄県那覇市首里平良町にある羽地家の墓

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Photo by やちむん

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3. 改革によって琉球はどう変わったか

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さて、では羽地が主導した改革によって、琉球王国はどのように変化したのでしょうか。

羽地改革を大きく括ると、

  • 王家から庶民に至るまで贅沢を禁じ質素倹約を奨励する
  • 遊女遊びなど、退廃的な風紀を正す
  • 効率的な政治運営を妨げる伝統的な神女や女官を排除するなど、伝統行事を合理化する
  • 役人の不正を取り締まり、領地の首府による直接統治を行う
  • 農村の復興を図り、農民に開墾を奨励する
  • 士階層に諸芸を学ばせ教養を磨かせる

 というもので、財政や風紀の健全化、勤勉倹約の奨励による筋肉質な体制を作り上げることにあるように思えます。特にこれまで長い間続いていた伝統行事や慣習を放逐するのはかなりの抵抗があったに違いなく、おそらく羽地も冷血な手段に訴えても実行したに違いありません。

この羽地改革は現代の沖縄の特徴にもなっている大きな変容を社会にもたらしました。

 

首府による地方の直接統治

 羽地が行った行政改革の目玉は、主に先島諸島など地方の「首里首府による直接統治」です。

それまで地方の役人は地元の人間が担っており、行政側と住民側との間に馴れ合いによる不正やごまかしが慣習化していました。そこで羽地は地方の在番役人を中央から派遣し、彼らが3年ごとに異動勤務する形態を採用。「島の外の人間」による統治が行われることになり、地方を問答無用で中央の組織の中に組み込む制度に変更されたのです。

その当時の人間からすると、それまでは何となくユルい感じで、なぁなぁでやってこれたのに、厳しい時代になったという感じだったでしょう。

 

エリート階級の設定

羽地が行った組織改革の中で大きかったものは、国家運営を効率的に遂行するエリート層の教育と育成です。羽地は身分制を厳格化して「士階級」を新たに設定し、この層にエリート教育を集中的に投資することで効率的な国家運営を可能にしようとしました。

士階級は正式な「家系図」を王府に提出でき、その正当性が認められた家のみで、それ以外はすべて百姓と位置づけられました。

それまでは琉球では個人単位での活動が主で家族という単位は重要視されなかったのですが、羽地の改革により初めて父系的論理が登場し、家柄が重要視され、祖先祭祀を行ったり一族の墓を設置する習慣が生まれたのでした。

さらには、士階級の間で教育が重要視され教育水準が上がると、算術や医術、漢学といった実学のみならず、詩や絵画、茶道、料理といった文化的な発展も進み、独自の美意識やライフスタイルを生み出し「琉球らしさ」が尊重されるようになりました。

 

都市の発展

羽地の統治以降、琉球の人口は上昇に転じ、12万人台だったのが80年後には18万人にまで増加しました。八重山地区でも、1675年は5316人だったのが、1753年には2万6285人と5倍近くにまでなっています。

その大きな要因が都市(町方)の拡大でした。

琉球では都市は町方と呼ばれ、首里を中心に那覇四町(西・東・泉崎・若狭町)と泊村・久米村を加えたもので、18世紀中頃には約2割が町方に住んでいました。

町方の拡大の要因は新たに設定された士階級の誕生にあります。

基本的に無生産者である士階級が現れたことで、食品、生活用品といった産業は勿論、貸金業、医者、飛脚、娯楽など多様な産業に巨大な需要をもたらし、都市での生産やサービス業が活性化され、百姓階級の人々は都市でのビジネスを展開すべく町方に押し寄せたのでした。

また、首府による地方の掌握が進むと、役人が船で地方に向かう機会も人数も増えたため海上交通が発展し、地方の港を中心に都市化が進むことになりました。

海上交通が発展しヒト・モノ・カネが活発に流れると、琉球内の交易だけでなく、中国や薩摩との交易においても新たなビジネスが生まれていったのでした。

 

土地の効率的な利用

羽地は農民の積極的な開墾を奨励し、その結果収穫高は大幅に増加したのですが、その反動で林野の乱開発を招き、薪の不足、牧畜の不振、防潮林の不足による塩害の拡大といった負の側面も生まれました。

そのため、18世紀中頃に大臣を勤めた具志頭文若(ぐしちやんぶんじゃく)は、山林資源の保護のみならず、土地の効率的な利用を目指した土地改革を進めました。

薪の需要に応えるために、山林資源の保護と管理システムの整備を進め、また農業の効率化のために痩せた土地に村を集め、高所に墓地を移設し、肥えた土地を新たに田畑に指定しました。また、海岸線に防潮林を植えて管理システムを整備し、田畑・集落・放牧地・墓地など利用上の区分けに応じて土地利用を明確化し、碁盤の目状に区画し、現在も見られる沖縄の風景が誕生したのでした。

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まとめ

琉球王国が比較的コンパクトであったこともあるかもしれませんが、これだけの大改革をわずか7年間でやり遂げたのは本当に凄いことです。 

薩摩藩の支配により琉球王国が酷い目にあったのは事実なのですが、琉球も黙って搾取され続けたわけではなく、自らの手で改革を行い、土地改革、産業振興、都市化、人口増加を成し遂げたのでした。

短絡的な人間だと、「かつての栄光の琉球王国を取り戻そう」と軍備拡大と薩摩藩との戦争に打って出るところだと思うのですが、羽地朝秀はそうはせず、いまある環境の中での自己改革で危機を脱しようとしたところが評価されるべきだと思います。

 

 

参考文献

岩波講座 世界歴史 13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成 琉球王国の変容 -自己変革の思念、「伝統」形成の背景-

 

関連書籍

沖縄の歴史と文化 (中公新書)

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